miyabuの雑記帳

ボケ老人の無責任なお話

今日のコラムから思うこと

2013-08-08 | Weblog
(中日春秋)・56年前のお話です、昭和23年8月、NHKのど自慢大会に、シベリア俘虜収容所から帰国した復員兵が、伴奏のない歌で、鐘を乱打しました。「俘虜の歌える」と言う題でした。

「今日も暮れ行く、異国の丘に、友よ辛かろ、切なかろ、倒れちゃならない、祖国の土に、辿りつくまで、その日まで」。

俘虜収容所で、生き延びるために、歌い継がれた曲でした。歌詞も、曲も素晴らしいものでした。特に哀調を帯びたその曲は、戦後、日本の歌謡界をリードし、多くの歌手を育てた吉田正さんの作曲でした。

当時は、作詞、作曲とも不明でした。のど自慢の鐘の乱打で、NHKが調査に入り、ウラジオスットク収容所にいた、2名が判明しました。増田幸治作詞、吉田正作曲がこれで、題名も「異国の丘」と改名され、日本中に感動を呼び起こし、大ヒットしました。

シベリア俘虜収容所の、地獄のような生活は、昭和20年8月9日に始まります。日ソ中立条約を一方的に破棄して、ソ連軍が満州に侵攻しました。折しも、日本は終戦の平和仲介を、ソ連に依頼していたさなかでした。これにて、翌10日、日本は無条件降伏のポツダム宣言を受諾せざるを得なくなりました。

ソ連軍は、57万人の将兵を、捕虜として厳寒の地シベリヤに連行し、奴隷的な労動力として酷使しました。寒さと、飢えと、重労働で、5万5千人が、死んでゆきました。また一方、一般婦女子達は、ソ連兵の暴行で、精のはけ口とされ、子供を宿し、地獄の底を這いずりながらの帰国でした、多くの二世を生み、心無い人達の蔑視の対象となりました。

ソ連の北方4島侵攻にしても、ポツダム宣言受諾後のことです。無抵抗な住民を追い払い、財産を没収して、平然としているのです。満州侵攻、北方4島侵攻、ともに労なくして、最高の益を得たと、ソ連の偽政者は、満足しています。

国際問題は、軍事力か、経済力の背景がなく、話し合っても無駄です。身近な個人どうしのトラブルでも、経済的な条件が話し合いの基本になります。暴力組織の絶滅をいくら叫んでも、世界各地で暴力団が、強い力を持っているのは、暴力がトラブルを制覇することが、少なくないからです、つまり軍事力です。