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第4章「バイヨンヌ」よりの抜粋です
フリーランスの編集者野口真弓さんは、「なんでこうなったんだろう?」
と呟いた。たまたまFⅠの取材で英訳のできる人を探していただけなのに
岩淵選手にくっついて、村田選手から[海外でラグビーをしたい」と頼まれた。
さまざまな変遷がありFⅠ→フランスラグビー→バイヨンヌとつながり
村田へのオファーが来た1999年4月1週間の休暇を利用し、会社に無断で
野口さんと一緒にヨーロッパに向った。
ついたその日に練習参加を打診され、1週間まともに体を動かしてなかった
村田選手が大男相手に見事なパフォーマンスを見せ、ラグビーに詳しくない
野口さんも飛びぬけた運動能力を持っているのにはじめて気づいた。
練習が終わると即座に契約したいと言われ、2部ではあるがフランスリーグ
に日本初のプロラグビー選手が誕生した。いやするはずだった・・
この年ワールドカップイヤーで、せめてそれが終わるまではジャパンに専念
したいとの気持ちを伝えるとバイヨンヌからの連絡は途絶えかけたが、
中に入ってくれた、アニエス氏の奔走のおかげで何とか契約に持ち込めたが
村田選手自体は、3回目のWCは、元オールブラックスのSHバショップの控え
として不完全燃焼のまま(わずか14分の出場機会)で終わった。
その後12月に東芝での9年間半の会社生活に別れを告げた。
それから1ヵ月後、村田選手は、バイヨンヌのスタジアムのロッカールームで
会長から渡された背番号9のジャージをじっと見つめていた。
デビュー戦でいきなり活躍し、観客のハートを掴み、試合後には「ムラータ」と
コールされた。
パリ在住のカメラマン出村氏はそのデビューに鳥肌が立つのを感じていた。
観客の興奮、ボールボーイの熱い視線を一身に受けて日本プロラグビー1号
はこうして誕生した。
村田選手の遅れること1ヶ月、理奈夫人が一人娘を連れてきた頃には、
村田選手は、フランス語を覚えていた。またバイヨンヌの町で確かな足場を
築いていた。
ちなみに村田選手は、28歳の時に夫人が在学中(21歳)に結婚
(888:多分’98年8月8日?)この辺も強引な1面が出ていたようです
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第4章「府中」よりの抜粋の続きです
東芝でレギュラーポジションを取った村田は、キャプテンをしたいと
申し入れたが、この時キャプテンになったのは、アンガスことマコーミック
だった。そして日本ラグビー史に残る「PからGO」がはじまる
1996年、奇しくも神鋼の連覇が終わり一つの時代の変わり目を示し
ていたのかもしれない。PからGOの連続する素早いラグビーは、
当時の日本ラグビーに活力を与えたように思えます。当時青だった
東芝のジャージが、グラウンド内を駆け巡っていたのが思い出されます
特にバックスのWTB、FBは早かった。
決勝では、サントリーを破った三洋と激突。秩父宮にチケットは売り切れ
回りには入れない観客が道路に溢れていた時代です。そんな中で
東芝は見事にPからGOを貫きチャンピオンになった。村田としては
生まれてはじめての優勝であった。
1998年、社会人決勝は、村田と神鋼の堀越と最後のバトル。堀越は
シーズン後立正大の指導者となることを決めていたからである。
グラウンドの真ん中で2人のSHはとことんやりあった。そしてノーサイド
20歳で初対決してから10年、7回目の挑戦で初めて堀越に勝つことに
なった。東芝V3の年でした
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第3章「府中」よりの抜粋です
専大を卒業した村田が選んだのは、リーグ戦組が多かった東芝でした。
東芝府中には、戸嶋秀夫氏にまつわる伝説、朝昼晩全ての時間を
練習に費やしグランドでダミーにタックルした。郷里の秋田では杉の木
相手にタックル練習を繰り返しついには倒したそうである
村田より1年早く入社した梶原宏之氏は「俺はそれ以上の練習をする」
と誓い朝は5時に起きての練習を課していた。村田はその梶原の練習に
感銘を受け共に練習をする仲となった。
いつものように梶原氏の部屋にいた村田は1冊の本に出会った。
ガレス・エドワーズの自伝「現代ラグビーで最も完璧と呼ばれた男」
その中で1つのエピソードが気に入ったそうである。
「私は一生懸命体を鍛えた。普通はまず陸上競技をやることにしていたが
やれることは何でもやった。中略。終わるとくたびれ果ててバスに乗って
家に帰った。バス停留所は学校から1マイル半離れているから、その
距離を歩く分だけの余力を残して、他は全部練習に費やした」
余談ですが、村田はこの本を返さなかったようで梶原氏の頭の中では
「バス停まで這っていけるだけの体力を残して・・」と膨張していた
梶原氏の教え子達にとっては、不運だったのかもしれない
入社して1年目で日本代表に名を連ねて、第2回WCでは、ライバル
堀越氏を押しのけてスコットランド戦のスターティングメンバーになった
当時の宿沢監督には「あのSHが欲しい」とスコットランドから声が
