教会の青年センターの中国語に行かなくなってから、はや1年半。
台湾から20歳で渡米し、その後焼き物に興味を持ちアメリカから日本へ留学。というわけで、実はトライリンガルで流暢な英語も話せるO先生は高齢を理由に引退。その後を若い先生が引き継いだが諸事情で通えなくなっていた。
ある日、大学の職場に東洋系の青年が現れ、こちらを注視。はてー、誰だっけとしばらく考えるも、誰だかわからない。用を尋ねると、日本語のクラスを受講したいという。で、係りへ誘導。その後しばらく誰だったかを考えていると、青年がパーティションからこっちを見ている。
「お元気でしたか?」そうだ、この人中国語の若手先生!
「なんとか。今もあそこで教えておられるんですか?」
「いえ、研究が忙しくなって、教えていないです。昨年、医学研究科に入学しました。ドクターになるのではないですが、医学系の研究をしています。」
そうそう、当時彼は福祉系の勉強をしていたけれど、必ずしもそれが適性に合致している印象はなかった。良い方向転換だろう。
大学時代に講義をとったことのあるアメリカ人教授夫妻の息子さんが館長だった青年センターだが、昨年彼はアメリカの教区に転勤となり、今は日本人の牧師さんが後を引き継いだそうだ。それも、足が遠のいた理由ではある。
来るものを自分の色に染めるのではなく、ただありのまま受け入れる広さと強さ。日本とアメリカを同じくらい深く知っている異色の牧師さんであった。完全なバイリンガルで、牧師の仕事の他、会議通訳をされることもあった。日本人の牧師さんでは、あの自由さは期待できないだろうと決め付けてしまっている自分がいる。で、この判断については90%くらい自信があるのだ。
ある日、FBにO先生の住所をアメリカに変更しましたというお知らせが入った。えー先生、確か今年で79歳!コメントをしたら、これまた流暢な英語でコメントが戻ってきた。うーん、さすが老いてなお盛ん。只者ではない。
過ぎ去る日々は忘れがちだけれど、センターに通った2年間は本当にいい時間だったなぁ。
台湾から20歳で渡米し、その後焼き物に興味を持ちアメリカから日本へ留学。というわけで、実はトライリンガルで流暢な英語も話せるO先生は高齢を理由に引退。その後を若い先生が引き継いだが諸事情で通えなくなっていた。
ある日、大学の職場に東洋系の青年が現れ、こちらを注視。はてー、誰だっけとしばらく考えるも、誰だかわからない。用を尋ねると、日本語のクラスを受講したいという。で、係りへ誘導。その後しばらく誰だったかを考えていると、青年がパーティションからこっちを見ている。
「お元気でしたか?」そうだ、この人中国語の若手先生!
「なんとか。今もあそこで教えておられるんですか?」
「いえ、研究が忙しくなって、教えていないです。昨年、医学研究科に入学しました。ドクターになるのではないですが、医学系の研究をしています。」
そうそう、当時彼は福祉系の勉強をしていたけれど、必ずしもそれが適性に合致している印象はなかった。良い方向転換だろう。
大学時代に講義をとったことのあるアメリカ人教授夫妻の息子さんが館長だった青年センターだが、昨年彼はアメリカの教区に転勤となり、今は日本人の牧師さんが後を引き継いだそうだ。それも、足が遠のいた理由ではある。
来るものを自分の色に染めるのではなく、ただありのまま受け入れる広さと強さ。日本とアメリカを同じくらい深く知っている異色の牧師さんであった。完全なバイリンガルで、牧師の仕事の他、会議通訳をされることもあった。日本人の牧師さんでは、あの自由さは期待できないだろうと決め付けてしまっている自分がいる。で、この判断については90%くらい自信があるのだ。
ある日、FBにO先生の住所をアメリカに変更しましたというお知らせが入った。えー先生、確か今年で79歳!コメントをしたら、これまた流暢な英語でコメントが戻ってきた。うーん、さすが老いてなお盛ん。只者ではない。
過ぎ去る日々は忘れがちだけれど、センターに通った2年間は本当にいい時間だったなぁ。