瑞穂のラグビー好き

ラグビーをみんなで盛り上げましょう

GW特集:懐かしのラグビー本(赤)の4

2006年05月02日 | 本の紹介

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 今日は「貧者の核弾頭・企業アマ制度考」の項を取り上げます。
 (この話は干支で一回り昔1994年に書かれてます)

 企業アマ制度とは何なのでしょう?それは、企業がクラブのスポンサーで
あるだけでなく、丸がかえしていると言うきわめて特殊なシステムです。

 丸がかえであるから、本体が不況になれば休部・廃部の憂い目に遭う。
成績に関係なく会社の定例人事で部長。監督などの体制が変わってしまい
長期的展望化の強化が難しい。ひいては、ラグビー好きの社長の道楽で
やっていたりして、伊勢丹のごとく、社長の失脚とともにグラウンドが売却
されたりする。神鋼だって亀高体制が変わったらどうなるか分からないの
です。

 しかし、スポーツ文化が貧しく、インフラ(グラウンドなど)が整備されて
いない日本には最適なシステムであるように思われます。企業アマ制度
の問題点は、それが何十年経っても成熟しない点にあります。企業の
宣伝広告のために存在し、会社の福利厚生部門に位置づけられている
のでは仕方ないのかもしれません。

 スポーツは、サッカーのワールドカップの成功を見るまでもなく、21世紀
最大のビジネスです。膨大な利権を持ち政治的社会的にも独立性を保つ
ことなどできない文化事業となってしまいました。サッカーも五輪も選手を
守ることはできなくなってます。試合開始時間をTVの都合に合わせ、
酷暑の中でゲームをさせるなどは論外の暴挙です。遅れてきたラグビー
界は、先行競技のたどった道を繰り返すことを避けられるはずです。
でも考える時間はあまりにも少ない。行動あるのみ。とくくってます。

 話を現在に戻しますと、トップリーグが発足して今年で4年目、チーム
数を14に増やすという改革を行ってますが、実情は12年前とどれくらい
変わっているかが問題ですね。もちろんプロ契約を推進しているチーム
もありますが、多くはまだ企業アマチュアのままなのかもしれません。
競技する選手のために、応援する観客のために本当の改善はまだまだ
これから必要なのだと痛感します。

 では、次回はからは、もう一冊の問題の本。WC1995の後に書かれた、
ラグビー黒書について触れて生きたいと思います。


GW特集:懐かしのラグビー本(赤)の3

2006年05月01日 | 本の紹介

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 今日は「快楽的スタジアムの方程式」の項を取り上げます。

 雨が降ろうと雪が降ろうと、熱いプレーを生で観るために、ラグビーファンは
スタジアムへ足を運ぶ。屋根の有無など二の次、三の次と言ったところ。

 とはいえ、いざ雨が降れば観客は屋根のある部分に集中する。雨をしのぐと
同時に林立する傘で視界を妨げられたくないからである。しかしながら、日本の
主要スタジアムのどこにも屋根があるのはメインスタンドのみ。国立競技場に
いたっては全席指定で移動すらできない。

 J-リーグの盛り上がりと2002ワールドカップのため各地に屋根つきの
素晴らしいスタジアムができている。しかしながら、ラグビー専用球技場は
この本の書かれた12年前と変わらず、ラグビーとサッカーの時間の流れの
差を感じます。
 
 とは言え、ワールドカップ招致に敗れた今の時点では、ラグビーの競技場
が急に連立されるとは思えない状態です。それならば、サッカーとの共同利用
の目はないのでしょうか?昨年、トヨタ:ファルコンズ戦を豊田スタジアムで
観ましたが、試合の素晴らしさに加え、スタジアムの凄さに目を奪われました

 トヨタのトヨタスタジアム、ヤマハのエコパ、東京地区の味スタ、神戸地区の
ウィングスタジアムなどもっとラグビーを雨や寒さなど気にしないで観られる
環境が整えばもう少しファンも集りそうですが、いかがでしょうか?

