京都逍遥

◇◆◇京都に暮らす大阪人、京都を歩く

神泉苑と古典

2024-03-05 12:45:41 | 国文学

ブログを再開して間がないからか、下書きが消えてしまうという不運に見舞われた。カテゴリーは追加されているのに、追加後に書いたものが消えるなんて。

神泉苑立て看板の「五位鷺」より、謡曲ほか国文学関連に現れる神泉苑を確認してみた。

以上、南側の立て看板。五位鷺の内容は、次のHPに詳しい。

 

銕仙会 能楽辞典:鷺 | 銕仙会 能楽事典 (tessen.org)

the能ドットコム:能・演目事典:鷺:あらすじ・みどころ (the-noh.com)

 

神泉苑HPでも同様、五位鷺について言及している。

神泉苑:神泉苑の歴史 (shinsenen.org)

 

一方、『今昔物語集』『宇治拾遺物語』に見える話は神泉苑にとってありがたい話ではない。

 

******************************

 [一四五]穀断の聖、不実露見の事

 昔、久しく行ふ上人ありけり。五穀を断ちて、年ごろになりぬ。

帝きこしめして、神泉に崇め据ゑて、ことに貴み給ふ。木の葉をの

み食ひける。もの笑ひする若公達集まりて、この聖の心みんとて、

行きむかひて見るに、いと貴げに見ゆれば、「穀断ち、幾年ばかり

になり給ふ」と問はれければ、「若きより断ち侍れば、五十余年に

まかりなりぬ」と言ふを聞きて、一人の殿上人の言はく、「穀断ち

の糞はいかやうにかあるらん。例の人には変りたるらん。いで行き

て見ん」と言へば、二三人連れて行きて見れば、穀糞を多くひりお

きたり。怪しと思ひて、上人の出でたる隙に、「ゐたる下を見ん」

と言ひて、畳の下を引きあけて見れば、土をすこし掘りて、布袋に

米を入れて置きたり。公達見て、手をたたきて、「穀糞の聖、穀糞

の聖」と呼ばはりて、ののしり笑ひければ、逃げ去りにけり。その

のちは、行方も知らず、長く失せにけりとなん。

 ※『宇治拾遺物語』 (新潮日本古典集成)より全文引用

   ただしルビ・傍注は省略

******************************

一読して概要を掴めるので、口語訳の必要はないだろう。

同書の頭注に、『今昔物語集』巻28第24話が「これと同話に当る」とあり、その原典が「『文徳実録』斉衡元年(八五四)」の記述だとしている。つまり、史実を説話(教訓)として語り伝えてきた、ということである。

*******************************

○乙巳 備前國貢一伊蒲塞  斷穀不食 有勅安置神泉苑 男女雲會 

觀者架肩 市里爲之空 數日之間 遍於天下 呼爲聖人 各々私願 

伊蒲塞仍有許諾 婦人之類 莫不眩惑奔■ 得月餘日 或云 

伊蒲塞夜人定後 以水飮送數■米 天曉如廁 有人窺之 米糞如積 

由是■價応時■折 兒婦人猶謂之米糞聖人

 *『日本文徳天皇実録』(国立公文書館デジタルアーカイブ巻五・巻六 p.34)

 :日本文徳天皇実録(archives.go.jp)

   ただし読み取れない文字は■で表示

*******************************

備前国から献上された穀断ちの在家僧が、帝によって神泉苑に据え置かれて都の人々の崇敬を集めていたが、実は穀断ちは嘘だった、その後は女子どもから「米糞聖人」と呼ばれた、という内容である。冒頭で述べたように、いい話ではない。が、ここからは神泉苑の由緒――帝が崇める僧を据える場所だったこと――が読み取れる。

 

ついでに、全文引用した『宇治拾遺物語』(新潮日本古典集成)の頭注について

参考書籍は初版なので、もしかしたらすでに訂正済みかもしれないが、頭注17に神泉苑の場所を「神泉苑町」としているのは誤りで、「門前町」が正しい。

 

2024年3月6日追記:新潮日本古典集成新装版(令和元年6月発行)を書店で確認したところ、訂正されていなかった。基本的な校正ミス。

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神泉苑2

2024-02-22 12:05:31 | まち歩き
前回の投稿の続きである。神泉苑は、成立経緯①によると、大内裏に隣接する禁苑としてつくられた。ならば菊の御紋があるはず、と再確認。

