【小旅行】学会3日目の午後から、名古屋のI先生、栃木のK先生の3人で、I先生が運転するBMWに乗り、小旅行に出発した。最初の目的地は兵庫県の山陰側(但馬国)、養父(やぶ)市関宮というところである。山陰本線八鹿(ようか)駅から20キロほど西に入った山間の町だ。
ここは作家山田風太郎の故郷で、いま、彼の執筆机(和式と洋式)やオリジナル原稿、初版本著書などが各種写真とともに「記念館」に保存されていると聞いていた。彼の日記や随筆には、故郷の町のことが何度も出てくるので、今回の旅行ではここを訪れることをぜひとも、と希望した。
途中1回のレストエリアでの休憩を挟んで、車は午後3時半頃に、北と南を急峻な山に挟まれ、東向きに中くらいの川、八木川が流れている関宮の集落に着いた。川は円山川に合流し、城崎を抜けて日本海に注ぐ。
風太郎が通った旧関宮小学校の校庭東側に建てられた、一階建てコンクリートの建物が「山田風太郎記念館」で、入口を入って右側に受付があり、来館者名簿に記入を求められて、よく見たら、今日の来館者はわれわれ3人のみ、昨日はゼロ、一昨日が2名という調子だった。が、館は保存会の人たちのボランティア活動で維持されている。
ビデオ上映を見て、広いとはいえない館内を見物した。館長さんらしい、きれいな白髪ですらっとした体つきの方が案内をしてくれた。
執筆机が二つあり、一つは広い座卓で、初期に使用したもの、もう一つは洋机で意外に小さい。小学生の勉強机のような感じがする。前に2段の作り付け書棚があり、辞書・参考書の類が載っている。見たこともない事典がある。
NHK/BSで「作家の日記を読む」という番組があり、俳優が作家に扮して日記の朗読をやったそうだ。風太郎の場合、三国連太郎が「戦中派日記」の一節を朗読することになり、この洋机を梱包して東京のNHKへ貸し出したそうだ。未亡人が観て、「主人そっくりだ」と感想を述べたという。(NHKアーカイブスからダウンロードして観る予定。)
風太郎は愛煙家だったから、どちらの机にも特大の灰皿が置いてある。ライターは使わず、「徳用マッチ」の愛好家だったという。
「国民徴用令」、「勘右衛門老人の死」という作品を掲載した、「蛍雪時代」昭和18年6月号と7月号が陳列してあり、驚いた。
『戦中派虫けら日記』(ちくま文庫)、同年3月30日の項に執筆のいきさつが、6月26日の項に二本とも一等に当選した(旺文社はどちらも同一人の作とは知らなかった)ことと、その扱いをめぐる旺文社部長との面談のことが、書いてある。
部長は「二作とも一等でずば抜けていて、掲載させてもらうが、賞金は一作分しか出せない」とケチなことを言った。
日記はとかく取り繕って書くことがあるが、風太郎に関してはそういうことはない、と目前の雑誌2冊を見て私はそう思った。
彼はこの年3月の半ばに昭和医専と東京医専の受験に失敗し、郷里の叔父からの仕送りもなく、金に困ってこれらの作品を書いた。
その後、館長さんが付近を案内してくれた。関宮は山陰道の宿場で、今も1軒だけ「といや」という、ひなびた旅館が残っている。かつては養蚕と織物の町だったので、川沿いの平地には桑畑があり、公民館ほどの大きさの養蚕場(屋根に気温調節の吹き出しが付いている)が残っている。後には映画館としても使われたそうだ。付近の関神社(関宮の地名の由来か)には境内に大きな桑の木と芝居小屋が残っていた。
この町は、山陰本線がここから20キロ東を通り、円山川沿いに城崎をへて、日本海に抜けるようになったので、急速にさびれたのであろう。こういう町は、例えば広島県にも旧山陽道の宿場町白市がある。JRの駅から峠を越えたところに、時が凍り付いたような町並が残っている。
