球形ダイスの目

90%の空想と10%の事実

京王線シリーズ

2005-10-30 | 技術
今日はヴァイオリンのトレーナの先生による合奏があった。
とても冗談の面白い感じの人である。
具体的には、音楽の表現をするときに大胆なたとえ話をいっぱいする。

でも僕は、たとえ話をしたときにうっかり広げてしまった
風呂敷をどうたたんでいるのかという処理法にいつも注目することにしている。
たまに強引なときがあってそれが非常に面白いのだ。

複数の指導者に同じ曲について指導を受けるとき、
完全に見解が一致することはない。本当に作る音楽の方向性に違いがあるときもあるし、
言い回しが異なるので、本来同じことを言っていても誤解する自由を与えられることがある。

それでも指導者は自分が正しいと思うことを語らなくてはならない。大変だな、と感じた。

練習中に、僕は出口のドアが見える位置に座っていた。
となりの部屋で練習していたおじさんらがいちいち部屋の前を通過するときにこちらを見てくる。
それはかまわないけど(僕もやるので)2,3分もドアの前に立っていられるとなんだか気分が良くなかった。

だが、そこでうっかりキレてしまうと、そういう人に限って
うちの団員の親族だったりする可能性があるので油断できない。ちょっと実話。



練習帰りは、雨に降られてしまったので傘を買おうと思ったが、
売店(というかレジ周辺)がおば様の海という異様な媒質に満たされていたが故、皆様を待ちに待たせてしまった。非常に申し訳なく思う。

だが本当に申し訳ないのはここで皆を待たせたことではなく、日中の演奏に関することだけど。
同じ間違いを繰り返してしまう。
今日は苛立ちが募る割に悔しさが湧いてこないタイプの日だった。
体は熱いけど、どうにも冷たい。



今日はその後に飲んだ。
だんだん話が深まっていくというか、単純に話す時間が増えていくことで
互いの予備知識が増えていくので生産的な話と世間話の融合を図ることができる。
って小難しい表現になっているけれど、普通に言えば「楽しかった」かもしれない。

子供は避難訓練ですら「たのしかったです」と書ける稀有なセンスを持ち続けているが、
僕はいつの間にか格式ばった気持ちで格式ばった日記を書いた。

16歳位になったハリー・ポッターの主人公ら諸君も、もう避難訓練を「たのしかったです」とは言わないだろう。
コメント
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