善女龍王社本殿に、菊の御紋の金飾りと丸瓦を見つけた。


お社手前にある能舞台(?)には「泉」の刻印がされた軒飾りの瓦と軒丸瓦が。



不動明王・観世音菩薩を祀る本堂の軒丸瓦は細めの左三つ巴のまわりに十六曜(?)と12弁の菊紋で、軒先には龍。




弁天堂には左三つ巴の軒丸瓦、鬼瓦の代わりに鯰の瓦。


神泉苑HPでは「弁天様の眷属神として鯰(なまず)が彫られています」とあるが、出典不明。神仏と関係する伝承に阿蘇の大鯰があるが、鯰は退治された側である。弁天あるいは宇賀神とのつながりはわからない。出典はなく、鯰を眷属としたのであろうか。あちこちの寺社で瓦を見たが、鯰は初めてで、ちょっと面白い。軒先には宝珠のようなものが見える。
神泉苑:http://www.shinsenen.org/benten.html


神泉苑の由緒、関係するものごとについては、立て看板も参考になる。



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神泉苑

2024-02-20 15:42:40 | まち歩き
8年ぶりに書く気になり、ページを開けてみたら、ずいぶんと体裁が変わってしまい、がっかり。
さて、うまく編集できるか。やる気は続くか。

神泉苑に出かけたのは1月1日。以前は「平八」の看板が大きく掲げてあり、店に行かないなら苑内に入りづらいと思われ、足を踏み入れたことはなかった。京都にしばらく来ていなかったので事情を知らなかったが、通りに面した看板もなくなり、店舗も見当たらない。平八は退去したようだ。検索してみると、賃料不払い訴訟により、2022年立ち退き、などとあった。裁判所HPの下級裁判所裁判例速報で京都地裁の該当日を検索したが、判例は掲載されていなかった。「本裁判例情報には、すべての判決等が掲載されているわけではありません」とあるので、重要事案ではなかったということだろう。個人的には店舗がない方が、風情があっていいと感じる。

次の画像は御池通(南)に面した鳥居で、善女龍王社へお参りする人たちは、鳥居の外まで並んでいた。ここに並ぶと、善女龍王社の手前にある恵方社(列右手中央辺り)の前を通ることになる。言い換えると、ここに並ばないと、恵方社へのお参りは気を遣う。



恵方社は毎年向きを変え、その年の恵方に向けられるものであるらしい。

下の画像は押小路通(北)に面した入口である。ここから心鏡の池を通り過ぎて願い事を念じながら法成橋を渡ると、心願成就をたのむべき善女龍王社の前に出る。拝殿前に参拝の列が伸びていると、上記のとおり鳥居の外に出て並んでから参拝することになる。



真っ白でふくふくとした、きれいな数羽のアヒルたちは、人間によく馴れていた。

年末年始は法成就池を回遊して庭園見学ができる、とのこと。

ただ、残念なことに樹木の手入れをあまり重視しておられないようで、池の裏手から社や橋を見ようとしても、木々に遮られ、庭園拝観という風情ではなかった。


辰年の今年、龍王への参拝はご利益がありそうで、しっかりお参りを済ませ、初めて御朱印も頂いた。

神泉苑については祇園御霊会の発祥という程度の知識しかなく、「苑」なのに鳥居?真言宗?ということで、少し調べてみた。

神泉苑公式HP(http://www.shinsenen.org/kaisetu.html)によると、次のような経緯をたどったとのこと。
①794年平安京の禁苑として桓武天皇により造営
②800年桓武天皇行幸
③812年嵯峨天皇の花宴(「桜の花見」初出)
④824年弘法大師空海の善女龍王勧請による祈雨
⑤869年祇園御霊会
⑥江戸時代、家康による二条城築城で苑域北部を接収
⑦1607年~筑紫の快我(覚雅)上人による 再興で東寺管轄寺院に
⑧1788年天明の大火により多くが消失
⑨1889年までに再建

『都名所圖會』の翻刻文でも、⑦までの経緯は確認できる。
『都名所圖會』翻刻文(日文研):https://www.nichibun.ac.jp/meisyozue/kyoto/pdf/kyoto1_pdf/km_01_01_043_02.pdf

善女龍王という名の龍神を勧請したこと(④)から、鳥居があるのだと納得。
池の手前には龍神と同一視される弁財天を祀った弁天堂もある。ただし『都名所圖會』では、辨財天社は池に建てられており、橋を渡ってお参りしたようだ。当時と今では地形や配置が違っていることがわかる。


『都林泉名所』の翻刻文からは、「神泉」の名の由来が『拾介抄』(~1294年)にみえることがわかる。ただし、『拾介抄』をざっと見たところ、該当する記述を見つけられなかった。ついでに、『拾介抄』では神泉苑は「祈雨11社」に挙げられておらず、「建保の頃より荒廃に及ぶ」とした『都名所圖會』の記述を裏付ける。
『都林泉名所』翻刻文(日文研):https://www.nichibun.ac.jp/meisyozue/rinsen/pdf/pdf1/km_03_01_012.pdf
『拾介抄』(京都大学貴重図書デジタルアーカイブp.167):https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00007919#?c=0&m=0&s=0&cv=166&r=0&xywh=506%2C64%2C3253%2C1023