風太郎の生家や、外壁にトタンを貼り付けて工場に転用されたという、赤錆びた旧関宮小学校、これも1軒だけ残る造り酒屋などを見物した。旧山陰道の街道が、そのまま残っている。資料館に戻って、私がすすめるものでKさんが文庫本の「人間臨終図鑑」4冊本を買った。索引は4冊目に総索引が付いていた。このほうが使いやすいだろう。
この但馬は但馬牛の産地で、もともとここの牛が神戸に出されて神戸牛に、伊勢松阪に出されて松阪牛になったのだと、説明を受けた。霜降り肉(マーブル・ビーフ)は外国人が日本を訪れて、「ぜひ食いたい」もののひとつである。
私はすすめられて、谷口基『戦後変革派・山田風太郎』(青弓社)という2013/1に出た本を買った。(これは本格的評論で、とても新幹線の中で読めるような本でないことを後で知った。)
山田風太郎(本名:山田誠也)が恩師の飯島宗一先生と大正11(1922)年と生年が同じであることを、今回初めて知った。没年は、それぞれ平成13(2001)年と平成16(2004)年と少し違うが、ほぼ同時代を生きた人だったのだ。
館長さんに山田風太郎の地元での評価を聞いたら、代々の医家という名家の出身なのに、医者にならず、ぐれて「くのいち忍法帖」というようなエログロ・ナンセンスの小説を書いて…という「初期風太郎」のイメージが固着していて、かならずしも好意的でないという。
山田風太郎は推理小説、忍法もの、明治もの、日記、「同日同刻」、「人間臨終図鑑」や「あと千回の晩飯」のような随筆、と次々に新しいジャンルと手法を開拓して行ったので、どこに着目するかで評価は大きく分かれるだろう。
現時点では「郷土の偉人」としては容れられていないようだ。
売店に関川夏央『戦中派天才老人・山田風太郎』(マガジンハウス, 1995)を置いたらよかろうに、と思った。
関宮から八鹿、豊岡をへて約1時間ほど北に走り、城崎温泉には6時前に着いた。宿は志賀直哉が3週間逗留して、「城崎にて」を書いた三木屋という古い旅館だ。大正2(1913)の建築とかで、2階の10号室に行くには、古い急勾配の階段を登らねばならず、少し閉口した。
街の中を「大溪川(おおたにがわ)」という小さな川が西の山から流れ出して、はじめ湾曲し、ついで直線となり、JR「城崎駅」の近くで円山川に注いでいる。湾曲部の両岸は桜並木になり、直流部は石組みの河床が両側にあり、柳並木になっている。石橋がいくつも架かっていて、その最上流側から眺めるとまことに見事な、水郷を思わす風情がある。
さっそく町見物を兼ねて、近所の「御所の湯」というのに、浸かりに行った。浴室から脱衣室に水が上がるのを防ぐのに、なんと入口の両側に人工芝のマットが敷いてある。湯にふやけて足の皮が軟らかくなっているから、痛くてかなわない。
帳場にクレームを伝えたら、「ここはどこもそうなっています」と返事があった。
I先生が、「ここは町営です。市の職員だからお役人的な回答しかしない」と教えてくれた。「湯めぐり」に指定されている湯屋は町営なのだそうだ。宿の内湯はちゃんと布のマットが敷かれていた。
旅館に戻って3人で豪華な食膳を食べながら、飲みながら歓談した。但馬牛の握り寿司というのが2個出たが、私は肉の部分しか食べなかった。肉の生食というのは別に抵抗はないが、やはり膠原線維が多く、堅いし噛み切りにくい。
学会で感じた「若い人の日本語がおかしい」という話題を出したら、「あまりにも多くを言おうとするから、そうなる」という意見があった。朗読するという体験がないからだ、という説もあった。
志賀直哉論になり、持参していた文庫の短編集から「城崎にて」のページを開き、旅館の前から川沿いに遡って散歩し、ヤマメのいる淵に行く場面と、例の岩の上にいるイモリに石を投げたら偶然に石が当たって、イモリが死ぬ場面を朗読して、「名文だと思うか」と問うてみた。二人ともそうだとは言わなかった。