掛かったそうですが、当時は、まだ踏み切ることはできなかった
スコットランド戦は村田の体に大きな傷を残した。東芝府中のメンバー
として社会人ラグビー界を席捲するにはまだ少しの時間が掛かることと
なった。次回に続きます
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第2章「伊勢原」よりの抜粋です
1986年 専修大学入学
「ウチに来ちゃったか」草ケ江ヤングラガーズ、東福岡を通じての先輩で
あった野口氏はそう思った。歓迎しそうなものであるが彼の思いは少し
違っていた。フィジカル面で体を激しくぶつけ合う大学リーグで通用するか
心配が先にたったようです。専大は有名無名を問わず才能に溢れた選手
の揃うチームだったからです
しかし村田本人から見た景色は違っていた。身長を伸ばすことを優先し
あえて筋肉トレーニングを先延ばしにしていたことによって、これからの
自分のポテンシャルがあると考えていた。だから大学1,2年は体作りに
専念し自分の長所である「素早いパス捌き」伸ばそうと考えていた
1987年 堀越正巳氏の登場
村田が大学2年生で体作りに励んでいた時、一人のスクラムハーフが国内
ラグビー界を席捲していた。高校日本代表で鳴り物入りで早稲田に入学
した堀越選手である
当時大学選手権に向けて行われていた対抗戦とリーグ戦の交流戦で
はじめて顔を合わせるが村田はリザーブであり、戦略的な交替がなかった
当時は試合に出ることはなかった。
1988年 大学3年になってはじめて背番号9を着て出場した。
当時の主将野口氏は、村田の能力は高く買っていたが、それに伴うリスク
も見えていた。村田に見える相手のディフェンスの穴が、周りのフォワードに
理解できないまま、サポートが遅れることであるところが夏合宿でレギュラー
の選手が骨折の怪我を負いいよいよデビューとなった
デビューすると野口氏の予想はいい意味で裏切られ、専大は連勝街道を
走ることになり、リーグ戦2位となり再び早稲田と交流戦で当たった。
リーグ戦2位として対抗戦3位の早稲田と当たったわけですが、15:27で
敗れた
1989年 村田は主将となった
この年は、専大と関東学院は全勝対決を迎えた、春口氏のSH村田対策に
苦戦し前半で0:19の差がついたが、冷静に戻った村田のリードで後半に
逆転し、リーグ戦の優勝を飾った
交流戦は、古豪明治。両チーム譲らず13:13で引き分け。選手権への道は
抽選となり、「当たりくじ」は明治に渡り、村田の大学ラグビーは終わった
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第1章「福岡」よりの抜粋です
「とにかく小さかった」、亙の少年時代を知る人は全くの異口同音で
振り返る。小学校以来身長は常に学年で一番小さかった。
草ケ江ヤングラガーズクラブ(KYRC)で亙はFBとしてプレーしていた。
ジャージの袖がダラリと垂れ下がる姿は亙のトレードマークであった。
まくってもまくっても激しいプレーを繰り返すうちに袖はすぐ伸びてしまう。
デカイヤツには負けたくない。そう考え抜いた亙の足もとに絡みつく
タックルに大柄なランナーはことごとく倒された。
「まるでハブに食いつくマングース」「カエル跳びタックル」は亙少年の
ニックネームになった。
小学6年生の時に湯布院で行われた九州ラグビー交歓会に出場した
時に自身の将来を暗示する言葉と出会う。
「アレは将来、日本代表になるぞ」亙のプレーを見たその人物は呟いた
「あのバネは凄い。森みたいだ」(ジャパンの名CTBの森さんです)
その人物とは、明大OBで九州ラグビー協会役員の新島清氏であった。
明大ラグビー部の歴史を築いた北島元監督は生前「至上最強の主将は」
と聞かれた時必ず「昭和14年の新島です」と応えたその人であった。
誰も注目していない極端に小柄な村田亙の素質をいち早く見抜いていた。
芽はまだ地上に顔を出していない。だが、土の中では太い根が逞しく育って
いた。
そして、中学を経て高校では強豪東福岡の一員として2年生からレギュラー
となった。東福岡対福岡工の試合の時、選手生活最大の怪我が襲った。
試合終了5分前にFLの頭で、亙の顎が砕けたのだ。それでもノーサイドまで
試合を続けた。村田選手らしいエピソードである
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これはいまだなお第一線で現役を
続ける一ラグビー選手の実話である
2003年7月8日、村田亙は競技生活のゴールラインに決めていた
ワールドカップは3ヵ月後に迫っていた。その時運命の携帯が鳴った
「宿沢だけど」ラグビー日本代表の最高責任者からの電話であった
「実は明日、ワールドカップのメンバーを発表するんだけど」
いつもと別人のようにゆっくりと語った
「申し訳ないけど、今回は君を選んでいないから」
「は?」 村田には宿沢の言っていることの意味が分からなかった
「だから、今回の代表選考で、キミは代表に入っていないから」
村田の頭にも事の重大性がおぼろげながら見えてきた。
「そ、それはどういう意味ですか?何がどうなっているんですか?