また、苑域の縮小(⑥)について、元の敷地の場所と広さは『拾介抄』で確認できる。
「二條南大宮西八町三條北壬生東」
『拾介抄』(同上):https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00007919#?c=0&m=0&s=0&cv=137&r=0&xywh=2006%2C340%2C1129%2C355
『拾介抄』(国立国会図書館デジタルアーカイブ[4]「神泉院」):https://dl.ndl.go.jp/pid/2543900/1/38
神泉苑の場所を示す地図も、上記アーカイブには掲載されている。
『拾介抄』(同上):https://dl.ndl.go.jp/pid/2543900/1/73、https://dl.ndl.go.jp/pid/2543900/1/72

元の敷地を現在の地図に落とし込むと、東西約300m×南北約560mとなる。
東西の幅は、二条城南側歩道に建てられた石碑で確認できる。市営地下鉄東西線建設時の発掘調査により確定されたものであるらしい。
東端を示す石碑は、現神泉苑の少し東、西端を示す石碑は二条城西南隅櫓の少し東に位置する。



南北の長さは、上記『拾介抄』の記述によるなら「二條南」すなわち二条通の南であるから、北端は現在の二条城敷地の中央辺り、また、南端は同記述の「三條北」すなわち三条通の北である。現在の三条会商店街の八坂神社御供社(又旅社)には、この場所が南端である旨、記されている。


なお、現在の神泉苑の南西を神泉苑通が南北に走り、その通りを挟んで神泉苑町がある。神泉苑のある場所は、門前町。

地名ついでに「御池通」に言及するなら、「御池」は神泉苑の法成就池のこと、と一般に言われている。ほかにも御池町(御池通室町上ル)という町名が由来との説、藤原(二条)良実(1216-1271)別邸の池に由来するなどの説がある(以上、レファレンス協同データベース)。なお、現在の御池之町の東側に二条殿町が隣接する。ここは二条良基(1320-1388)の邸宅(二条殿)のあった場所で、敷地内の龍躍池が由来とする説(京都通百科事典)は、上記の最後の説と同一であろう。
レファレンス協同データベース(京都府立京都学・歴彩館):https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?id=1000257610&page=ref_view
京都通百科事典(二条殿跡):https://www.kyototuu.jp/Sightseeing/HistorySpotNijyouDonoAto.html
さまざまな説があり、解決をみていないというのに、京都市のHPでは神泉苑の池が由来との説のみを紹介していた。
京都市情報館(御池通の概要):https://www.city.kyoto.lg.jp/tokei/page/0000004448.html

いろいろ調べて書いてはみたが、ChatGPTを使えば一瞬で終わるのだろうと思うと、書く意味は?と思ってしまう。
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第63回日本伝統工芸展京都展

2016-10-15 00:33:51 | アート・文化
10月12日~17日の期間、京都高島屋7階グランドホールにて第63回日本伝統工芸展京都展が開催されている。
ずらっと並ぶ工芸作品の、その技量に圧倒される。
今回気になったのは、截金飾筥の数々。とんでもなくこまかい細工、金のきらめき。入り口近くに展示されていたそれら一つ一つに吸い寄せられるように近寄ったのだった。それにしても、この飾筥というのは、どこからどこまでが蓋?入れ物としての用をなさないのだろうか。

金工で日本工芸会長賞受賞の『鍛矧合壺「線」』、作品前に置かれた受賞作品解説を読んで驚いた。線状の金属を接ぎ合わせる?これは見てみないと、すごさは分からない。

陶芸を最も楽しみにしていたが、どうしてあんなに大きいものばかりなのだろう。実際に触ることはできないが、きっと重すぎる。飾るにしても、運ぶのが大変。実用的ではないと感じた。

染織では、刺繍の着物のすごさに目を見張り、経浮織男帯『麦秋至』、繍箔裾文様訪問着『若松』に惹きつけられた。

さて、本展のチケット写真になっている文部科学大臣賞縠織着物『海に聞く』。この「縠織(こめおり)」という言葉を初めて聞き、調べてみた。
「からみ織りの一種。粟粒のような点で文様を表す。薄くて透けた夏用の布。こめ。」(『大辞林』三省堂)
コトバンク https://kotobank.jp/word/%E7%B8%A0%E7%B9%94%E3%82%8A%E3%83%BB%E7%B8%A0%E7%B9%94-269623
「縠 釋名云縠……其形〇〇視之如粟也……」(『倭名類聚抄』巻第十二 布帛部第二十 錦綺類百五十九)
*〇は糸偏に戚
国立国会図書館デジタルコレクション http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2544221?tocOpened=1