第一、ここでは蜂とヤモリとイモリが、「昆虫、爬虫類、両生類」の区別もなされず、一緒くたに「虫」と表現されている。『虫珍ずる姫』の世界である。そのくせ、自分が電車にはねられて怪我をした体験を、「致命的な」と言えばよいものを、わざわざ「フェータル」と英語のカタ仮名表記を用いている。そのへんの無知と気取りのアンバランスが、私には耐えきれない。
ついで映画の話になり、映画好きの私とIさんが、それぞれの「世界映画ベスト5」をあげた。これが、面白いことに全然違う。以下、彼があげた作品の監督名とタイトル。
1)マイケル・シャイン:「アンダルーシアの炎」
2)フェデリコ・フェリーニ:「ローマ」
3)ロベール・ブレッソン:「スリ」
4)ジュリアン・デュヴィヴィエ:「舞踏会の手帳」
5)ルイ・マル:「フランシスの青春」
それに次ぐのが、ベルナルド・ベルトリッチの「暗殺者のメロディー」。
アメリカ映画が1本も入っていないのが特徴だ。これに比べると私のご推薦はアメリカ製の娯楽作ばかり。観ている映画の本数も質も、Iさんにはとても及ばない。
1)ジョン・フォード:「駅馬車」
2)同: 「リバティ・ヴァランスを撃った男」
3)スタンリー・キューブリック:「2001年宇宙の旅」
4)マイケル・カーチス:「カサブランカ」
5)ジョン・ヒューストン:「アフリカの女王」
オーソン・ウェルズの「市民ケーン」は、言われるほどの名作ではないという点では意見が一致したが、日本映画で小津安二郎の「東京物語」は意見が分かれた。Iさんの評価は低く、私は「崩れゆく家族という絆」を予言している点で評価が高い。
9時頃になって、特急3本を乗り継いで大阪のN先生がやって来た。今回の学会に合わせて開かれる別の学会(同じ会期内に開催される)の会長だったため、プログラムの関係で車に同乗できなかった。で、人数が増えた分、話題も増え、酒量も増えて、さらに酒盛りを続けたので、主に焼酎を飲んだのだが、どれほど飲んだかも忘れてしまった。もうこの第二部はほとんど記憶がない。
翌朝は、二日酔いで頭がボーッとしていた。Kさんは朝一番の列車で帰った。朝食後、残った3人で散歩し、戻って内湯に入ったら少し頭がすっきりした。
それから宿を出て、車で川を渡り天然記念物「玄武洞」に行った。ここは溶岩が冷えて六角柱状になり、石材を採った跡か、下部が洞窟になっている。(後でWIKIを見ると、やはり洞窟は採掘跡とあった。)
http://ja.wikipedia.org/wiki/玄武洞
この柱状紋理は見事である。この冬に、霜柱の氷柱を観察して、基本は六角柱であることを「発見」したので、私には特に興味深かった。英語でbasaltといい、日本語の「玄武岩」はこの玄武洞に由来するそうだ。(「広辞苑」による。)これは一見の価値がある。(添付)
小さな霜柱ができる際にも、どろどろに溶けた溶岩が固まる際にも、同じように、六角柱を単位として熱対流が生じるというのが興味深い。シャンポリオンが解読したロゼッタストーンも玄武岩に刻まれた文字盤だそうだ。
その後、天橋立に行った。前回1994年に訪れたときは、地面から眺めただけだったが、今回はケーブルカーで標高400mの山に登りそこから見下ろした。あいにく雨にけむっていたが、ここからの眺望も素晴らしかった。もとは「天の梯掛(はしかけ)」であり、天に向けて立てかけたはしごという意味だったのが、なまって「橋立(はしだて)」になったと案内にあった。毎年、「股のぞき」をして転倒してけが人が出るとかで、握り棒付きの「股のぞき台」が設置されていた。
