『五木寛之の百寺巡礼』を往く

五木寛之著「百寺巡礼」に載っている寺100山と、全国に知られた古寺を訪ね写真に纏めたブログ。

25 金閣寺

2023-08-23 | 京都府

第21番 金閣寺

 

目もくらむような亀裂に耀く寺

建物の内外に金箔が貼られていることから金閣寺とも呼ばれているが、正式名称は北山鹿苑禅寺である。鹿苑はの名は、開基の室町幕府三代将軍足利義満の法号である「鹿苑院殿」にちなんでつけられた。その中心的なお堂が舎利殿で、室町時代前期の北山文化を代表する建物であった。残念ながら昭和25年(1950)に放火により焼失し、昭和30年(1955)に再建された。

本堂や仏堂があるお寺というよりも、室町幕府第3代将軍足利義満の私邸という感じで拝観した方が判りやすいと思う。

 

参拝日   平成30年(2018)3月1日(木) 天候曇り

所在地   京都府京都市金閣寺町1                             山 名   北山   
宗 派   臨在宗相国派 
寺 格   相国寺境外塔頭  
創 建   応永4年(1397) 
本 尊   聖観音                                     開 山   夢窓疎石
開 基   足利義満                                    正式名   北山鹿苑禅寺                                  別 称   金閣寺  北山殿  北山第                           文化財   木造不動明王立像(国重要文化財)ほか

 
金閣寺の歴史

鹿苑寺の一帯は、鎌倉時代の元仁元年(1225)に藤原公経が西園寺を建立し、併せて山荘にしていた場所。以降も公経の子孫が代々領有を続け、朝廷と鎌倉幕府の連絡役を務めていた。幕府滅亡後に当主の西園寺公宗が後醍醐天皇暗殺を企てたことが発覚し、公宗は処刑され、西園寺家の膨大な所領と資産は没収。西園寺は次第に修理されなくなり、荒れていった。応永4年(1397)、金閣寺の開祖である足利幕府第3代将軍の足利義満が当寺を譲り受け、寺を建て直すなどして北山第と呼ぶ山荘とした。山荘の規模は御所にも匹敵し、政治中枢のすべてが集約された。将軍職を、応永元年(1394)に子の義持に譲っていたが、実権は手放さず、ここで政務を執っていた。そんななかで金閣寺舎利殿は、応永6年(1399)に造営されたと推定される。義満の死後は妻の北山院(日野康子)の御所となっていたが、北山院が死ぬと舎利殿以外の堂宇は解体された。そして、応永27年(1420)に北山第は義満の遺言により禅寺とされ、義満の法号「鹿苑院殿」から鹿苑寺と名付けられた。その際、夢想疎石を勧請開山とした。義満の孫の五代将軍足利義政は、祖父の義満が建てた舎利殿に倣い、造営中の東山山荘(現・慈照寺)に観音殿(近世以降銀閣と通称される)を建てた。応仁の乱では、西軍の陣となり建築物の多くが焼失したが、江戸時代に西笑承兌が中興し、以後主要な建物が再建された。舎利殿も慶安2年(1649)に大修理された。明治維新後の廃仏毀釈により、寺領の多くが返上されて経済的基盤を失ったが、明治27年(1894)よりて庭園や金閣を一般に公開し、拝観料を徴収し寺の収入の確保ができた。昭和4年(1929)には国宝に指定された。昭和25年(1950)7月2日未明、放火により国宝の舎利殿(金閣)と安置されていた仏像等を焼失する。昭和27年(1952)に再建工事が始まり昭和30年(1955)に竣工し、創建当時の姿に復元された。

 

 

宿泊した東急ハーヴェストクラブ京都鷹峯のロビーから見た鷹峯の山並み。

 

 

ホテルを出て、すぐのしょうざんリゾート内の歩道を歩き約10分で金閣寺に。

 

 

鬱蒼とした森にたたずむ黒の門が金閣寺への参道入り口。門柱には「鹿苑寺 通称 金閣寺」と書かれている。 

 

境内地図

 

参道から総門の少し手前に「世界遺産」の記念石碑。

 

 

総門   塀は格式高い五本線の筋塀。

 

 

 

 

 

舟形  石造りの手水鉢で総門近くにあった馬小屋の水槽と言われる。

 

庫裏  明応から文亀年間(1942~1502)の創建と言われる。大きな切妻が正面に向く禅宗特有の建築。

 

 

唐門  総門を入り真正面の突き当りに位置する。方丈(客殿)の門にあたり、正面に唐破風がついている「向唐門」である。通常は閉め切り。

 

 

金閣寺のHPより。

 

無字の経  拝観受付付近。「咲花の露のみづけさ 鳴く鳥の聲(声)のさやけさ 雲閑に水藍をたたふ
 誰が説きし無字の眞言  山清くそめなす木立 谷深くたまちる流れ 風そよぎ月すみ渡る ひとりよむ無字の眞言」。

 

 

築地塀が続く。

 

 

拝観門を潜り・・・

 

拝観の受け付けをして築地塀のに挟まれた細い通路を抜けるとやがて視界が広がり、目の前が開け大きな池が飛び込んでくる。鏡湖池で、鏡のように金閣寺を映し出すことから、その名前が付けられている。

 

 

人気のある観光地でいつも観光客や修学旅行生がわんさかやってくる。

 

