『五木寛之の百寺巡礼』を往く

五木寛之著「百寺巡礼」に載っている寺100山と、全国に知られた古寺を訪ね写真に纏めたブログ。

26 天龍寺

2023-08-25 | 京都府

古寺を巡る 天龍寺

 

 

 

歴史

平安時代初期、嵯峨の地に橘嘉智子(嵯峨天皇の皇后)が開いた禅寺・檀林寺があった。寺は、約400年の長き年を経てかなり荒廃し廃絶していった。そこに嵯峨天皇が上皇となり仙洞御所を造営、嵯峨上皇の第3皇子である亀山天皇が、さらに仮の御所を営んだ。その地に足利尊氏を開基とし、無夢疎石を開山として開かれたのが天龍寺である。その目的は、後醍醐天皇の菩提を弔うため暦応2年(1339)に創設された。なお造営費用は足りず、元寇以来途絶えていた元との貿易を再開することとし、その利益を当てることにした。それが「天龍寺船」の始まり。貿易により造営費用は捻出され康永4年(1345)に落慶した。かつて広大な寺域と壮麗な伽藍を誇った天龍寺は500年の間に8回ほどの大きな火災に見舞われた。その中でも、文安の火災と応仁の乱による被害は大きく、天正13年(1585)に豊臣秀吉の寄進を受けるまで復興できなかった。その後秀吉の朱印を受けて順調に復興するが、文化年間(1804~1818)に被災、この再建途中の元治元年(1864)の蛤御門の変に際して長州軍の陣営となり、兵火のために再び伽藍は焼失した。以後は歴代の住持の尽力により順次旧に復し、明治9年(1876)には臨済宗天龍寺派大本山となった。しかし翌明治10年(1877)に、嵐山に53町歩あった寺領は、明治政府の土地の没収命令の上地令により、10分の9ほどに及ぶ領地を没収され3万坪を残すこととなった。こうした逆境の中、天龍寺は復興を続け、明治32年には法堂、大方丈、庫裏が完成、大正13年には小方丈(書院)が再建されている。昭和9年には多宝殿が再建、同時に茶席祥雲閣が表千家の残月亭写しとし、小間席の甘雨亭とともに建築された。翌10年(1935)には元冦600年記念として多宝殿の奥殿、廊下などが建立されほぼ現在の寺観となった。

 

参拝日   平成30年(2018)3月1日(木) 天候曇り

所在地   京都府京都市右京区嵯峨野天龍寺芒ノ馬場町68
山 号   霊亀山
寺 名   霊亀山 天龍資聖禅寺
宗 旨   臨済宗
宗 派   天龍寺派
寺 格   大本山  京都五山
本 尊   釈迦三尊
創 建   康永2年(1343)                                開 山   夢窓疎石                                    開 基   足利尊氏 
文化財   庭園(特別名勝・史跡)、絹本著色夢窓国師像3幅、
      絹本著色観世音菩薩像、木造釈迦如来坐像ほか(重要文化財)
      

 

京福電鉄嵐山線終着駅の嵐山駅。 嵐山駅の嵯峨野界隈は、清水寺、八坂神社とおなじように観光客が多い地区である。とくに、このごろ(平成30年春)は、中国、韓国などアジア系の外国人観光客の多さが目に付いた。

 

 

観光地の割には歩道の狭さが感じられる。

 

 

入口の石碑の前。

 

 

案内図 境内東端に勅使門があり、参道は西へ伸びている。これは通常の禅宗寺院が原則として南を正面とし、南北に主要建物を並べるのとは異なっている。参道両側に塔頭が並び、正面に法堂、その奥に大方丈、小方丈、庫裏、多宝殿などがあるが、いずれも近代の再建である。

 

 

総門 

 

南側の参道

 

 

庫裡  明治32年(1899)の建立。庫裏は七堂伽藍の一つで台所兼寺務所の機能を持つ。方丈や客殿と棟続き。白壁を縦横に区切ったり、曲線の梁を用いたりして装飾性を出した建物で天龍寺景観の象徴ともなっている。

 

 

切妻造の屋根下の大きな三角形の壁を正面に見せる。

 

 

庫裡の玄関前庭。

 

 

庫裡の屋根妻側の鬼瓦と懸魚を見る。

 

 

庫裡の玄関から入り大方丈、小方丈(書院)、多宝殿を巡る。

 

玄関に入った正面に置かれる大衝立の達磨図は前管長である平田精耕老師の筆によるもので、方丈の床の間などに同じ達磨図が見られ、達磨宗である禅を象徴し、天龍寺の顔ともいえる。

 

 

玄関の衝立達磨図。

 

 

 

玄関から外を振り返る。

 

 

小方丈(書院)は大正13年(1924)の建築である。

 

 

小方丈(書院)の廊下。

 

 

廊下の角から庭園を見る。

 

 

小方丈側から庭園を見る。

 

 

