miyabuの雑記帳

ボケ老人の無責任なお話

明智光秀と天海説

2010-02-17 | Weblog
昨年10月明智光秀の墓について、本欄で触れましたが、光秀天海説が意外に多いのに驚きました。作家の山岡荘八は、山崎の合戦後、影武者を犠牲にして、比叡山に逃れ、僧侶になったと述べています。

堺の豪商「そろり新左衛門」の妹と光秀の間に生まれた子供は、玄琳と名乗り、仏門にいましたが、秀吉が叡山再興に力を入れ始めてから、危険を感じ玄琳を伴い新左衛門に助けを求めた。

新左衛門は、泉州助松村の蓮正寺に助松庵を建て、後に貝塚市の大日庵(そのご岸和田の本徳寺と合併)に移し匿ったが秀吉没後の慶長4年(1599年)「鳳岳院輝雲道秀大禅定門」の位牌を残して飄然と立ち去っています、位牌の輝秀に光秀の2字が隠されていると見ています。

徳川3代将軍、家光の乳母春日の局と、徳川家康の繋がりに疑問を持っていましたが、光秀天海説ならば納得できます。明智光秀の重臣だった斉藤利三の娘が、春日の局なのですから

南光坊天海の戒名は、慈眼大師です。光秀の過っての丹波亀山城下には、慈眼寺があり、光秀を祀っています。そのほか、天海が差配した日光東照宮にも、光秀の影がちらついています。