 

左右に亭々たる木立、後ろに小高い山を背負う金閣寺舎利殿の雄姿。

 

 

 鏡湖池に写った金閣は「逆さ金閣」と呼ばれ、ベストショットとなっている。

 

 

 

 

 

 

 

葦原島 鏡湖池の中央、金閣の正面に浮かぶ島で蓬莱島とも。池にある10の島々のうち最大の大きさで、日本の国を象っているといわれている。

 

 

鏡湖池には葦原島、鶴島、亀島などの島々のほか、畠山石、赤松石、細川石などの奇岩名石が数多く配されている。

 

 

 

 

方丈 普段は非公開となっている。境内を順路にそって歩いていくと、陸舟の松の奥に見えるのが方丈で、中まではよく見ることができない。

 

 

方丈の庭。

 

 

陸舟の松 足利義満の愛用の盆栽の樹木。

 

 

 

 

 

書院への通路 書院は非公開。

 

 

金閣寺舎利殿を北・東側から見る。金閣は木造3階建ての楼閣建築。屋根は宝形造、杮(こけら)葺きで屋頂に銅製鳳凰を置く。3階建てであるが、初層と二層の間には屋根の出を作らないため、形式的には「二重三階」となる。

 

 

初層と二層の平面は同形同大で、正面5間、側面4間とする(「間」は柱間の数を表す)。初層と二層は通し柱を用い、構造的にも一体化している。三層は一回り小さく、方3間である。

 

 

 

 

 

屋根の頂部に飾られた鳳凰。

 

 

一層は金箔を張らず素木仕上げとし、二層と三層の外面は高欄も含み全面金箔張り。三層は内部も全面金箔張りである。

 

 

一層は「法水院」と称し、寝殿造りの建築様式。正面の一間通りを吹き放しの広縁とし、その奥は正面5間、側面3間の1室となっている。正面の5間は等間ではなく、西から2間目(本尊を安置する位置)の柱間が他より広くなっている

 

 

ガラス越しに撮った舎利殿の内部。

 

室内の奥に須弥壇を設け、壇上中央に宝冠釈迦如来坐像、向かって左に法体の足利義満坐像を安置する。床は板敷、天井は鏡天井となっている。

 

 

 

 

 

宝冠釈迦如来坐像(金閣寺HPより)

 

 

 

 

 

二層は「潮音洞」と称し、武家造りの建築様式となっている。

 

 

 

 

漱清 初層の西側には、池に張り出して、「漱清」と称する方1間、切妻造、吹き放しの小亭が付属する。いわゆる釣殿で、釣殿は寝殿造において池に臨んだ形で周囲を吹き放ちにして建てられる建造物をいい、魚釣りを楽しんだ所からこの名がついたという。他にも納涼や饗宴、月見などにも用いられることがあるという。

 

 

 

 

 

 

 

 

境内の林に見え隠れする舎利殿。

 

 

境内は松林と地面は苔に覆われている。

 

 

金閣寺垣   金閣のある鏡湖池より北側の夕佳亭や不動堂へと向かう参道の途中、巌下水に続いて見えてくる小さな石段。

 

 

龍門の滝 鯉が三段の滝をも遡上する力があり、三段を上り終えると龍に転生するという中国の故事から。

 

 

安民沢  西園寺当時の遺跡でもある池。

 

 

金閣寺境内は、北側になる後ろ側が高台になっていて、そこから見る舎利殿の姿。

 

 

足利八代将軍義政公が使用していた富士山の形をした手水鉢。

 

茶室「夕佳亭(せっかてい)」  寄棟造茅葺、三畳敷の席に勝手と土間からなる主屋に、切妻造こけら葺で二畳敷の鳳棲楼と呼ばれる上段の間が連なっている。明治の初めに焼失したため、現在の建物は明治7年(1874)に再建されたもの。三畳敷の床柱は茶席としては珍しく南天の木が用いられており、殊によく知られている。

 

 

お休み何処。

 

 

 

 

 

不動堂   天正(1573~1593)年間よる再建。金閣寺境内に現存する最も古い建物。本尊は空海(弘法大師)作の伝承を有する石不動明王。

 

 

 

 

 

 

 

出口門

 

 

 

 

 

出口を出てからも苔の地はつづく。

 

 

 

 

 

参拝を終え境内を後にする。

 

 

案内図

 

 

 

五木寛之著「百寺巡礼」からーーー義満が政治的なセンスだけでなく、こうした豊かで洗練された文化的な感性をかねそなえていたことが、きらめくような北山文化を花開かせたと言っていいのだろう。だが、そもそも義満の、底知れぬ権勢欲、物欲、執着心がなかったなら、北山文化そのものが存在したかどうかさえ、あやしいものだと思う。こう考えていくと、文化とはじつに罪深いものだといわざるをえない。権力者の権勢力や物欲が強ければ強いほど、富は一手に集められ、一部の取り巻きをのぞいて、下層の人びとは苦しい生活を強いられる。しかし、そうした犠牲があってはじめて歴史に残るような文化が生まれてきたというのは歴史の不条理としかいいようがない。私はしばらく鏡湖池の周囲を回ってみた。杜若であろうか、濃い紫の花が一輪、くっきりと咲いている。

 

 

御朱印

 

 

金閣寺 終了

 

コメント