第三十番 清水寺
仏教の大海をゆうゆうと泳ぐ巨鯨
久しぶりの京都は、妻と息子同伴の家族旅行となった。京都駅で降りてロッカーに荷物を預け、タクシーで清水寺に直行した。清水坂のみやげ屋の並ぶ手前で下車した。清水坂から清水寺の仁王門の前の広場まで大変な人出で混雑している。そのか大勢の人々は、どうやら中国や韓国からの観光客のようだ。とにかくその人の流れに交じり清水寺を参拝することにした。ところが本堂に差しかかると、あの大きなお堂の外側に、工事用の足場が掛かりお堂全体にシートで覆われて肝心の清水寺が見えない。屋根の葺き替え工事中であった。お堂の内部に立ち入れることはできるのだが、あの大舞台の上にはたてなかった。そんな清水寺の参拝となった。
清水寺縁起 奈良で修行を積んだ僧、賢心が夢で「南の地を去れ」とお告げを受けたことが清水寺の始まりとなった。賢心は霊夢に従って北へと歩き、やがて京都の音羽山で清らかな水が湧出する瀧を見つ、この瀧のほとりで草庵をむすび修行をする老仙人、行叡居士と出会った。行叡居士は賢心に観音を造立するにふさわしい霊木を授け「あなたが来るのを待ち続けていた。私は東国に修行に行く。どうかこの霊木で観音像を彫刻し、この霊地にお堂を建ててくれ」と言い残して姿を消したという。賢心はすぐに「勝妙の霊地だ」と悟り、以後、音羽山の草庵と観音霊地を守ることとなった。賢心が見つけた清泉は、その後「音羽の瀧」と呼ばれ、現在も清らかな水が湧き続けている。それから2年が経ったある日、鹿狩りに音羽山を訪れた武人、坂上田村麻呂が音羽の瀧で賢心と出会う。坂上田村麻呂は賢心に尋常ならぬ聖賢を感じ、大師と仰いで寺院建立の願いに協力を申し出た。そして、妻の三善高子とともに十一面千手観世音菩薩を御本尊として寺院を建立し、音羽の瀧の清らかさにちなんで清水寺と名付けた。
参拝日 平成30年(2018)2月28日(水) 天候曇り
所在地 京都府京都市東山区清水1丁目294 山 号 音羽山 宗 派 北法相宗 寺 格 大本山 本 尊 十一面千手観音菩薩(秘仏) 創建年 宝亀9年(778)・伝 開 山 延鎮・伝 正式名 音羽山清水寺 札所等 西国三十三番第16番 ほか 文化財 本堂(国宝) 仁王門、三重塔、阿弥陀堂ほか(国重要文化財)
境内図
三寧坂から清水坂にかけての賑わい
2018年2月末日の平日でこの賑わい。和装姿が多いが、どうやら大半は外国人のようだ。
清水坂の商店街の扇子屋の店先から。
清水寺の仁王門の前の広場は人だかり。
仁王門【国指定重要文化財】 清水寺の正門。応仁の乱の戦火で1469年に焼失したが、1500年前後に再建され、平成15年(2003)に解体修理さた。正面約10メートル、側面約5メートル、棟高約14メートルの、再建当時の特徴を示す堂々たる楼門。
朱塗りのため赤門とも呼ばれている。清水の舞台から御所が見えないように建てられたという。
扁額は藤原行成(平安時代中期の公卿。当代の能書家として三蹟の1人)
祥雲青龍 平成27年(2015)に建立。清水寺門前会が創立30周年を記念して造られた。
仁王門を潜り石段の参道を見る。右手は西門。
西門【国指定重要文化財】 創建の確かな記録がなく、江戸初期の寛永6年(1629)の大火で消失したものを、徳川三代将軍家光により寛永8年(1631)に再建された。この門は通り抜けは出来ない。両脇には鎌倉様式の持国天と増長天が祀られている。左右の幅が約8.6m、奥行が約3.9mの三間一戸の八脚門で正面に向拝をつけ、神社の拝殿に似た屋根は単層、檜皮葺き、切妻造の構造で、背面は軒唐破風を架ける寺院建築としては大変珍しい構造である。
参道の階段を上る。 写真を見ると季節は松の内のようだが2月の末日。
石段を上り切った境内。左手が西門。
鐘楼【国指定重要文化財】 清水寺の鐘楼はです。江戸初期の慶長12年(1607)に再建され、6本柱で2.3トンもある鐘(国指定重要文化財)を支えている。鐘は室町後期の文明10年(1478)に改鋳されたもので、宝蔵殿で保存されている。現在は清水寺門前会により寄進された新しい鐘である。
鮮やかに装飾された総丹塗りの桃山様式の建築物。3本の貫を平行に3段に張り、柱を通して組み固められた頑丈な構造となっている。貫の間の蟇股には極彩色の菊の花の装飾が施されている。懸魚や破風の装飾等にも桃山様式の特徴が見られる。
三重塔【国指定重要文化財】 平安時代初めの承和14年(847)に桓武天皇の皇子葛井親王が建立したものと伝えられ、江戸時代の寛永9年(1632)に古様式にのっとり再建されたもの。全体が朱色に塗られた本瓦葺の建物で、3間四方で高さは約31m。
一重内部には大日如来像が祀られているが、一般公開はされていない。室内は極彩色の飛天・龍や密教仏画で飾られている。
随求堂 清水寺の塔頭 慈心院の本堂で享保3年(1718)再建された。
隋求堂の内部。
手水舎 梟の手水鉢と名がついているが、吐口は梟とは思えない。手水鉢の足元に梟の浮彫がある・・・らしい。見落としているので写真はない。
