『五木寛之の百寺巡礼』を往く

五木寛之著「百寺巡礼」に載っている寺100山と、全国に知られた古寺を訪ね写真に纏めたブログ。

24 龍安寺

2023-08-20 | 京都府

古寺を巡る 龍安寺

 

二泊三日の京都巡りは、家族同伴である。昨日は東山方面で、清水寺と高台寺を参拝した。宿は鷹峯地区にあるホテルなので金閣寺に近い。 今日の最初は金閣寺で、二番目の参拝寺が竜安寺である。世界遺産で世界的にも有名、特に石庭の有名な寺院である。何十年ぶりの参拝である。

 

 

参拝日    平成30年(2018)3月1日(木) 天候曇り

 

所在地    京都府京都市右京区龍安寺御陵下町13                      山 号    大雲山                                     宗 派    臨済宗妙心寺派                                 寺 格    妙心寺境外塔頭                                本 尊    釈迦如来                                   創建年    宝徳2年(1450)                               開 山    義天玄承                                   開 基    細川勝元                                   文化財    方丈(国重要文化財)ほか

 

竜安寺の歴史  

 衣笠山山麓に位置する龍安寺一帯は、永観元年(984)に建立された円融天皇の御願寺である円融寺の境内地であった。円融寺は徐々に衰退し、平安時代末期には藤原北家の流れを汲む徳大寺実能が同地を山荘とした。この山荘を細川勝元が譲り受け、宝徳2年(1450)敷地内に龍安寺を建立した。細川勝元らと山名宗全らが争った応仁の乱の際、細川勝元は東軍の総大将だったため、龍安寺は西軍の攻撃を真っ先に受け、応仁2年(1468)焼失してしまった。勝元は寺基を洛中の邸内に一時避難させた後、現在地に戻すが、勝元は文明5年(1473年)に没す。長享2年(1488)勝元の子・細川政元が龍安寺の再建に着手、政元と四世住持・特芳禅傑によって再興され、明応8年(1499)には方丈が上棟された。その後織田信長、豊臣秀吉らが寺領を寄進している。

 

 

 

山門   江戸時代中期再建。宝暦5年(1755)洪水により破損し再建。

 

 

 

 

 

山門を振り返り見る。

 

 

山門を入り砂利道の参道をすすむ。

 

 

 

 

参道の木々から見え隠れする鏡容池。周囲は池泉回遊式庭園になっており、年間を通じて四季それぞれの花を楽しめる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

方丈への参道。石段の両脇に組まれた竹垣は龍安寺垣として名高い。

 

 

階段の上から参道を見下ろす。

 

 

庫裡入口で、こちらが参観の入り口となる。

 

 

 

 

庫裡の入り口。

 

 

庫裡の広間。庫裡は、寛政9年(1797年)に火災で焼失しその後再建。

 

 

 

 

庫裡の広間は天井がなく梁や小屋組みが見える。

 

 

庫裡から方丈の建物を見る。左手方向が石庭。

 

 

方丈と廊下。

 

方丈庭園【国の史跡・特別名勝】 いわゆる「龍安寺の石庭」である。白砂の砂紋で並みの重なりを表す枯山水庭園。幅25m、奥行10mほどの空間に白砂を敷き詰め、東から5個、2個、3個、2個、3個の合わせて15の大小の石を配置する。この石庭は、どの位置から眺めても必ずどこかの1つの石が見えないように配置されている。どこから鑑賞しても庭石が1個までしか見えないようになっているのは、ある石に別の石が重なるよう設計されているためで、日本庭園における「重なり志向」を表したものともいわれている。

 

 

 

 

方丈【国重要文化財】 方丈の室内は天井が高い。もともとの方丈が寛政9年(1797年)の火災で失われた後、塔頭の西源院方丈を移築したもの。慶長11年(1606)に織田信包による建立。

 

現在の襖絵は、龍と北朝鮮の金剛山が題材で、昭和28年(1953)から5年がかりで皐月鶴翁によって描かれた。

龍安寺は明治の初期に廃仏毀釈により衰退し、明治28年(1895)には、狩野派の手による方丈の襖絵90面がほかの寺院に売却されている。襖絵はその後、他の寺から再び売りに出され、九州の炭鉱王伊藤伝衛門によって買い取られている。その後、第二次世界大戦に流出してしまいその多くは所在が分からなくなっている。一部は、メトロポリタン美術館や市シアトル美術館に所蔵されているのが判っている。平成22年(2010)に、「群仙図」4面と「琴棋書画図」はアメリカのオークションで龍安寺が買い戻している。

 

 

 

 

室町時代末期(1500年ごろ)特芳禅傑らの優れた禅僧によって作庭されたと伝えられるが、作庭者、作庭時期、意図ともに諸説あって定かではない。

 

石庭の石は3種類に大別できる。各所にある比較的大きな4石は、チャートと呼ばれる龍安寺裏山から西山一帯に多い山石の地石。その他の9石は三波川変成帯で見られる緑色片岩である。

 

塀ぎわの細長い石他2石は京都府丹波あたりの山石で、「小太郎・二郎」と刻まれており、作庭に関わった人物と推測されるが詳細は不明。

 

 

 

 

 

 

 

高さ1.8mの油土塀。石庭を傑作とさせた重要な要素の塀は、菜種油を練り混ぜたつくりで、白砂からの照り返し防止や、長い間の風雪にも耐える堅牢さがある。

 

 

東側に一番大きな石。

 

 

 

 

石は15個並べてあるが一つ見えない。「15は完全を表す」東洋の言葉で、人間は不完全な存在で、あえて14個だけしか見えない。あと一つは「心眼」で見ることだと・・・。

石は15個あるというが、写った写真を調べても14個しか見当たらない。右下の石は二つだが、反対側から撮った写真でも2個で、こちら側から撮った写真の裏にも石があることが判り15個全部見つけることができた。人間の目で見ることは不可能のようだ。

 

 

石庭が人気のせいもあり縁側から人影が消えることが、なかなかない。

 

 

 

 

北側には「吾唯知足(われただたるをしる)」の蹲踞〔いわゆる「知足の蹲踞」〕の複製が置かれている。

 

 

 

方丈から仏殿に渡るが入り口だが、仏殿は非公開。

 

 

勅使門【国重要文化財】  寛政9年(1797年)に火災で焼失した後、西源院唐門を移築したもの。

 

 

高さ1.8mの油土塀の外側。石庭の白砂の面は、ここから80㎝ほど上がった面になる。

 

 

 

 

 

油土塀から方丈の屋根。

 

 

境内を巡る池泉式庭園の遊歩道。 

 

 

鏡容池のほとりには西源院、大珠院、雲光院などの堂が建つ。

 

 

弁財天のある弁天島

 

 

鏡容池。

 

 

案内図

 

 

 

御朱印

 

 

(参考にした資料) 龍安寺HP   Wikipedia

 

竜安寺 終了

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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