じゃあ、誰が入るんですか?」
宿沢は理由を述べたが、当然納得のできるものではない
・・・・
ワールドカップのために、日本代表のためにフランスの生活を捨て
帰ってきた村田にとって残酷な宣告であった。
当然代表選考に当たっては、選ばれる者、最後の最後で落選する者
悲喜こもごもである。しかし村田にとっては誰よりも大きな挫折であった
これから数回に渡り、表題の著書の抜粋により村田亙という選手の
生き様を振り返っていきます。面白いと思われた方は是非本を
購入されることをお奨めします。
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今日は「ポスト・アマチュアリズムの日本ラグビー」の項を取り上げます
’93年に行われたサッカーのWC予選”ドーハの悲劇”は、サッカーの
ファンのみならず多くの国民の関心事となった。その反面、ラグビーの
WCはNZに145点取られてはじめて「そんな大会あったんだ」と思われた
位でしょう。
なぜ、ラグビー日本代表は大きな共感と支持を集められなかったのか?
答えはラグビーがマイナー競技だからでもなく、人気が下火になったから
でもテレビ中継が少なかったからでもない。日本協会自らが国民の共感と
支持を集めようとしなかったから-それ以外に答えはない。
例えば、’95年2月に瑞穂で行われた、トンガ代表とのテストマッチ、あの
阪神淡路大震災直後になぜチャリティマッチにしてPRしなかったのか
また、犠牲に成られた多くの方に黙祷をささげ喪章を縫いつけることだけ
でも、選手のモチベーションはあがり、注目度は飛躍的に上がったはずで
ある。また、WC本戦においても、世界が知っている被災国の選手として
全試合喪章をつけてプレーするべきであった。試合前に黙祷するだけで
選手の精神的な支えになったはずである
ここからは私見
ラグビーの世界では、前述のようなスタンドプレーに見られることは避け
ようとする奥ゆかしい風潮があります。でも、表現することは表現し、言い
たいことは言い切る。言い切った以上は、責任を持った行動をとる。
その繰り返しでプロとしての自尊心が築き上げられるのではないでしょうか?