舞鶴の「引き上げ記念館」を訪問し、美浜原発の近くまで行き引き返した。美浜町がさびれて、廃屋が多いのに驚いた。美浜原発ができず、漁業権を放棄していなければ、もっと自然な衰退が起こっていただろう。どかっと金が入り、一斉に家を新築したから、こういう不自然なゴーストタウンができる。
それと但馬から丹後、越前にかけて、竹に実がなり、竹が枯れている。青い山の中に黄色く竹藪が枯れたのが目立つ。竹に実がなるとノネズミが繁殖するというが、どうなのであろうか? 昭和24(1949)年から36(1961)年まで、宇和島市はネズミの異常発生に悩まされた。開高健の小説『パニック』はネズミの異常発生をテーマにしたものだが、未読だ。読もうと思った。
岐路は、湖北の余呉湖に寄ってもらった。地図から想像したのとは異なり、四方を山に囲まれ、鏡のように静かな、こぢんまりとした湖だった。湖畔が「賤ヶ岳の合戦」場の一部となった。
「羽衣伝説」発祥の地というから、白砂青松があるのかと思ったら、湖の東岸に碑があり、付近に「衣かけの柳」と称する柳の大木があった。ここの伝説によると、天女と人間の男の間に産まれた子が菅原道真だという。無類の秀才ぶりと、死後に怨霊になったと考えられたので、天女の子と結びつけられたのであろう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/菅原道真#.E4.BD.99.E8.A9.B1
見たい土地を思い残すところなく堪能し、新幹線米原駅で17:30頃に解散になった。こだま、のぞみ、こだまと乗り換えて、帰宅したら11時前だった。6,000歩しか歩いていないが、一回だけ早足で坂道を登ったら、前胸痛が出た。軽い狭心症の徴候である。(阪神大震災の年に、空港行きのバスに乗り遅れまいと、階段を3階まで重いボストンバッグをもって駆け上がったら、冠状動脈のスパスムが起こって、入院したことがある。)普段、運動しないのがたたったな、と思い歩調を落とした。しかし「終わりよければすべてよし」。若い同学の士の友情に感謝する次第だ。来年は秋田か備後の旅を考えている。
ここは作家山田風太郎の故郷で、いま、彼の執筆机(和式と洋式)やオリジナル原稿、初版本著書などが各種写真とともに「記念館」に保存されていると聞いていた。彼の日記や随筆には、故郷の町のことが何度も出てくるので、今回の旅行ではここを訪れることをぜひとも、と希望した。
途中1回のレストエリアでの休憩を挟んで、車は午後3時半頃に、北と南を急峻な山に挟まれ、東向きに中くらいの川、八木川が流れている関宮の集落に着いた。川は円山川に合流し、城崎を抜けて日本海に注ぐ。
風太郎が通った旧関宮小学校の校庭東側に建てられた、一階建てコンクリートの建物が「山田風太郎記念館」で、入口を入って右側に受付があり、来館者名簿に記入を求められて、よく見たら、今日の来館者はわれわれ3人のみ、昨日はゼロ、一昨日が2名という調子だった。が、館は保存会の人たちのボランティア活動で維持されている。
ビデオ上映を見て、広いとはいえない館内を見物した。館長さんらしい、きれいな白髪ですらっとした体つきの方が案内をしてくれた。
執筆机が二つあり、一つは広い座卓で、初期に使用したもの、もう一つは洋机で意外に小さい。小学生の勉強机のような感じがする。前に2段の作り付け書棚があり、辞書・参考書の類が載っている。見たこともない事典がある。
NHK/BSで「作家の日記を読む」という番組があり、俳優が作家に扮して日記の朗読をやったそうだ。風太郎の場合、三国連太郎が「戦中派日記」の一節を朗読することになり、この洋机を梱包して東京のNHKへ貸し出したそうだ。未亡人が観て、「主人そっくりだ」と感想を述べたという。(NHKアーカイブスからダウンロードして観る予定。)
風太郎は愛煙家だったから、どちらの机にも特大の灰皿が置いてある。ライターは使わず、「徳用マッチ」の愛好家だったという。
