先週に続いて、非公開文化財特別公開の、初公開の寺へ。西方寺という名前の寺は、京都市内だけでも9箇所はあるが、ここは左京区北門前町、東大路通沿いにある。山号・願海山、院号・法性覚院。藤原経宗(左大臣大炊御門経宗)が開いた浄土宗のお寺である。先週行った大蓮寺のすぐ東にあり、宝永5年(1708年)の大火によって、現在地に移転した。聞けば、この辺りのお寺は大体同じような頃に移転してきているという。とすれば、前回書いた「強制疎開」は大蓮寺に限り、ということになる。
この寺も、やはり移転を繰り返している。一条新町から、両替町竹屋町上ル西方寺町、寺町椹木町、そして現在地。御所の西から南西、南東、川を渡って南東へと、移ったことになる。3番目の寺町は、勿論、秀吉の都市計画による。ところで、2番目の地名、これは西方寺があった場所だから、この地名が今も残っているのだ。中京の地図を見ると、〇〇寺町という町名が、結構ある。宝永の大火では、四条から今出川までが焼け野原になったと言うから、それらの町名は、元、寺があった場所ということになるだろう。中には西方寺のある新洞学区に移ってきた寺の名前も見える。大恩寺町、竪大恩寺町、要法寺前町、正行寺町。
この寺は、開基の大炊御門家、宇多天皇一門の綾小路家、五辻家の菩提寺である。お寺の方に教えて頂いたところによると、公家の寺は、塀に5本の線があるらしい。
ご本尊の阿弥陀如来は、丈六の座像。とにかく大きい。本堂の奥に天井の高い土蔵造りの部分があって、そこに安置されている。台座、光背、本尊、勢至菩薩・観音菩薩は、それぞれ別だったものを一つ所に纏められたのだという。残念なことに、その火災によって資料が失われてしまい、どのような由来のものかはわからないらしい。
光背については、興味深い説明があった。宗派は浄土宗だが、光背は13仏の並び方からして他宗のものらしい。浄土宗では、中央に不動明王はこないのだそうだ。今日は天気が悪かったのであまり見えなかったが、門の前にあった看板で確認すると、確かに真っ赤な火焔光背を背にした不動明王が、中央にある。また、調べてみると、浄土宗の光背は舟形で、真言宗の光背は円形あるいは円と舟形の合体したもの、あるいは円が二つ重なったもののようだ。堂内は写真撮影禁止だったので、看板から。これはどう見ても円形だ。宗派に捉われない飾り方をしてもいいのだ、と驚く。
土蔵造りは、外壁を土壁にして漆喰で仕上げ、耐火性能がある。火災を嫌って、祭壇には蝋燭を点さず電灯にしているというのに、この土蔵の扉は、心もとない。薄くて、なんだか板戸のようだ。
堂内には秀吉の座像があった。菊紋と五三桐紋を散らした着物を身につけていた。秀吉は、やはり五三桐を使用していたのだ。
雨は降っていたが、茶室も見学。堂内でも、休憩所でも、茶室でも、それぞれ解説を担当する学生さんがいるので、分かりやすくて助かる。
寺紋は、三つ葉葵。徳川専用の紋だが、どういう由来だろう。これは、お寺の方に聞いても分からなかった。
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