父親に関しては、大分県の中津藩が祖先だと言う事は知っていたけど、本人は1度も中津に住んだ事がないと言う事、数年前に初めて分った。
子供の頃にしょっちゅう「中津に行こう」と言っていたので住んでいたと勝手に思っていた。(ココでも大分出身になっているが、こんなもんが発表されているのを知ったの、つい最近)
おとーさん(僕の爺さん)が満鉄に勤めていたので生まれは満州大連。
その後,立教中学から早稲田の商学部に行き、森繁久彌さん(同級生)と仲良くなる。
そんでもって毎日新聞記者から日テレ開局の際、最初出向、そして結局社員に。
新聞記者になるのが夢だったらしいので、夢を実現したと言う事であります。
当時、テレビなど海の物とも山の物とも分らん時代だったと思う。
日テレは当時、NTVとも呼ばれていた。
社旗の色は最初、早稲田カラーの小豆色。(今は違う)
たぶん日テレには早稲田出身の人が多かったんじゃないかな。
小学生の時、父親に日テレの旗を作ってもらい自転車に付け走っていたのを覚えている。
日テレ開局した当初、テレビに映るの嫌がる人が多かったので(今では考えられないが)家でコマーシャルの撮影をやった事が何度かあったらしい。
バックから強いライトが当たっていたのを、うっすら覚えている。
父親以外は家族全員出演したらしい。(何のCMだったのかな?)
放送局の人間なので、当然家にはテレビがあった。
隣に住んでいたのはアメリカ人の軍人で、奥さんは日本人で名前は瀬戸さん(たぶん現在アメリカワシントン州在住)
アメリカ人は、アメリカンフットボールが好きなので試合があると、うちに観に来ていたらしい。
瀬戸さんが僕を羽田のPX(日本人は入れないスーパー)に連れて行ってくれたらしいけど、全く覚えていない。
外国人の子供が話しかけて来たと当時母親に言っていたそーです。
なので家にはアメリカの缶詰など仰山あったらしい。
こーゆー経験をガキンチョ時代からしていたので、スーパーマーケット好きになったのかも。
彼らはアメリカに帰国しトレーラーハウスで生活していると言う話を聞き(写真も送ってもらった記憶あり)いいなー楽しそーと当時、幼稚園児(小学低学年かも)だった僕ちゃんは、ちと憧れたのでありました。
ガラガラ蛇の尻尾や、当時日本には無かった電動歯ブラシ、電動ゆで卵器など色々送ってもらった。
瀬戸さんがいた時代に農大生だった父親の一番下の弟が居候していた時期があったが何年ぐらいいたのか記憶無い。
この伯父さん、カナダのバンクーバーの近くのホワイトロックと言う所でバラ園やって成功。
さっさとカナダ国籍取得。
息子(僕の従兄弟)がパイロットなので、たぶん飛行機代など無料(格安?)なんでしょ。
時々、農大の集まりがあると帰国する。(この伯父さんから2~3年前に瀬戸さんから電話がかかって来たと連絡があった。バンクーバーとワシントン州はお隣同士。瀬戸さん元気かなー。会ってみたいなー)
とにかく父親は家に人を呼ぶのが好きな人で、正月などは日テレの部下の人達が仰山来て、大変だった。(当時、おせち料理など母親が全部作っていた)
そー言えば、タケちゃんとか言う親戚の人が一時家にいた事もある。
九州だったか大阪だったか忘れちゃいましたが、西日本方面から駆け落ちしてきた親戚を泊めてあげた事もあったらしいが、覚えていない。
大きな家じゃないのに、父方の従兄弟が何人か泊まりに来た事あったが、会ったのはその時だけ。
なんせ、TBS(確か)の重役が家に来た時、前を通りすぎたと言う話があるぐらいだから。
家の大きさより食べ物に興味があった人なんじゃないかな。
「◯◯食べた事ある人」と小学校の先生に質問され、うちの兄貴1人だけ全部手を挙げたと言う話があるぐらい色んな所に食べに連れて行ってくれた。
普通、父親と息子がキャッチボールやるのが定番みたいだが、そんな経験まったく無い。(野球に興味無かったけどね)
釣りにはよく連れて行ってもらったが。
本は何冊でも買ってくれた。
しかし今でも覚えているけど大森駅前の書店で「次郎物語」の文庫本(六巻ぐらいあったかな)を買ってもらったが、結局読まなかった。
こーゆー事は自分で買った本でも、よくあった。
今まで買って読まなかった本が何冊ある事やら。
シリーズもんなど買う事自体が義務になり、その後、積読状態。
5回ほど引っ越ししているけど、荷物は少ない方がいいー。
なので図書館で借りる事が多くなったが、必要だと思ったら購入。
ってここまで書いて、現在、日テレ、読売、原発問題で評判よくないのを思い出した。
日テレ初代社長の正力松太郎さんが原子力委員会の初代委員長。
父親は正力さんに可愛がられたそーであります。
尻切れとんぼですが終了ー。