「国民徴用令」、「勘右衛門老人の死」という作品を掲載した、「蛍雪時代」昭和18年6月号と7月号が陳列してあり、驚いた。
『戦中派虫けら日記』(ちくま文庫)、同年3月30日の項に執筆のいきさつが、6月26日の項に二本とも一等に当選した(旺文社はどちらも同一人の作とは知らなかった)ことと、その扱いをめぐる旺文社部長との面談のことが、書いてある。
部長は「二作とも一等でずば抜けていて、掲載させてもらうが、賞金は一作分しか出せない」とケチなことを言った。
日記はとかく取り繕って書くことがあるが、風太郎に関してはそういうことはない、と目前の雑誌2冊を見て私はそう思った。
彼はこの年3月の半ばに昭和医専と東京医専の受験に失敗し、郷里の叔父からの仕送りもなく、金に困ってこれらの作品を書いた。
その後、館長さんが付近を案内してくれた。関宮は山陰道の宿場で、今も1軒だけ「といや」という、ひなびた旅館が残っている。かつては養蚕と織物の町だったので、川沿いの平地には桑畑があり、公民館ほどの大きさの養蚕場(屋根に気温調節の吹き出しが付いている)が残っている。後には映画館としても使われたそうだ。付近の関神社(関宮の地名の由来か)には境内に大きな桑の木と芝居小屋が残っていた。
この町は、山陰本線がここから20キロ東を通り、円山川沿いに城崎をへて、日本海に抜けるようになったので、急速にさびれたのであろう。こういう町は、例えば広島県にも旧山陽道の宿場町白市がある。JRの駅から峠を越えたところに、時が凍り付いたような町並が残っている。
風太郎の生家や、外壁にトタンを貼り付けて工場に転用されたという、赤錆びた旧関宮小学校、これも1軒だけ残る造り酒屋などを見物した。旧山陰道の街道が、そのまま残っている。資料館に戻って、私がすすめるものでKさんが文庫本の「人間臨終図鑑」4冊本を買った。索引は4冊目に総索引が付いていた。このほうが使いやすいだろう。
この但馬は但馬牛の産地で、もともとここの牛が神戸に出されて神戸牛に、伊勢松阪に出されて松阪牛になったのだと、説明を受けた。霜降り肉(マーブル・ビーフ)は外国人が日本を訪れて、「ぜひ食いたい」もののひとつである。
私はすすめられて、谷口基『戦後変革派・山田風太郎』(青弓社)という2013/1に出た本を買った。(これは本格的評論で、とても新幹線の中で読めるような本でないことを後で知った。)
山田風太郎(本名:山田誠也)が恩師の飯島宗一先生と大正11(1922)年と生年が同じであることを、今回初めて知った。没年は、それぞれ平成13(2001)年と平成16(2004)年と少し違うが、ほぼ同時代を生きた人だったのだ。
館長さんに山田風太郎の地元での評価を聞いたら、代々の医家という名家の出身なのに、医者にならず、ぐれて「くのいち忍法帖」というようなエログロ・ナンセンスの小説を書いて…という「初期風太郎」のイメージが固着していて、かならずしも好意的でないという。
山田風太郎は推理小説、忍法もの、明治もの、日記、「同日同刻」、「人間臨終図鑑」や「あと千回の晩飯」のような随筆、と次々に新しいジャンルと手法を開拓して行ったので、どこに着目するかで評価は大きく分かれるだろう。
現時点では「郷土の偉人」としては容れられていないようだ。
売店に関川夏央『戦中派天才老人・山田風太郎』(マガジンハウス, 1995)を置いたらよかろうに、と思った。
関宮から八鹿、豊岡をへて約1時間ほど北に走り、城崎温泉には6時前に着いた。宿は志賀直哉が3週間逗留して、「城崎にて」を書いた三木屋という古い旅館だ。大正2(1913)の建築とかで、2階の10号室に行くには、古い急勾配の階段を登らねばならず、少し閉口した。