私はそれを信じ、この連休の過去の狂会本の振り返りを終わります
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今日は「ラグビーアマチュアリズムの終焉」の項を取り上げます
1995年の夏、ラグビー界は荒波に揺さぶられた。メディア王マードック氏の
南半球のテレビ権獲得などが起き世界ラグビー界は分裂の危機を向かえ
8月27日、ラグビー競技はオープン化し、アマチュア規定を撤廃を発表した
エリス少年がボールを抱えて走り出してから172年目の大改革であった
ラグビーはいつかプロ化する運命にあった。なぜなら、プロ化のスイッチが
入れられたからである。1984年豪州とNZがワールドカップの開催を提案し
1985年のIRFB理事会で開催決定した時、プロ化へのスイッチは入った。
1987年のWCはラグビー界を様変わりさせた。ニュージーランドがあまり
にも強く、そのチームに追いつくことはどの国にとっても覚悟が必要だった。
ナショナルチームは試合数を増やし、拘束時間を長くすることにより選手の
環境は大きく変わった。
ラグビーの選手資格がオープン化した流れのもと、日本の企業クラブも
これからのピクチャーを描かなければならない。良い面を守り、不都合を
洗い流して修正することが求められている。
これより私見です
10年以上前のこの問題提起に対してのアクションが遅れたことは否め
ないです。ラグビーという競技が、プロ(と言うか専門的能力を有する)が
求められる以上、サッカーと同じ展開は期待できないでしょう。企業スポー
ツを母体としての発展形態をもう少し模索する必要がありそうですね
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今日は「どうして誰も責任を取らなかったのか」の項を取り上げます
WC本番の2ヶ月前、髭の貴公子「平尾誠二」氏が、ルーマニア戦でSOと
してカムバックし勝利した。ただし、これがジャパンが積み上げてきた3年間へ
の全否定のであることに言及する記者はほとんどいなかった。
南アフリカで記者が眼にしたのは、カジノ、ゴルフ、そして145点でした。
連日カジノへ繰り出す神鋼軍団の行動を諭すどころか、一緒になってゴルフ
&カジノ三昧では、弁解の余地はない。主将やコーチの肩書きがなくっても
ミスター平尾はラグビーマンにとって特別な存在であり、選ばれし者に付いて
回る責任・義務があるのです。
対ニュージーランド戦に出ていなかったとしてもフィールドで戦った選手以上
に責任があるはずです。
南アで交わされた会話は、要約すると以下の通りでたらい回し。
小藪監督 「それは団長に聞いて」
白井団長 「平尾が決めたことだ」
平尾氏 「僕はアドバイスしただけです」
以後は私の感想
んー、この後、’99年WCを平尾氏が率いて行ったのが信じられないですね
(元オールブラックスを加え、チェリー・ブラックスと皮肉られましたが・・)
2006年の現在、監督制からヘッドコーチ制に変わり、H.Cエリサルド氏が、
選手の選抜とコーチングに選任できる体制がやっとできた。昨年の代表の
不祥事が不幸にして起こってしまった時には太田GMが対応するといった
分業制となり、やっとラグビー協会の本気が出てきた気がする。
惜しむらくは、10年前にもっと真剣な強化策を打ち出していれば、145点の
汚名は防げたのではないかと悔やまれてならないのです。あと16ヶ月で
WCの本番を迎えます。至上最強のジャパンが胸を張って遠征できることを
期待します。
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今日からは、もう一冊のラグビー本
通称ラグビー黒書、WCの145失点後のラグビー界を描きます
今日は「南アで何が起こったか」の項を取り上げます
南アのWC開催にあたり日本には目玉人事があった。それは「平尾誠二」の
コーチ兼任としての復帰である。代表SOには、新鋭の広瀬、ベテラン松尾と
2名選ばれていたのに久々の平尾氏の復活をSOで向える事になった。
キッカーが勝負を制すると言われた時代に1人のベテランを入れることにより
優秀なキッカーを押し出してしまった。
勇躍乗り込んだ南アフリカ、迎えるメディアの日本に対する評価は高く、ウェー
ルズとアイルランドに勝って決勝トーナメントに進む可能性有り」であった。
しかしながら現地に入ったジャパンの練習には悲壮感はなく笑顔と笑い声が
交錯していた。試合の前日、キックオフを併せようと言って、元木選手が上手く
蹴れなかった。コーチから「誰か蹴れないか、アキラ(吉田選手)蹴ってみろ」と
言われ、ドロップキックを試みると10mラインを超えた。コーチから「よし明日は
アキラで行こう」そんな言葉がコーチ陣から出た。WC初戦の前日の光景である。
この時点でウェールズ戦の結果は見えた。結果 10:57
3日後のアイルランド戦は、メンバーを一部変えた来たが、結果 28:50
そしてその4日後WCの歴史に残る空前絶後の試合が行われていた。
結果 145:17 およそ、あらゆる記録を塗り替える凄まじい試合。
いや試合と呼べるようなものではなかった
試合後の監督は「いやあ、オールブラックスは強かったねえ」と笑顔で迎え
選手の一人は「ぶん殴ってやろうかと思った」そうだ。
事実上の監督ももっともらしいコメントをされたが、この大会、日本代表に
決定的に欠けていたものがある。それは「尊厳」
技術の差は大きい。体格やパワーの差もあったろう。でも何より大きかった
のは、集中力の欠如。練習のチンタラぶり、連夜のカジノ通い・・・
唯一の光明は、WC後すぐの7月末に行われた菅平合宿。気合の入った
男達が練習に熱い空気を注ぎ込んだ。そして9月、そのメンバーが中心と
なって、マレーシアにて10人制大会コブラテンでニュージーランドマオリを
破ると言う大金星を上げた