轟門 この門を潜り舞台のある本堂に進む。門の前にある橋は轟橋と言われ、昔は川が流れていたらしい。
轟門から本堂への廊下。
朝倉堂【国指定重要文化財】 正式名称は法華三昧堂。永正7年(1510)に創建され、江戸初期の寛永6年(1629)の大火で消失し、寛永10年(1633)に再建されたもの。平成25年(2013)半解体修理が行われた。再建の折に多額の寄進をした越前の大名、朝倉貞景に因み「朝倉堂」と呼ばれている。正面五間、側面三間の大きさで入母屋造り、白木造りで本瓦葺きの建物です。
清水の舞台 本堂の前面に張り出すように広がる舞台は、寺内に数ある建造物のなかでももっとも有名。京都の街を眼下にする眺めは見事で、その美しい景色は古くから人々を魅了してきた。「平成の大修理」で張り替えられた166枚の桧板の舞台の床面積は約200平方メートル。崖下の礎石からは約13メートルの高さがある。
本堂内部は、巨大な丸柱によって手前から外陣(礼堂)と内陣、内々陣の3つの空間に分かれている。一番奥の内々陣には御本尊が奉祀されており清水寺にとってもっとも神聖な場所となっている。お参りには外陣南側の廊下を進む。
外陣の様子。
昔は、中に蠟燭をいれて火を灯していたのか銅製の照明。
厳かな感じの外陣。
内陣 須弥壇
屋根の葺き替えの丸太足場。鋼管足場は一切ない、昔ながらの丸太足場。この足場が日本最大級の屋根面積2030㎡の葺き替え工事を支えている。
足場の間から舞台を通して景色を見ることができる。
足場の間から見る子安の塔 聖武天皇、光明皇后の祈願所として伝えられているが創建時期は不明。現在の建物は、明応9年(1500)の再建。高さ15mの三重塔。明治までは仁王門の左手前にあったが、明治44年(1911)現在地に移築された。堂内には安産の神として子安観音が安置されている。産寧坂は子安観音への参道であった。
地主神社 清水寺の境内にあるが、独立した神社。
釈迦堂と阿弥陀堂の側から見た本堂。工事中のシートで景観が判らない。
本堂の全景だが、屋根の葺き替え修理工事中でシートに覆われ姿は見えない。
本堂から張り出した「舞台」の高さは約13mで、4階建てのビルに相当。本堂は音羽山の急峻な崖に建築された「懸造り」と呼ばれる日本古来の伝統工法。格子状に組まれた木材同士が支え合い建築が困難な崖などでも耐震性の高い構造をつくり上げることを可能にしている。
本堂の屋根は檜皮葺の優美な曲線が美しい「寄棟造り」。建築様式の随所に平安時代の宮殿や貴族の邸宅の面影が残っている。本来なら三重塔を入れたベストショットなのだが・・・。
釈迦堂【国指定重要文化財】 寛永8年(1631年)再建。本堂の先の山腹に建つ、寄棟造、檜皮葺きの三間堂。
- 阿弥陀堂【国指定重要文化財】 寛永8年(1631年)再建された。釈迦堂の右(南)に建つ入母屋造、瓦葺きの三間堂。前面の旧外陣部分を改造して奥の院への通路としている。
阿弥陀堂【国指定重要文化財】 内陣正面には後柏原天皇筆の「日本最初常行念仏道場」の勅額が架かる。
音羽の滝 清水寺の寺名の由来となった清水の湧き出す滝。
祠から伸びる水流は三本に分かれており、それぞれ違ったご利益を持っているという。柄杓で清水をすくって飲み干すことで願いが叶えられる。
古来「金色水」「延命水」とも呼ばれ、現在では学業や恋愛成就、長寿にあやかれるパワースポットとして親しまれている。
音羽の滝からみる舞台の全景(工事中で丸太足場だけが目立つが・・・)。
舞台を支えているのは、床下に建てられた18本もの柱。樹齢400年余の欅を使い、大きいもので長さ約12m、周囲約2mの柱が整然と並んでいる。
断面図
柱と柱には何本もの貫が通されて、木材同士をたくみに接合するこの構造は「継ぎ手」と呼ばれ、釘を1本も使用していない。現在の舞台は寛永10年(1633)に再建された。歴史上、幾度もあった災害にも耐え、今も日々多くの参詣者で賑わう舞台を支え続けている。
出口に向かう途中。
十一重石塔
三重塔を下から見上げる
帰り際に西門と三重塔を見上げる。
案内図
五木寛之著「百寺巡礼」よりーーー京都の文化人は、濁をも呑み込みながら濁に汚染されずに、清を毅然と保っているようなところがあるのがすごい。清水寺は、なんとなく、この「京都文化人」を彷彿させるとはいえないだろうか。あらゆる宗派を呑み込んでしまう仏教界の巨鯨でありながら、唯識論という孤高の経典を毅然としてうちに秘め、決して汚さない。そして一方では、邪教として排撃されかねないような数々の現世ご利益の伝説をつむぎながら、千二百年にわたって人びとに夢を与えつづけてきた。清水寺は、清濁あわせ呑むたくましさで、千二百年にわたって広く庶民に夢をあたえ、生きる糧を提供してきたとは言えまいか。夢想することは、人間に残された唯一の特権である。そして夢想することの多い人ほどじつは心身ともにいきいきと生きていけるのではないかと思う。人びとが救いを求め、救われる夢を見つつ、それぞれの物語をつむぐ清水寺の大きな舞台。私は人混みのなかにまぎれてその舞台に立ち、暮れていく京の街をながめつづけた。
御朱印
清水寺 終了