街の中を「大溪川(おおたにがわ)」という小さな川が西の山から流れ出して、はじめ湾曲し、ついで直線となり、JR「城崎駅」の近くで円山川に注いでいる。湾曲部の両岸は桜並木になり、直流部は石組みの河床が両側にあり、柳並木になっている。石橋がいくつも架かっていて、その最上流側から眺めるとまことに見事な、水郷を思わす風情がある。
さっそく町見物を兼ねて、近所の「御所の湯」というのに、浸かりに行った。浴室から脱衣室に水が上がるのを防ぐのに、なんと入口の両側に人工芝のマットが敷いてある。湯にふやけて足の皮が軟らかくなっているから、痛くてかなわない。
帳場にクレームを伝えたら、「ここはどこもそうなっています」と返事があった。
I先生が、「ここは町営です。市の職員だからお役人的な回答しかしない」と教えてくれた。「湯めぐり」に指定されている湯屋は町営なのだそうだ。宿の内湯はちゃんと布のマットが敷かれていた。
旅館に戻って3人で豪華な食膳を食べながら、飲みながら歓談した。但馬牛の握り寿司というのが2個出たが、私は肉の部分しか食べなかった。肉の生食というのは別に抵抗はないが、やはり膠原線維が多く、堅いし噛み切りにくい。
学会で感じた「若い人の日本語がおかしい」という話題を出したら、「あまりにも多くを言おうとするから、そうなる」という意見があった。朗読するという体験がないからだ、という説もあった。
志賀直哉論になり、持参していた文庫の短編集から「城崎にて」のページを開き、旅館の前から川沿いに遡って散歩し、ヤマメのいる淵に行く場面と、例の岩の上にいるイモリに石を投げたら偶然に石が当たって、イモリが死ぬ場面を朗読して、「名文だと思うか」と問うてみた。二人ともそうだとは言わなかった。
第一、ここでは蜂とヤモリとイモリが、「昆虫、爬虫類、両生類」の区別もなされず、一緒くたに「虫」と表現されている。『虫珍ずる姫』の世界である。そのくせ、自分が電車にはねられて怪我をした体験を、「致命的な」と言えばよいものを、わざわざ「フェータル」と英語のカタ仮名表記を用いている。そのへんの無知と気取りのアンバランスが、私には耐えきれない。
ついで映画の話になり、映画好きの私とIさんが、それぞれの「世界映画ベスト5」をあげた。これが、面白いことに全然違う。以下、彼があげた作品の監督名とタイトル。
1)マイケル・シャイン:「アンダルーシアの炎」
2)フェデリコ・フェリーニ:「ローマ」
3)ロベール・ブレッソン:「スリ」
4)ジュリアン・デュヴィヴィエ:「舞踏会の手帳」
5)ルイ・マル:「フランシスの青春」
それに次ぐのが、ベルナルド・ベルトリッチの「暗殺者のメロディー」。
アメリカ映画が1本も入っていないのが特徴だ。これに比べると私のご推薦はアメリカ製の娯楽作ばかり。観ている映画の本数も質も、Iさんにはとても及ばない。
1)ジョン・フォード:「駅馬車」
2)同: 「リバティ・ヴァランスを撃った男」
3)スタンリー・キューブリック:「2001年宇宙の旅」
4)マイケル・カーチス:「カサブランカ」
5)ジョン・ヒューストン:「アフリカの女王」
オーソン・ウェルズの「市民ケーン」は、言われるほどの名作ではないという点では意見が一致したが、日本映画で小津安二郎の「東京物語」は意見が分かれた。Iさんの評価は低く、私は「崩れゆく家族という絆」を予言している点で評価が高い。
9時頃になって、特急3本を乗り継いで大阪のN先生がやって来た。今回の学会に合わせて開かれる別の学会(同じ会期内に開催される)の会長だったため、プログラムの関係で車に同乗できなかった。で、人数が増えた分、話題も増え、酒量も増えて、さらに酒盛りを続けたので、主に焼酎を飲んだのだが、どれほど飲んだかも忘れてしまった。もうこの第二部はほとんど記憶がない。