手持ちの紙辞書で確認してみる。
角川『新字源』改訂版三八版:「縠(コク)」ちりめん。しわもようのある、うすでのちぢみ絹。「羅縠 らこく」
大修館書店『新版 漢語林』八版:「縠(コク/ゴク)」うすでのちりめん(縮緬)。しわ模様のある、やや目が粗い薄い絹織物。
集英社『国語辞典』初版:「縠織(こめおり)」織り目の透けた、薄い絹織物。紋紗 もんしゃ の類。

「縠織」が掲載されている集英社は、三省堂と同様、実物に即した解説であった。
しかし、本来の「縠」の意味は、角川・大修館にある通り、縮緬である。受賞したきものは、夏向きの薄手の絹織物ではあるが、縮緬のシボはなかった。しかも「縠」に「こめ」という読みも意味もない。

「縠織=こめおり」という言葉は、いつかの昔に誰かが「縠」と「穀」とを混同して読みと意味を取り違え、それが現在にまで続いているように思えてならない。

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『琳派からの道 神坂雪佳と山本太郎の仕事』

2015-10-23 23:17:25 | アート・文化
10月23日~11月29日の期間、JR京都伊勢丹の「美術館『えき』KYOTO」で開催されている展覧会。
山本太郎の絵は、いつだったか新聞紙上で『紅白紅白梅図屏風』を見、どのようなものだろうと気になっていた。その山本が、この琳派400年記念に合わせ『マリオ&ルイージ図屏風』を制作したという。もちろんスーパーマリオ30周年記念という意味合いも込めて。先達へのオマージュと受け取れる作品群、能を題材にしたものなど「ニッポン画」の数々が展示されていた。

神坂雪佳といえば、「近代図案コレクション(芸艸堂)」の『美術海』『新美術海』『琳派模様』に見られるように図案画家として、また『琳派を愉しむ(淡交社)』にあるように琳派の継承者として知っていた。しかし今回の展示で、その広範な仕事を知ることになる。

神坂雪佳は、日本画を勉強したのち川島織物に入社し、織物図案を担当していた。その下絵と実際の織物とが並べてある。次いで当時の図案画家第一人者である岸光景に師事し、工芸図案と琳派の研究を始めている。今も夷川通に店を構える宮崎家具の『家具図案集』、細見美術館蔵の『竹図角盆』でその仕事を見ることができる。特に後者の、正方形の黒漆塗盆に朱で描かれた竹が力強い。茶碗の絵付けも、袱紗の絵も、蒔絵硯箱も、手がけた工芸品は多岐にわたる。

神坂雪佳で今回のお気に入りは、『藤波図和歌短冊及短冊掛』。古今和歌集3-135(よみ人知らず)「わかやとの いけのふちなみ さきにけり 山ほとゝきすいつかきなかむ」を書と絵で表したものである。好みが分かれるところだろうが、私は気に入った。

さて、山本太郎である。冒頭の屏風二点は見応えがあった。抱一・基一を好む素人の感想だが、たらしこみは乱暴だと感じた。『立春清涼飲料水紋図』『雪中~』『秋草~』のシリーズ三点の絵葉書を買おうとしたが、売っていない。『御帰り観音流三太尊』は、横尾忠則を連想する。

展示は「Ⅰ神坂雪佳、Ⅱ神坂雪佳―山本太郎、Ⅲ山本太郎」としていて、わずかに数点のみが、近現代琳派の比較。テーマを神坂雪佳に限定しているからだろうが、宗達・光琳の大作アレンジが、今回の目玉のはず。テーマを変えるべきではなかったか。風神雷神も、紅白梅図も、金魚も、見に来るような人はたいてい知っているのだろうが、それでも写真パネルでもあれば、なおよく分かったのに、と思う。『砧図』展示解説の「砧」に「はまぐり」とルビを振ったりして、思わずどこの主催かと確認してしまった。主催者の責任もあろうが、展示作品貸出側も解説には目を通すべきではないだろうか。いい加減な仕事をしては、作品出品者に失礼だ。

***追記(12月14日)***
山本太郎の新作「『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』風神レイ&雷神カイロ・レン屏風」が清水寺で11月30日に披露された、と新聞で読んだ。スターウォーズ新作公開記念なのだとか。掲載された写真を見ての感想は、“おなかいっぱい”。
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