 とりあえず、秩父宮と花園は使い過ぎです。芝がかわいそうだし、その上で
プレーする選手がせっかくの技術を出し切れなくって悔いが残る可能性が 
ありますからね。ではまた


GW特集:懐かしのラグビー本(赤)の2

2006年04月30日 | 本の紹介
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 今日は「7人のサムライ」の項を取り上げます

 山賊と農民の間にはどんな手段を使っても埋めることのできない力の差が
あった。そこで農民は野武士を雇い、その指導のもとに山賊と戦うための
戦略が練られ、農民の強化が始まった。「これ以上の略奪は許せねえ」と
言う危機感をバネに農民は”コーチング”され戦士へ。村はそれまでの共同体
から戦う”チーム”に変わっていった。そして対決の日”テストマッチ”を迎える

 本書では、黒沢映画「7人の侍」になずらえ、当時の日本ラグビーの強化を
顕しています

 本書では、当時の7人の侍として次の7人をあげてます

 日本の助っ人外国人の草分け:ポポイ・タイオネ、ノフォムリ・タウムエフォラウ
 当時強化されていたニコニコ堂:エケロマ・ルアイウヒ
 スコットランドを破ったNO.8  :シナリ・ラトウ
 ボールをつないだフィジアン  :ブルースファガーソン
 サモア発・日本経由NZへ   :サミュエル・カレタ
 お喋りワラビーの名WTB   :イアン・ウィリアムス

 1995年に実質ラグビーのプロ化が実施された後、スーパー14に代表される
ように選手達はアマチュアからプロ契約の道を選び出します。
 2006年の現在では、当時とは比較にならないほどのスター選手が各チーム
にいます。(南アのヤコ・ファンデルベスト・ファイデンはその典型でしょう)

 それでも、スーパー14や国代表選手から大学留学生までと幅広い人材が
日本トップリーグおよび下部リーグに存在してます。他国の代表経験があれば
ジャパンになれないという規定ができたからは、外国人の代表入りが少なく
なっているようですが、来年に控えたワールドカップには、またサムライ達の
力が必要になってくると思うのですがいかがでしょうか?

GW特集:懐かしのラグビー本(赤)の1

2006年04月29日 | 本の紹介
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 今から12年前に書かれたある本があります。日本ラグビー狂会著
「ジャパン幻のキックオフ」別名「赤本(RED BOOK)」です。

 当時は、第3回WCの前ですが、ラグビーの現状を憂う多くの方の
意見が述べられている貴重な本です。今日からGW、昔を振り返って
今の現状を見直していきたいと思います。

 では第1回目「日本ラグビー終焉の日」より ( )内は私のコメントです

 1.平成6年、日本ラグビー界はかつてない危機に陥っている。毎年ラグビー
   人口が増え放っておいてもメディアがサポートしてくれた時代は去った。
   (もう12年も前から提言されていたんですね)

 2.ジュニア・レベルの衰退/スター選手不在
   全国公立校では部員不足になやんでおり、社会人では松尾・平尾以来
   スターが出てこない。サッカーのJリーグのカズのような存在は必要
   (これまたごもっとも)

 3.情報の閉鎖性
   ラグビー協会の姿勢は、「取材などして欲しくない」が続いた。ここにきて
   ようやく協会側も広報活動に力を入れる姿勢を強調しているがなにも
   変わっていない。
   (インターネットが大幅に飛躍した12年後の今も同じものを感じます)

 4.ところで協会とは
   正確には「財団法人日本ラグビーフットボール協会」ところがいったい
   誰が権力を握っているのかはっきりしない。戦前の日本ラグビーを
   引きずっている老人達であることは容易に推測がつく。
   (この件については、大分改善された気もしますが、詳しい方教えて)

 では、明日に続きます

「日本を思い、イラクを翔けた」より-6

2006年04月16日 | 本の紹介

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 ここ4年間の早稲田のスローガン
「アルティメット・クラッシュ」この言葉を生み出したのは奥氏である。

 2002年2月、清宮監督率いるオール早稲田は、22日間のアイルランド、
イングランド遠征を実施した。その時献身的なサポートを受けたのが
ロンドン駐在をしていた奥氏である。

