かつて急進的なマルクス主義者であり、パリの5月革命の精神的な支柱の一人として運動を先導したことで知られるフランスの哲学者ジャン=フランソワ・リオタール。彼はまた、1980年代を象徴する「ポストモダン」という言葉(概念・運動)の、ある意味「引き金を引いた」人物としても世界的によく知られた存在です。
ポストモダン(Postmodern)とは、文字どおり、「モダン(近代)の次に来るもの」を指す言葉です。モダニズム(近代主義)がその成立の条件を失った(と思われていた)時代背景の中で、モダニズムを批判する文化上の運動として成立し、20世紀の終盤、思想や哲学、文学、デザインなどの様々な分野におけるイノベーションのシンボル(キーワード)として盛んに用いられました。
Wikipediaによれば、「ポスト・モダニズム」という用語自体は1960年代にも確認することができるようですが、この用語が今日的な意味で使用されるようになったのは、リオタールが『ポストモダンの条件』を著した1979年以降のことであり、この概念はフランス現代思想界からベトナム戦争以降のアメリカ社会に大きな影響を与え、さらに分野を超えた「時代の潮流」を形成するに至ったとされています。
リオタールは、著書『ポストモダンの条件』において、「ポストモダンとは、『大きな物語(グランド・セオリー)の終焉』を指すものだ」と述べています。マルクス主義のような壮大なイデオロギーの体系(=大きな物語)を纏った時代は終わりを告げ、メディアによる記号・象徴の大量消費が行われる高度に情報化された社会が訪れる。つまり、「モダン=近代」の次に到来する混沌とした情報に満たされた社会は、民主主義と科学技術の発達が迎える一つの「帰結」として存在するというものです。
一方、近代(=モダン)に特有なものとされる「大きな物語」は、もう少し間口を広げると、自立的な理性的主体としての人間のという理念や、整合的で網羅的な論理の体系性、世界の抽象的な客体化や中心・周縁といった階層化など、これまで合理的とされた「思考の態度」のひとつひとつを指しており、こうした態度を再考する立場が「ポストモダン」の立ち位置であるということもできます。
芥川賞作家である藤原智美さんの近著に「ネットで『つながる』」ことの耐えられない軽さ」(文芸春秋社)という作品があります。この著作の中で藤原さんは、ネット時代の到来の中で、現代は「言葉の根幹」が揺らいでいる時代だ…としています。そしてそれは「国家の揺らぎであり、経済の揺らぎでもあり、社会の揺らぎにつながっている」というものです。
ネット環境の普及により体系を失った日本語の「話し言葉化」は、受け手の感情に訴える機能を極大化する一方で、「論理のプロセス」を否定する方向に向かっていると藤原さんは指摘しています。そして、こうした傾向は、人々から「俯瞰的なものの考え方」や「長期的な視点」を奪い、その場その時の瞬発力のみが脚光を浴びるという、非常に短期的に「入力」と「反応」を繰り返す断片化された社会の到来をもたらすという懸念につながっています。
また、このような「話し言葉」の重用は、教育におけるコミュニケーション能力、プレゼンテーション能力の偏重をもたらし、論理ではなく表現の巧拙が社会における影響力を左右する、ポピュリズム的アジテーション社会をもたらすのではないかと藤原さんは危惧しています。
実際、政治の世界においても、日本語の「話し言葉化」は顕著に進んでいると藤原さんは言います。政治家の言葉の幼児化、オノマトペ(擬態語、擬音語)用語の多用、そして繰り返される失言など。最近の政治家の口調には、共通して「反省的思考」に乏しい話し言葉の特徴が顕著に表れていると藤原さんはしています。
数年前の日本には、二大政党制を理想とする政治的な指向がありました。そしてその後の二度にわたる政権交代を経た今、こうした「大きくまとめられた」政治体制を現実的に可能な選択と認識している日本人は、一体どのくらい存在するのでしょうか。
国民の間にある様々な意見を、たった二つの政党、その「物語」に集約することは、今の政治には不可能だということに国民は気が付いたと藤原さんは指摘しています。現代の政治には、人々の様々な価値観や主張を束ねて拾い上げるような力はない。政治家がいくら耳を澄ましても、多くの声が混じり合ったノイズにしか聞こえない…という認識です。
政治家の「書き言葉」が、話し言葉として拡散する「声」を吸収し、大きな物語に「紡ぐ」力を失っている。よって、それぞれの声に合わせたグループがその数だけ生まれる。その結果、話し言葉を行動原理とする(書き言葉をなくした)政党が数多く創出される。これが現在の日本の政治的景色に対する、藤原さんの俯瞰的な認識です。
外交上の問題解決や先の戦争の歴史認識に係るトラブルについても、同様のことが言えるのかもしれません。問題を整理し、理解し、認識の違いを埋めていく。「大きな物語」を必要としている現場の要請に応えられるだけの能力を育てていくための努力が、今後は改めて必要になる…ということでしょうか。
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