「週刊東洋経済」の9月7日発行号に、歴史学者の與那覇 潤(よなは じゅん)さんが興味深い論評を残しています。(コラム「歴史になる一歩前」)
昨今のグローバル資本主義のもと、広告収入が支えるサービスとしてインターネットを通じて様々な情報が無償で人々に提供されたり、また、世界中の人々が個人としてフェイスブックやツイッターなどのSNSを通じて無償で相互の情報をシェアしたりすることが、あたかも当たり前のように行われる時代になっています。
情報は独占するよりも、多くの人間が共有することによりその価値を増大させるという新しい考え方と、それを実践する仕組みが世界中に拡大しつつあります。こうした情報の「共有化」のための仕組みの発達は、例えば土地や資産の所有者を決めずに「みんなで分け合っていこう」という平等主義的なニュアンスとして、いわゆる「コミュニズム(共産主義)」の領域に近いものがあると與那覇さんは指摘しています。
一方で、ユーザーから「金を取らない」こうしたサービスの拡大は、皮肉にも企業や労働者に過酷な競争をもたらしていると與那覇さんは言います。
自宅に居ながら誰もが一瞬にして、そして無料で最新の情報に接することが出来る。どの製品が最も性能がよいか、どの企業が最も安価なサービスを提供できるか、どの国が最も有望な投資先か…世界規模で共有された情報は、企業による大幅なコストカットや安価な雇用を求めた海外流出などにつながり、「資本主義(キャピタリズム)」的な収益構造をより露骨なものにしている。情報をシェアする仕組みが企業や個人間の競争を助長するというこれまでにないサイクルが生まれている…そういうお話です。
「共産主義的」な情報の共有が「資本主義的」な競争を産むというこのような動きに対し、與那覇さんは、「かつてはケインズ的(福祉国家的)な修正資本主義が二つの体制を収斂させると言われたが、どうも今日の私たちは、それとは違う形でのキャピタリズムとコミュニズムの『混合経済』を生きているようだ」としています。
そもそも、戦後日本の経済発展は国家や政府の経済への介入・管理を許す「最も社会主義化された資本主義」がもたらした…との評価は既に一般的なものとなっています。
その社会的格差の少なさから、日本を「最も成功した社会主義国」と揶揄する向きもありました。そういう視点に立てば、「日本型資本主義」とも呼ばれたこのような「修正主義」的な経済運営も、需要と供給がネット上で瞬時に結びつくこのグローバル情報社会の中でいよいよ終焉の時を迎えようとしているのかも知れません。
そして、その引き金となったインターネットなどによる社会の急激な情報化は、皮肉なことに消費者であり労働者である国民が望んだ「機会平等社会」のひとつの到達点と言うことも出来るようです。平等なのに平等じゃない。安価で簡便に情報を求めてきた自らの選択が、結果として現在の厳しい生存競争を個人に対しもたらしているという筆者の指摘も、ひとつの自明の理と言うことができるかもしれません。
さて、経済学的な観点から言えば、生産要素をシェアすることは基本的にコストの低減に繋がります。だからこそ資産として占有せず、共有して利用する。それが資本としての再利用が難しい「情報」であればなおさらのことでしょう。情報を世界的に共有し共通の条件の下に競争する。また、そうでなければもはや競争にならない。グローバルスタンダードは既にそういう所まで来ているということになるでしょう。
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