キリスト教系ユースセンターの中国語クラスを2004年から担当されていた我らが老師(76)が、ひとまず引退された。2009年王先生帰国あと、中国語をとりあえず継続したいと思っていたら、大学時代のキリスト教学のアメリカ人教授の子息が牧師となってユースセンターを運営しているのに気がつき受講して早一年半。
YMCAとか長老会派とか、歴史の長いキリスト教系のセンターでは比較的安価に語学などの習い事ができるのだが、大学時代は自分の大学のプロテスタント色にお腹一杯で、だいたい仏教ですら貧乏な檀家を尻目に、坊主の家だけ立派になっていくのが胡散臭いのに、この上耶蘇様に献金かよーとかなり宗教にはステレオタイプに醒めた大学生だったため、ユースセンターがあるとは知っていながら、さらに会費を払ってキリスト教精神を叩きこまれたんではかなわないと近づきもしなかったのである。今活動を知ってみると、中身を見もしないで、思い込みで判断していた自分の方が若気の至りというか。。。。まあ、やっぱりそういう活動を十九や二十歳でやるような自分では絶対ないのだが。
ある程度、真面目な学生が集まるという特性があるためか、60歳の中国語の同級生はセンターで学生時代に出合った男子学生と結婚されたという。その旦那様というのが、今や国立大の先生で、2人の間に生まれた娘さんもセンターで夫となる人に出会い今は米国暮らし。類友というか研究職の旦那様だそうだ。若い時代を建設的に過ごそうというコンセプトだし、ある程度の規律の下にお泊り会やクリスマス会など行事が行われる青年団的な組織なため、出会いの場としてはかなり良質だと思われる。
また教会本体ほど宗教的な組織ではないので、クリスチャンの行事はあるけれど、それで入信しなければというような新興宗教のような過激さもない。一種のコミュニティセンター的な雰囲気だが、じゃあ、市でやっている文化センターの講座とどこが違うと言われると、やはりその宗教的なベースに守られた自由な雰囲気が(これは反対に感じる人もいるかも)違うとしかいいようがない。
通路に聖フランチェスコの木彫りの像があるので、キリスト教になじみのない人はギクッとするのかなとも思うのだが、ここ15年どちらかというと宗教を持った外国人に囲まれてきており、更にバチカンの大聖堂観光もしたせいか、ある程度いわれが分かり全然驚かない。かなりキリスト教には馴染みがあるような気がするが、別にそれで入信しようというまでのファンではない。最近はムスリム諸氏にイスラム教への興味をかき立てられているけれど、アルコール、豚肉抜きの日に5回祈る生活が自分に出来るとは思えない。また一神教の最後に登場しただけはあるあの合理的な教義に自分を委ねてしまえるほどの何かも起きてないしぃ。
自分を含め一般的日本人の宗教に対する感覚は拒絶に近いような気がする。宗教は葬式と仏壇と墓石がセットで、丸儲けの商売といった認識に近いのでは?禅寺の修行などがさかんな地域を除いては、実際法事と葬式と墓参り以外に寺に行く人は余りいないかもしれない。儒教の影響なのかななどと思い、そういや儒教と東北アジアの風土について書いてある部分があったなと梨木香歩の「ぐるりのこと」を読み直した。
YMCAとか長老会派とか、歴史の長いキリスト教系のセンターでは比較的安価に語学などの習い事ができるのだが、大学時代は自分の大学のプロテスタント色にお腹一杯で、だいたい仏教ですら貧乏な檀家を尻目に、坊主の家だけ立派になっていくのが胡散臭いのに、この上耶蘇様に献金かよーとかなり宗教にはステレオタイプに醒めた大学生だったため、ユースセンターがあるとは知っていながら、さらに会費を払ってキリスト教精神を叩きこまれたんではかなわないと近づきもしなかったのである。今活動を知ってみると、中身を見もしないで、思い込みで判断していた自分の方が若気の至りというか。。。。まあ、やっぱりそういう活動を十九や二十歳でやるような自分では絶対ないのだが。
ある程度、真面目な学生が集まるという特性があるためか、60歳の中国語の同級生はセンターで学生時代に出合った男子学生と結婚されたという。その旦那様というのが、今や国立大の先生で、2人の間に生まれた娘さんもセンターで夫となる人に出会い今は米国暮らし。類友というか研究職の旦那様だそうだ。若い時代を建設的に過ごそうというコンセプトだし、ある程度の規律の下にお泊り会やクリスマス会など行事が行われる青年団的な組織なため、出会いの場としてはかなり良質だと思われる。
また教会本体ほど宗教的な組織ではないので、クリスチャンの行事はあるけれど、それで入信しなければというような新興宗教のような過激さもない。一種のコミュニティセンター的な雰囲気だが、じゃあ、市でやっている文化センターの講座とどこが違うと言われると、やはりその宗教的なベースに守られた自由な雰囲気が(これは反対に感じる人もいるかも)違うとしかいいようがない。
通路に聖フランチェスコの木彫りの像があるので、キリスト教になじみのない人はギクッとするのかなとも思うのだが、ここ15年どちらかというと宗教を持った外国人に囲まれてきており、更にバチカンの大聖堂観光もしたせいか、ある程度いわれが分かり全然驚かない。かなりキリスト教には馴染みがあるような気がするが、別にそれで入信しようというまでのファンではない。最近はムスリム諸氏にイスラム教への興味をかき立てられているけれど、アルコール、豚肉抜きの日に5回祈る生活が自分に出来るとは思えない。また一神教の最後に登場しただけはあるあの合理的な教義に自分を委ねてしまえるほどの何かも起きてないしぃ。
自分を含め一般的日本人の宗教に対する感覚は拒絶に近いような気がする。宗教は葬式と仏壇と墓石がセットで、丸儲けの商売といった認識に近いのでは?禅寺の修行などがさかんな地域を除いては、実際法事と葬式と墓参り以外に寺に行く人は余りいないかもしれない。儒教の影響なのかななどと思い、そういや儒教と東北アジアの風土について書いてある部分があったなと梨木香歩の「ぐるりのこと」を読み直した。