 清宮氏と奥氏は最初から妙にウマが合った。同じ関西出身の関西弁
同じ趣味だったそうです。

 キャッチフレーズが生まれたのは、オックスフォードのホテルで
清宮監督、奥氏、そしてコーチ陣と一緒にスローガンを考えた

「進化」「尊厳」「自信」「圧倒しても優勝する」「徹底的に」「追求」など
次々浮かぶ言葉を、奥氏は英語に変えていった。

そしてついに誕生したのが「Ultimate Crush」「アルティメット・クラッシュ」
だった。

完膚なきまでに叩きのめす、徹底的に潰す といった意味の言葉である

山下組は、そのスローガンを胸にその年の大学選手権を駆け上った。
実に13年ぶりの大学選手権制覇「荒ぶる」が国立競技場で歌われた


「日本を思い、イラクを翔けた」より-5

2006年04月06日 | 本の紹介

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 外務省に骨のある男がいる。
巷でそういう言われるようになった
もちろん奥克彦しである。

 2000年4月奥氏が国連政策課長になったとき内閣総理大臣になったのが
森善朗さんであった。奥氏の早稲田ラグビー部の先輩に当たります。
普通だと総理大臣の執務室に出入りできるのは、局長より上の人である。

「でも彼は平気で一人でやってきた。”やあ、先輩”と。
 官邸はみんな認めていた。奥君は特別だった」
 と森さんは振り返る

奥氏は森総理に「ラグビーのワールドカップをやりましょう、招致しましょう」
と訴えたそうです。森前総理は、その遺志を引き継ぎ、WC日本招致委員会の
会長に就任した。インタビューの声が湿り気を帯びました。

「ワールドカップをやりたいと言った奥くんの気持ちを大事にしてお手伝い
 するのが天命なのだ。ワールドカップ、それば、僕らの 日本ラグビーの
 夢なんだ」

 5部の予定でしたが、少し伸ばします。アルティメットクラッシュの誕生に
ついては次回のお話にします。

追伸:WC予選まであと10日です。みなさん応援の準備はできてますか?


「日本を思い、イラクを翔けた」より-4

2006年03月31日 | 本の紹介

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 1981年に外務省に入った奥氏は
持ち前のバイタリティで友人を増やした後
1982年夏オックスフォードに2年間留学する

 厳しい勉学とラグビーを両立させオックスフォードの1本目に入り出場
果たす。ケンブリッジとの対抗戦出場の栄光”ブルー”を目指した、それは
叶えられなかった。

 奥氏の留学時のポリシーは、次の通りである

 「日本人とつるむな。外国人の中に飛び込んでいけ。ポジティブにやれ」

 奥氏は現場主義のこだわった説得力が違うと言っていた。そして
 1990年嵐の吹き荒れる中東イランに赴任する。
 
 1991年イラクの圧制から逃げ出したクルド人難民がトルコ・イランの国境
地帯に集り200万人を超えた。
 日本の医療チーム13人が到着するすぐに800kmをコンボイで翔けた
現場に医療チームと一緒に入り込むと、赤ん坊が次々死んで逝った。

赤ん坊が死ぬ理由がオムツが濡れて体温が下がるからと判るとテヘランの
日本人部会の婦人部に長距離電話を入れ、言った
 「テヘラン中の紙おむつを全部買い集めてください」

 奥氏は飛んで帰り二日後には「トラック一杯の紙おむつ(約5万人分)」
到着し、そしてその後は赤ん坊の死亡率は激減した。

 奥氏の常人離れした行動力に加え、普段の交流によって培われた人脈が
この奇跡のような行動を起こせたそうです。

 またこの医療チームに「日本の外交官は民間ボランティアに冷たいのか」
と言われ、奥氏も言葉に詰まった。そして医療チームが帰国する前に
「イランにも良い所がありますから」と1泊2日の慰安旅行を実行させ
最後に
「先生どうもありがとうございました」と人懐っこい笑顔を浮かべた
そうです


