第三十八番 華厳寺
人びとが生まれ変われる満願の寺
華厳寺は「谷汲さん」の愛称で親しまれている。桓武天皇が延暦17年(798)に草創し、開祖は法然上人。本願は奥州会津出身の大口大領。大口は十一面観世音の尊像を建立したいと願って、奥州の文殊堂に参篭して有縁の霊本が得られるようにと請願をたて、七日間の苦行をする。七日目の満願の明け方に十四、五の童子(文殊大士と呼ばれる)のお告げにより、霊木を手に入れることができた。霊木を手に入れた大口は、都に上りやっとの思いで観音像を完成させた。その像を京から奥州に運んでいこうとすると、観音像は近くのあった藤蔓を杖にし、笠をかぶり、草鞋をはいて自ら歩き出してしまった。途中美濃国赤坂(現:岐阜県大垣市赤坂)に差し掛かったとき、観音像は立ち止まり「遠い奥州の地には行かない。我、これより北五里の山中に結縁の地があり、其処にて衆生を済度せん」と述べられ、奥州とは異なる北の方角に歩き出した。しばらくして谷汲後にたどり着いたとき、観音像は歩くのをやめ突然重くなって一歩も歩かなくなったしまった。大口はこの地こそ結縁の地だろうと思い、この地に庵を結ぶこととした。この地に、三衣一鉢、誠に持戒堅固な法然上人という聖が住んでいたので、大口は上人と力を合わせ山谷を開き、堂宇を建てて観音像を安置することとした。するとお堂の近くの岩穴から油が滾々と湧き出し尽きることが無いので、それより先は燈明に困ることがなかったという。華厳寺という寺号はのちについたもので、それ以前は谷汲寺と呼ばれていたようだ。華厳の名は、本尊の十一面観世音菩薩像に華厳経が書き込まれていることによる。
参拝日 平成29年(2017)9月27日(木) 天候晴れ
所在地 岐阜県揖斐郡揖斐川町谷汲徳積23
山 号 谷汲山 宗 派 天台宗 本 尊 十一面観音(秘仏) 創建年 延暦17年(798) 開 山 法然上人 開 基 大口大領 正式名 谷汲山華厳寺 札 所 西国三十三所第33番 文化財 木造毘沙門天立像(国重要文化財) ほか
公共交通機関を利用して寺参りをしている吾輩にとっては、かなり工夫の要る。名古屋から東海道線大垣駅まで40分。大垣から樽見鉄道線に乗り37分。谷汲口駅で下車し前から揖斐川町コミュニティバスで10分。それぞれ便数が少ないので、よほど行程を詰めておかないと大変なことになる。
9時50分に樽見線谷汲口駅に到着。単線で上下共用のホームは風情があり、なんとも遠くに来た感じがする。
総門 総門のある所でバスを降りる。
総門から約1000mの真っ直ぐな参道。両側にソメイヨシノの桜並木。そしておみやげ屋や食堂、旅館などが並ぶ。
境内図
仁王門 宝暦年間(1751~1764)に再建。入母屋の3間の二重門。
西国三十三所の最後の33番目の寺で「西国三十三番満願霊場」の石碑。
複雑な木組みを見せる仁王門。
仁王門の金剛力士像
仁王門に飾られた満願を記念して奉納された大わらじは2mほどの大きさ。
仁王門を潜ってからもまだ参道は続く。
春は桜、秋は紅葉の景勝地でもある。
仁王門を入ると聖句が掲げられていた。弘法大師と道元禅師のことばが掲げられている。聖句は神聖な言葉ということで聖書にある語と思ったが仏語にもあるようだ。
百鹿石
お焼香場
手水場
長い参道をとおり境内の奥の石段を上り本堂に向かう。
石段を登り始めた右手に唐屋根の三十三所堂がある。
正面の軒下の彫刻が見事。元々は色彩が施されていたのだろう。
本堂への階段をこれから上る。
西国巡礼の皆さんが、おそろいの法被を着てお参り中。
本堂正面の向拝廻り。
本堂 明治12年(1879)に豪泰法印によって再建。入り母屋造り、正面5間、側面4間の外陣部の奥に、棟を直行させて内陣部が接続する。
本堂の向拝から広縁まわり。
向拝の左右の柱には「精進落としの鯉」と称する、銅製の鯉が打ち付けられている。西国札所巡りをこの寺で満願したものは、その記念にこの鯉に触れる習わしがある。
本堂外陣を見る。
谷汲山の扁額。
お焼香場。
本堂の内陣。本尊は十一面観音、脇侍として不動明王像と毘沙門天像(国重要文化財)を安置するが、いずれも非公開。
本堂の外陣。堂内右手に納経所、地下に戒壇巡りがある。
広縁から向拝を逆に見る。
9月の緑は、これから紅葉になり、春は桜の名所と四季折々を楽しめる。
山の傾斜地に建てられたこともあって本堂の全景を見ることは容易ではない。
鐘楼堂。
笈摺堂 本堂の背後にある小さなお堂。第65代天皇だった花山法王が禅衣(笈摺)、杖、および三種の御詠歌を奉納した。この堂にはいまでも、西国三十三所巡礼を終えた人々が奉納した笈摺、朱印帳とともに、多数の千羽鶴が置かれている。千羽鶴は折鶴(おりつる)で、笈摺(おいづる)にちなむことからのようだ。
苔の水地蔵尊 花山法王の御詠歌に由来する地蔵尊。自分の痛いところと同じ場所に札を張り水をかけて願う。
満願堂 本堂の裏手、笈摺堂を過ぎて階段三十三段を上がったところに建つお堂。周囲には満願の字が刻まれた狸の石像が並ぶ。巡礼者はここで納め札を治める。
笈摺堂から本堂を見る
本堂屋根の切り妻部分。
参拝を終えての帰りの石段の景色。秋は紅葉で真っ赤になるという。
西国三十三所巡りの巡礼者たち。
庫裡や内仏客殿の堂宇群がある
正面は庫裡の玄関、右手が内仏客殿。
塔頭の明王院
法堂
帰りの参道景色
帰りの仁王門。
仁王門前の参道景色。
満願蕎麦、満願うどんが名物。帰えりの旅を祈願し食べるとよい。
この辺りは東海道自然歩道が整備されているようだ。
案内図
五木寛之著「百寺巡礼」よりー
インドでは、人間の一生というものを四つに分けている。最初は学んで勉強する。それを「学生期」という。次に社会人となって結婚をして大いに社会に貢献する。その時代を「家住期」という。さらに、非常に早く現役をリタイアして、山林などに隠遁し、人生とはいうふうに振り返る。その施策の時期を「林住期」という。あの鴨長明なども、五十歳の半場ごろには京都郊外の日野の自然のなかに住んで方丈記を書いた。そして「林住期」をすぎると、四つ目の「遊行期」に入る。「遊行期」には、自分の最後の死に場所のようなものを求めて、あてもなく旅にでる。インドにおいては、たとえばガンジス川の河畔をめざすとか、そういう旅にでたいのだろう。この「学生期」「家住期」「林住期」「遊行期」が人生の四つの大きなプログラムになっていた、というのである。そう考えると、「遊行期」のあてどない死への旅というのが、そもそも巡礼だったのではないかと考える。そうして西国三十三所巡礼では、一度、死への旅を体験することによって、ふたたび現生に生まれ変わる。生まれ変わって、新しい人間として元気よく生きていくのである。
御朱印
華厳寺 終了