小方丈から見た庭園。

 

 

小方丈(書院)内部の部屋。

 

 

 

 

 

小方丈は書院で2列に多くの部屋が並び、来客や接待や様々な行事、法要などに使用される。

 

 

 

 

 

小方丈(書院)から庭園を見る。

 

 

 

 

 

大方丈。明治32年(1899)に造営された大方丈は天龍寺最大の建物で、正面と背面に幅広い広縁をもち、さらにその外に落縁をめぐらせる。東は中門に対し、西は曹源池に面する。東側が正面で曹源池側が裏となる。

 

内部は六間取り(表3室、裏3室)の方丈形式で、中央の「室中」は釈迦尊像を祀る48畳敷き、左右の部屋はともに24畳敷きで3室を通して使うこともでき、欄間の下に襖を立てれば個別にも使用できる。

 

 

東西を仕切る襖の雲龍の絵は昭和32年に物外道人によって描かれたもの。

 

 

 

 

 

大方丈の裏側に位置する廊下は幅広い広縁をもち、さらにその外に落縁をめぐらせる。

 

 

 

 

 

 

 

 

大方丈が右の建物で、正面に小方丈。

 

 

大方丈の南側。

 

 

大方丈の表側が中門に対して向き合う。

 

 

 

 

 

 

正面の「方丈」の扁額は関牧翁老師(天龍寺第8代管長)の筆。

 

 

幅広い広縁をもち、さらにその外に落縁をめぐらせる。

 

大方丈の本尊は釈迦如来坐像【国重要文化財】。平安時代後期の作とされ天龍寺の造営よりもはるかに古い。天龍寺が受けた都合8度の火災のいずれにも罹災せず助けられた仏像で、天龍寺に祀られる仏像の中で最も古い像。

 

 

庭園への入り口  庭園に直接出入りできる。

 

曹源池庭園  約700年前の夢窓国師作庭当時の面影をとどめており、わが国最初の史跡・特別名勝指定。中央の曹源池を巡る池泉回遊式庭園で、大堰川を隔てた嵐山や庭園西に位置する亀山を取り込んだ借景式庭園でもある。

 

 

方丈からみた曹源池中央正面には2枚の巨岩を立て龍門の滝とする。龍門の滝中国の登龍門の故事になぞらえたもので、鯉魚石を配するが、通常の鯉魚石が滝の下に置かれているのに対し、この石は滝の流れの横に置かれており、龍と化す途中の姿を現す珍しい姿をしている。

 

 

 

曹源池の名称は国師が池の泥をあげたとき池中から「曹源一滴」と記した石碑が現れたところから名付けられた。

 

 

 

 

 

 

小方丈の西北から上り坂に併せて屋根付きの廊下が設けられ、右手に祥雲閣や甘雨亭の茶室を見ながら上りきったところにある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

多宝殿へ上る廊下の右手にある茶室の祥雲閣と甘梅亭。写真は甘梅亭。

 

多宝殿 後醍醐天皇の尊像を祀る祠堂で、前に拝堂をもち、後ろの祠堂とを相の間でつなぐ。入母屋造の屋根とも調和し、中世の貴族邸宅を思わせる。昭和9年(1934)に建築されたもの。後醍醐天皇の吉野行宮時代の紫宸殿の様式と伝えられる。

 

 

 

 

拝堂には正面に1間の階段付き向拝を持ち、あがると広縁になる。

 

 

中央に後醍醐天皇の像、両側に歴代天皇の尊牌が祀られている。

 

 

 

 

 

多宝殿から北門への苑路で、北門開設と同時に昭和58年整備された庭園の百花苑へ続く。

 

自然の傾斜に沿って苑路が造られており、北門を抜けると嵯峨野の観光名所である竹林の道、大河内山荘や常寂光寺、落柿舎などへ通じる。

 

 

苑内は苔に覆われしっとりとした緑が気持ち良い。

 

自然の地形に沿って苑路が設けられ、ゆっくりお散策することができる。頂部にたどり付けば京都市内嵯峨野の街がよく見える。

 

 

 

 

鐘楼 天龍寺の除夜の鐘も全国的に有名だと言われる。

 

 

法堂への渡り廊下。

 

中門。

 

 

塔頭が並ぶ。塔頭の松巌寺、慈済院、弘源寺の3か寺は元治(1864~1865)の兵火を逃れたため、室町様式あるいは徳川期のものが残る。

 

 

塔頭の門。

 

 

土塀を背に梅の花。

 

 

塔頭の一つの門の袖壁。

 

勅使門【京都府指定有形文化財】  四脚門。寺内最古の建物である。元々は慶長年間(1596~1615)に建てられた御所・明照院の門である。そもそも伏見城の門であり、その後、御所に移築されたともいう。嘉永18年(1641)に現在地に移築された。

 

 

嵯峨野の街は大賑わい。

 

 

案内図

 

 

御朱印

 

 

天龍寺 終了