MEMORANDUM 今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

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♯164 絶望の国の幸福な若者たち

2014年05月17日 | 本と雑誌
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 第2次大戦からの復興をなんとか成し遂げ東京オリンピックや大阪万博に日本中が沸いた1960年代から70年代にかけて、日本の若者や子供たちは社会の「進歩」を自明のこととして受け入れており、そしてそれはまさに時代の「感覚」であったように記憶しています。

 ベトナム戦争が泥沼化し、徴兵された大勢のアメリカの若者たちが「ヨコタ」や「嘉手納」から戦場に送られていく一方で、そうした戦場のニュースをブラウン管(←いや懐かしい)の白黒画面向こうにまるで「フィクション」のように眺めながら、日本の若者はアポロ11号の月面着陸のニュースをあたかも人類の勝利のように聞いていました。

 テレビアニメでは「鉄腕アトム」や「スーパージェッター」がどこからともなく現れて、科学の力で毎日この世界の悪者を退治してくれています(その節は、どうもありがとう)。ヒーローは必ず「未来の国」からやって来て、私たちを正しい未来に導いてくれる。つまり子供たちの描く「未来」はこうした時代の気分に支えられ、私たちの目指す未来の世界が基本的に「ひとつ」であることを示していました。

 僕たちが大人になる頃には科学が発達し、生活の苦労は減少して生きていくのが今よりずっと楽になる。便利で清潔で差別のない、皆が暮らしに困らない「豊かな」社会になっている。ニッポンの戦争は終わった。これからは技術と経済の力で世界に平和な社会がもたらされるのだ。

 大変な戦争を経験していた大人達は、次の時代を創るため四の五の言わず経済成長に向け(まっしぐらに)邁進していました。教師たちは教室で、「勉強をしろ」「戦争はいけない」「親や先生の言うことを聞け」と子供たちにまっとうな指導をしてくれます。子供の世界は世界で、けんかやいじめやなどの(今から思えばかなり)乱暴な出来事が毎日のように繰り返されてはいたけれど、家に帰ってご飯を食べながら家族と見る夜7時からの様々なテレビ番組は、若者や子供たちに現実とは少し違った様々なドキドキやワクワクを提供してくれていました。

 年間10%近い経済成長を成し遂げ「夢のような時代」として描かれることも多いこの時代、実際、若者は将来への大きな希望(言い方を変えれば「モデル」)を胸に幸せな(満足できる)日常を過ごしていたのでしょうか。

 内閣府の「国民生活に関する世論調査」によれば、こうした時代を暮らしていた1960年代後半の20歳代の若者の「生活満足度」は、概ね「60%程度」であったことがわかります。この数字を「高い」とするか「低い」と見るかは意見が分かれるところでしょうが、いずれにしても73年の第一次オイルショックなどに伴いこの数字は一時50%代まで低下しています。

 しかし、この「若者の生活満足度」は1980年代から一転徐々に上昇を見せ始め、1990年代後半以降は70%近くを示すようになってきているということです。実際2010年の時点の数字で見ても、20歳代の実に70.5%が「現在の生活に満足している」と答えており、それ以前の時代よりも、また他の世代よりも特異的に高い数字を示していることがわかります。

 東京大学大学院の大学院生であった古市憲寿(ふるいち・のりとし)氏は、今から2年前の2011年に著した「絶望の国の幸福な若者たち」(講談社)において、なぜ現代の若者たちの生活満足度がこのように高いのかに関する興味深い考察を行い、多くの研究者の注目を浴びました。

 ここ数年、増えるばかりの非正規雇用や低賃金で働くワーキングプアの問題、そして現代版ホームレスとも言えるネットカフェ難民の実態などを踏まえ、様々なメディアにおいて「不幸な若者」や「かわいそうな若者」という視点がクローズアップされています。しかし、そんな環境の中でも、どうやら現在の若者たちの多くは自分たちのことを「幸せだ」と感じているらしい…。それが古市氏の着眼点です。

 一方で、現在の若者たちは将来を「不安だ」とも思っていると古市氏は指摘しています。前述の世論調査によれば、「将来に不安がある」と答える20歳代はバブルが終わった1990年代後半から上昇し始め、2008年には67.3%にまで達しているということです。つまり、半数以上の若者が、この失われた(と言われている)20年間をそれまでよりも「幸福だ」と感じながら、同時に自分の将来を「不安だ」とも感じているということになります。

 古市氏はこうしたデータをもとに、この「幸せな若者」の正体を「コンサマトリー」という言葉で説明しています。「コンサマトリー」とは「自己充足的」という意味で、「今、ここ」にある身近な幸せを大事にするという感性を指す言葉です。つまり、「より幸せな明日」を想定した未来のために生きるのではなく、ともかく「今はとても幸せ」と感じる若者の増加がこの「幸せな若者」の実態だというものです。

 「中流への夢」が潰え企業の正式メンバーになれない若者が増えていく中で、遠い未来を展望することなく(視点を身近な所において)「コンサマトリー」でいられる若者が増えているのではないか…、それが古市氏の見解です。

 世代に共通した目標や生きがいが消失した時代において、若者たちは自らへの無力感を抱き「私生活への閉じこもり」が起こっている。まるで江戸時代のムラに住む農民のように、「仲間」がいる「小さな世界」で日常を送る若者達。これこそが現代に生きる若者たちが幸せな理由の本質だと古市氏は指摘しています。

 確かに、目標とすべき未来の姿が見えていれば、それに届かない現状に満足ができるはずはありません。成長や進歩が当たり前とされる社会の中で、教師から期待され親から期待され社会から期待される環境において、いつかは車が欲しい、家庭が欲しい、マイホームが欲しいというような10年先にある目標である「一人前の完成された大人」を目指す若者に、現状に「満足」している余裕はなかったかもしれません。

 「幸せは歩いて来ない」、だから自らの足で歩いていかなければ駄目だと尻を叩かれ続けていた当時の若者にとって、「満足」せよりも「不満」の方が身近な存在であったことは容易に想像できます。一方で、与えられた環境の中で自らが社会の主役だと感じることができない現在の若者にとっては、「幸せ」や「満足」は自ら勝ち取っていくものではなく、自分が「感じて」いくものだと考えられているのかもしれません。

 インフラや生活環境といった面では、現在の若者は過去最強の「豊かさ」の中で暮らしていると古市氏は言います。「現在」だけを見れば、確かに今の若者はこれまでにない豊かさを享受していると言えるかもしれません。しかし、この先の未来に広がるであろう厳しい社会を想像した時、そんな彼らも現状に「満足」してばかりはいられないのではないかと不安を感じるのは、年寄りの老婆心というものでしょうか。

 現在の「幸せ」を支えている社会の基盤自体が既に徐々に腐りかけているという現実を、若者の時代を安逸に過こしてきた私たちの世代も、時代の当事者の一人として責任を持って直視していかねければなりません。


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