「日本を思い、イラクを翔けた」より-3

2006年03月24日 | 本の紹介

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 早稲田に入った奥氏は、当然のように
東伏見グランドへ舞台を移した。

 しかしながら、外交官という夢を追い続ける奥氏は、有望選手が入る
「寮に入ると規律が多くなる」との理由で下宿し、練習の後も勉学に
取り組む生活となった。

 多くの部員と同じようにフラフラになりながらも素質を見抜かれ
英才教育を受け、2年生の夏合宿前にはリザーブへ。夢の赤黒
ジャージまであと一歩に迫った時に、奥氏は決断し、合宿中の
菅平から降りた。

 「外交官になるために 外交官の試験勉強に集中するために」

 その後、奥氏は現役で難関の外務公務員採用上級試験に合格する
 ことになる

 今回の最後は早稲田の巨人大西氏の披露宴での祝辞をご披露したい

 「ワセダを卒業してから外交官になるのは”アホ”や。
  どうせ、東大出身がぎょうさん、おるのにな。
  奥、おまえはラグビーのジャパンになって国際的に
  活躍した方がみんなのためになったのだ。
  でもそんな”アホ”がいてもいいかもな」

 大西氏独特のシニカルな賛辞であった


「日本を思い、イラクを翔けた」より-2

2006年03月17日 | 本の紹介

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 奥さんは1つ上の友人の坂本さんに
 惹かれるようにラグビーに没頭します
 当時、メンバーが集るのがやっとのチームだったようですが、花園出場
 目指して猛練習がある中、奥さんは「外交官」の夢を追い続け、勉学と
 両立されたようです。

 勉強が駄目でも俺達にはラグビーがあると言う雰囲気が流れた時に
 「そうじゃないだろう、ラグビーをやるからには、ちゃんと勉強もしなけ
  れば駄目なんだ」
と言って近くの公民館を借りて、集合勉強会。
 先生役はもちろん奥さんだった。

 進学校ゆえの悩みで、ラグビーを辞めるとの言うだす人も多かった
 そうですが、その都度自宅に立ち寄り引き止めたそうです
 「リーダーシップと言うか、情熱と言うか、言葉に説得力があったん
  です」
と友人が語ります

 花園目指すためのエピソード。修学旅行にラグビーボール持参で
 行ったそうです。
 「朝、奥が各部屋を回って僕らを起こしにくるんです。部屋の鍵を
  かけると、奥はベランダ伝いでやってきて『花園目指して走るぞ』」

 奥さんが2年生の時に、ついに花園出場となりました。
 その後早稲田に進まれるのですが、それはまた次の回に


「日本を思い、イラクを翔けた」より-1

2006年03月10日 | 本の紹介

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 村上さんの「ラグビー愛好日記」で
 紹介された松瀬氏著の題名の本
 副題 「ラガー外交官・奥克彦の生涯」を
 読み感銘を受けた箇所が沢山ありましたので、
 少しずつ紹介したいと思います。


 物語は、奥氏の友人、坂本さんの弔辞からはじまる

 「奥よ。
  聞こえるか。どうしてるねん。そんなところで横になって。
  まだ、ハーフタイムじゃないか。
  ほら。立ち上がって、後半もいっしょに戦わないとあかんやろう・・」

 奥 克彦氏の生まれた時代背景から、宝塚市の存在などを織り交ぜ
 ながら物語は続きます

 宝塚電気商会の一人息子として育ち、負けず嫌いな、ガキ大将時代を
 過ごしたそうで、ガキ大将仲間が当時を振り返る。

 「まず先頭ありきが、おっくんのポリシー、何かにつけて競ってました。
  野球から、運動場の場所取り、そろばん、習字、虫取りまで」

 「絶対一番、なんでも一番」

 「でも虫取りの後、分けるときになると、体の小さい子から選ばせて
  あげるという優しさの持ち主」

 子供当時から、人のために何かをしたいと言う気持ちが育まれていた
 少年時代。中学までは、野球に没頭し、高校でラグビーと出会うことに
 なったようです。

 高校でのラグビーの話は、また次回に