みりんの徒然声

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みりんの徒然声 右腕に遺書を

2016-12-08 21:00:35 | 日記
昨夜ぼんやりと見ていたTVに鬼束ちひろさんが久しぶりに出て歌った。安定した抜群の破壊力に涙が止めどなく流れ落ちた。歌を聞いただけで心臓がわしづかみにされたように痛むのに、歌っている本人はどんなに生きにくいのだろうと勝手に解釈してまた泣けた。しつこいようだが、あたしには沢山のタトゥー達がいる。それが母親の逆鱗の鱗のひとつなんだけどあたし的には黒子のように消えない傷のように当たり前にあるものになっていたが、久しぶりに鬼束さんの歌詞を右腕に入れたことをよかった、と安堵した。若い頃、あたしがもっと卑屈でわがままだった頃、それでも例えば明日あたしが死んだら何を考えて生きていたのか分かるように遺書代わりに入れたタトゥー。英文にしてるけど。昔より今の方がより言葉の意味が分かる気がする。美徳は信じて裏切る早さだと言うのに何故まともでいられないの?だ。鬼束さんの映像を頭の中で反芻して、自分で右腕を抱いていつまでも泣いた。爪のない指が腕に食い込んだ。大丈夫だ。こうして右腕を指でなぞりながらあたしは春を待つのだ。凍えるような雪に埋もれても春になるとまた芽吹く草花の如くあたしは耐えるのだ。指先が痛くて痛くて力が入らないが春には少しは癒えると信じて。まだ冬も本番じゃないのに春の話など気が早いけど、もうあたしは春を祈るしか出来ないのだ。良くできた物語のようにハッピーエンドは来ないかも知れない。春を待たずに枯れるかも知れない。大体にして毎日限界は感じている。冷たい風は凶器だ。色々思い出させては傷をえぐる。目を閉じて右腕を掴んであたしは祈る。春が来ますように。ヘッドフォンを、つけて鬼束さん歌を大音量で聞く。癒しのようにも、死に誘うようにもどちらにも聞こえる。天国と地獄は紙一重。あたしにとって右腕は果たしてこれからも頑張るための教科書になるのか?それともやっぱり遺書か?どっちだろう?今日も酷く疲れた。人とな話すのがどんどん苦手になる。大丈夫、ほら右腕を読んで。しっかりして。もう誰もいないんだから。誰も思わなくていいんだから。なんとか立ち上がって。さあ