この海鼠壁の建物に足を踏み入れると、凄く広いエントランスです。
さて、肝心の抱一、重文の夏秋草図屏風、そしてその草稿。
多くの絵画が展示されています。
そしてその多くが個人蔵というのが驚きです。
酒井抱一(宝暦11年~文政11年/1761~1828)は姫路藩主酒井雅楽頭家に生まれ、若い頃から大名家の子息として教養を積む一方で、
吉原の妓楼主、遊女、狂歌師、戯作者などとも親しい交流があり、様々な教養を身に付けていました。
20代にあたる天明年間(1781~89)には、特に狂歌と浮世絵をよくしました。寛政2年(1790)、姫路藩主であり、
抱一のよき理解者であった兄の忠以が急逝すると、抱一は寛政5年に隠棲し、寛政9年には築地本願寺で出家し、
寛政年間末頃から本格的に絵画を制作するようになります。抱一が特に深く私淑したのは琳派の巨匠・尾形光琳(万治元年~享保元年/
1658~1716)であり、様々な顕彰活動を通じて光琳の遺風を継ぐものとしての地位を確立します。
抱一の画業を振り返ると、光琳の画題、画風に倣う作品を制作する一方で、吉原を舞台にした洒脱な行事絵や、細密な仏画、
復古的画題なども手掛けており、その作品は幅広い分野に渡ります。華やかな交友関係をもつ抱一は、江戸の流行の先端に接し、
当時の関心を反映させた画題を取りあげ、趣向を凝らして風雅に装うことに優れていました。光琳の後継者として自負しつつ、
都市文化の中で育まれた美意識を、高貴で華麗な色彩、肥痩を活かした艶やかな描線、洗練された江戸特有の情緒的な表現といった
造形の中に結実させ、成熟期を迎えた文化・文政期の江戸文化において大輪の花を咲かせます。
本展観では、抱一の幅広い画業を大都市江戸の文化潮流の中で捉えながら、華やかさと繊細な情緒を織り合わせた抱一作品の魅力
を改めて感じていただきたいと思います。
(チラシより)
この本館で入館券を提示する必要はありません。
つまり再入場が自由にできるということです。
絵画をみて、文華苑を散策して、再び展示をみることができるということです。
春先に桜や梅が咲いた時にはいいかもしれませんね。
そしてその文華苑からすぐ南側にある蛙股池を見ることができます。
この蛙股池、今はかなり水位が下がっていますが・・・
ここに流入する川はなく、雨水だけで満水になるようです。
ただの池ではなく、実は最古のダムらしいです。
推古天皇の頃に作られたという話です。
満水の時にみたいものです。
そしてここにかかっている橋はあやめ新橋。
その西側(向かって右側)にはあやめ池神社があります。
さて、坂を下りてゆきます。
門を出ると、壁に紅葉した蔦。
さて、部屋に戻ることにしましょう。