第63番 毛越寺
壮大な伽藍の跡と老女の舞
仙台・平泉の旅は、2泊3日の夫婦旅である。仙台に行ったことがない妻のためと、百寺巡礼の参拝を合わせて仙台泊の旅行である。1日目は、青葉城の見学と伊達政宗の霊屋「瑞鳳殿」の参拝である。2日目に岩手の平泉参拝のため仙台から一ノ関まで新幹線。一ノ関からレンタカーとし、その一番目に毛越寺である。恥ずかしくも読めなかったが「もうつうじ」である。
参拝日 平成30年(2018)6月21日(木) 天候曇り
所在地 岩手県西磐井郡大泉町大泉字大沢58 山 号 医王山 宗 旨 天台宗 寺 格 別格本山 本 尊 薬師如来 創建年 嘉祥3年(850) 開 基 円仁(慈覚大師) 札所等 奥州三十三観音霊場番外札所 文化財 特別史跡
歴史 嘉祥3年(850)に中尊寺を創建した円仁によって、同じ年に毛越寺は創建された。その後、大火で焼失して荒廃ししまったが、奥州藤原氏第2代の基衡夫妻と、その子3代秀衡によって壮大な伽藍が再興された。歴史書「吾妻鏡」によれば、「堂塔四十余宇、禅房五百余宇」があり、円隆寺と号せられる金堂・講堂・常行堂・二階惣門・鐘楼・経蔵があり、嘉祥寺その他の堂宇もあって、当時は中尊寺をしのぐ規模だったという。金堂の円隆寺は、金銀、紫檀をちりばめ、その荘厳は『吾妻鏡』に「吾朝無双」と評された。
鎌倉時代には鎌倉幕府にも保護されたが、嘉禄2年(1226)に火災に遭い、戦国時代の天正元年(1573)には兵火にも遭い、それからの長年の間、土壇と礎石を残すだけとなっていた。江戸時代は仙台藩の領内となる。嘉永13年(1636)、伊達政宗の死去に伴い、当時の本尊の釈迦三尊が政宗の霊廟瑞鳳殿に隣接して正宗の菩提寺して創建された瑞鳳寺に遷された。寛文年間(1661~1672) には本寺とその周辺は水田化された。しかし、伊達藩により経済的援助や保護が行われた。
明治の後半には新しい本堂や庫裏を南大門の外側に建て、大正10年(1921)には伊達一関藩の一関城の大手門を移築し山門とした。大正11年(1922)「毛越寺境内 附 鎮守社跡」として史跡に指定された。平成元年(1989)に平安様式に則って本堂が再建され、現在に至っている
境内マップ
入口の標識
山門 一関城の大手門を移築した。
三門から境内。
手水舎。
社務所。
創建当時の描いた絵が掲示されている。
本堂 平成元年(1989)の建立。平安様式が特徴の堂宇。
本堂には、本尊の薬師如来(平安時代)及び両脇に日光菩薩像と月光菩薩像。本尊守護の四天王が配されている。
本堂の前 境内模様。
境内の中には鬱蒼とした大きな樹木が生い茂る。
境内のなかに中心となる大泉が池。
池の北側には菖蒲畑。
境内の北側に位置する開山堂。
開山堂の内部 開山慈覚太師木造が中心に安置され、左側に藤原三公の画。
藤原三代公の画。 上が清衡公、下右が二代基衡公、下左が三代秀衡公。
開山堂の前から見る。
花菖蒲園 300種3万株の花菖蒲が植えられている。昭和28年(1953年)に平泉町民の発案で開山堂前に植えたことがきっかけとなった。
東京・明治神宮から譲り受けた100種100株も植えられた。
広大な敷地は芝生に覆われている。
嘉祥寺のあった場所。巨大な礎石が完存するこの建築跡は、古来嘉祥寺跡として言い伝えられてきた。
浄土式庭園の大泉が池。浄土式庭園は、平安時代以降に発達し、その形態としては、仏教世界観を表現した池泉回遊式庭園であることが最大の特徴。
大泉が池は東西約180m、南北約90mあり、作庭当初の姿を伝えている。池のほぼ中央部に東西約70m、南北約30m、勾玉状の中島がある。池の周辺や中島にはすべて玉石が敷かれている。
常光堂 享保17年(1732)に仙台藩主伊達吉村公の武運長久を願って再建。堂は宝形造りで須弥壇中央に本尊・宝冠の阿弥陀如来、両側に四菩薩、奥殿には秘仏としてあがめられている摩多羅神がまつられている。
摩多羅神は修法と堂の守護神であり、地元では古くから作物の神様として信仰されています。奥殿の扉はふだんは固く閉ざされ、33年に一度御開帳されます。祭礼の正月20日は、古式の修法と法楽としての延年の舞が奉納されます。
地蔵仏。
鐘楼堂。
洲浜 池の東南隅に築山と対照的に造られた洲浜は、砂洲と入江が柔らかい曲線を描き、美しい海岸線を表している。他に比べて池底を特に浅くし、広々と玉石を敷き詰めているので、水位の昇降に応じて現れるゆったりした姿を眺めることができる。
出島石組と池中立石。大泉が池の東南岸にある荒磯風の出島は、庭園中最も美しい景観の一。
水辺から水中へと石組が突き出し、その先端の飛び島には約2メートルの景石が据えられ、庭の象徴として池全体を引き締めている。
創建時の毛越寺を想像した伽藍の図。
案内図
五木寛之著「百寺巡礼」よりーーー毛越寺は、「浄土庭園」と呼ばれる様式の庭園で知られている。しかも、日本でもっとも完全で、典型的な平安時代の浄土庭園遺構だそうだ。末法思想が広まった時代、人びとは阿弥陀如来に一心に祈ることで、死後に西の彼方にある極楽浄土へ行くことができると信じた。その極楽浄土を目に見えるかたちに表現しようとしたのが、浄土庭園だと言えるだろう。日が沈む西方には阿弥陀堂だつくられ、阿弥陀如来像が安置される。その阿弥陀堂の前には大きな池が設けられ、そこには蓮の花が咲いている。浄土庭園の池は、神聖な地を俗世から区分するものと考えられていた。つまり阿弥陀如来がいらっしゃる池の西側が彼岸(あの世)で、東側が此岸(この世)というわけだ。浄土庭園としてもっとも有名なのが宇治の平等院だが、毛越寺の庭園の規模はそれをはるかに上回っていた。もし庭園だけでなく、創建当時の毛越寺の伽藍の一部が現存していたら、俺ほど素晴らしかっただろうか。残念ながら毛越寺は藤原氏の滅亡後に焼け、以後は長い間放置されて、復興されることはなかった。藤原氏の約百年の王国が滅亡するのと歩調を合わせるようにして、毛越寺も全盛期の輝きを失っていった。そして、人びとの目を驚かせた壮観な伽藍、浄土を再現した美しい光景も、幻のごとく消え失せてしまったのである。
御朱印
毛越寺 終了