翌朝は、二日酔いで頭がボーッとしていた。Kさんは朝一番の列車で帰った。朝食後、残った3人で散歩し、戻って内湯に入ったら少し頭がすっきりした。
それから宿を出て、車で川を渡り天然記念物「玄武洞」に行った。ここは溶岩が冷えて六角柱状になり、石材を採った跡か、下部が洞窟になっている。(後でWIKIを見ると、やはり洞窟は採掘跡とあった。)
http://ja.wikipedia.org/wiki/玄武洞
この柱状紋理は見事である。この冬に、霜柱の氷柱を観察して、基本は六角柱であることを「発見」したので、私には特に興味深かった。英語でbasaltといい、日本語の「玄武岩」はこの玄武洞に由来するそうだ。(「広辞苑」による。)これは一見の価値がある。(添付)
小さな霜柱ができる際にも、どろどろに溶けた溶岩が固まる際にも、同じように、六角柱を単位として熱対流が生じるというのが興味深い。シャンポリオンが解読したロゼッタストーンも玄武岩に刻まれた文字盤だそうだ。
その後、天橋立に行った。前回1994年に訪れたときは、地面から眺めただけだったが、今回はケーブルカーで標高400mの山に登りそこから見下ろした。あいにく雨にけむっていたが、ここからの眺望も素晴らしかった。もとは「天の梯掛(はしかけ)」であり、天に向けて立てかけたはしごという意味だったのが、なまって「橋立(はしだて)」になったと案内にあった。毎年、「股のぞき」をして転倒してけが人が出るとかで、握り棒付きの「股のぞき台」が設置されていた。
舞鶴の「引き上げ記念館」を訪問し、美浜原発の近くまで行き引き返した。美浜町がさびれて、廃屋が多いのに驚いた。美浜原発ができず、漁業権を放棄していなければ、もっと自然な衰退が起こっていただろう。どかっと金が入り、一斉に家を新築したから、こういう不自然なゴーストタウンができる。
それと但馬から丹後、越前にかけて、竹に実がなり、竹が枯れている。青い山の中に黄色く竹藪が枯れたのが目立つ。竹に実がなるとノネズミが繁殖するというが、どうなのであろうか? 昭和24(1949)年から36(1961)年まで、宇和島市はネズミの異常発生に悩まされた。開高健の小説『パニック』はネズミの異常発生をテーマにしたものだが、未読だ。読もうと思った。
岐路は、湖北の余呉湖に寄ってもらった。地図から想像したのとは異なり、四方を山に囲まれ、鏡のように静かな、こぢんまりとした湖だった。湖畔が「賤ヶ岳の合戦」場の一部となった。
「羽衣伝説」発祥の地というから、白砂青松があるのかと思ったら、湖の東岸に碑があり、付近に「衣かけの柳」と称する柳の大木があった。ここの伝説によると、天女と人間の男の間に産まれた子が菅原道真だという。無類の秀才ぶりと、死後に怨霊になったと考えられたので、天女の子と結びつけられたのであろう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/菅原道真#.E4.BD.99.E8.A9.B1
見たい土地を思い残すところなく堪能し、新幹線米原駅で17:30頃に解散になった。こだま、のぞみ、こだまと乗り換えて、帰宅したら11時前だった。6,000歩しか歩いていないが、一回だけ早足で坂道を登ったら、前胸痛が出た。軽い狭心症の徴候である。(阪神大震災の年に、空港行きのバスに乗り遅れまいと、階段を3階まで重いボストンバッグをもって駆け上がったら、冠状動脈のスパスムが起こって、入院したことがある。)普段、運動しないのがたたったな、と思い歩調を落とした。しかし「終わりよければすべてよし」。若い同学の士の友情に感謝する次第だ。来年は秋田か備後の旅を考えている。
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