【安重根記念碑】ハルピン駅で伊藤博文を暗殺した安重根の記念碑を、ハルピン駅に建設することを、韓国の朴槿恵大統領が画策しているという。
http://mainichi.jp/select/news/20131120k0000m010045000c.html
6月の訪中で中国政府に請願し、今回はそのためにわざわざ中国共産党の「聖地」である、延安まで訪れたそうだ。
あれが「暗殺」であったことを否定するものはあるまい。
「愛国」どころか、朝鮮併合に否定的であった伊藤が殺されたことで、日本国民は憤激し、一挙に「朝鮮併合」論が加速され、1910年8月の「日韓併合条約」に至ったのだ。
それにしても11/21「朝鮮日報」の社説は「誤った事実認識」が目立つ。
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2013/11/21/2013112100797.html?ent_rank_news
安重根により、ハルビン駅プラットホームで午前9:30に、3発撃たれた伊藤博文は即死ではない。
撫順からハルピンまで載ってきた特別列車の寝台に運ばれ、日本人の主治医と出迎えのロシア人医師の手当を受け、応急手当を受けている。
「ブランデーが飲みたい」というので、グラスを渡すとそれを飲み干した後、
「誰が撃ったのか」と質問している。側近が「朝鮮人のようです」と答えると、
「馬鹿な奴だ。何を誤解したのか…」と吐き捨てるように言った。
それが最後の言葉で、死亡時刻は午前10:00である。肺を弾が2発貫通したのが致命傷となった。
安重根は本当にバカな奴だった。主観的には「愛国」のつもりでも、融和派の伊藤を殺すことで、朝鮮併合への「最大の障害物」がなくなったのだから。
今も、本当の犯人は安重根ではないという説が唱えられる由縁である。
Cf.1)伊藤之雄:「伊東博文:近代日本を創った男」, 講談社, 2009
2)清水克之:「明石元二郎の生涯」, 桜の花出版, 2009
朴大統領もいい加減にしないと、日本の週刊誌に「愚かな国だ」と安倍首相言った(「週刊文春」)と書かれ、今度は父親の朴正煕は「従軍慰安婦の管理人だった」と書かれた(「週刊新潮」)。
http://www.shinchosha.co.jp/magazines/nakaduri/index_shukan.html
「産経」に至っては独裁者の夫人つまり、朴大統領の狙撃に失敗し、朴槿恵の母親を射殺した、大阪の在日朝鮮人文世光の像をソウル駅頭に立てられたら、どう思うかと11/20「産経抄」で書いている。http://sankei.jp.msn.com/life/news/131120/art13112003100001-n2.htm
朴正煕は師範学校を出た後、朝鮮で教師をしていた。満州国の陸軍士官学校に進学しようと思ったが、年齢制限に引っかかり、「日本人として恥じないように頑張るから、ぜひ受験させてほしい」と「血書」を書いている。血書とは指を切り、流れる血で書いた書状だ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/ファイル:Park_Chung-hee,_Manchu_Shinmun.jpg
後、日本の陸軍士官学校に入り直し、1944/3月に卒業し、満州国軍に配置され、中尉として45年8月を迎えている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/朴正煕#.E6.BA.80.E6.B4.B2.E5.9B.BD.E8.BB.8D
士官学校を出たら階級は少尉である。(軍医ははじめから中尉。)
朴正煕は敗戦に軍医中尉だったから、名前を高木文雄と変えたが、あまり効果がなかったのかもしれない。
だから「慰安所」の担当将校であった、としても不思議はない。
あの頃、玉砕覚悟の前線に出るよりは、後方の「慰安所」で働く方がましだ、と考える将校はいた。
評論家の鶴見俊輔は「進歩的文化人」が華やかな頃は黙っていたが、シンガポールの慰安所の将校だったことを、後に自分で書いたか、山本夏彦が書いていた。父親が政治家の鶴見祐輔だったから、コネで危ないところに行かされないですんだのである。
朴正煕だって、同じことを考えたろう。
確か韓国は「反日法」を制定し、先祖が日帝に協力したものは、資産没収とか公職追放などに処す(本人と関係がなくても)ということにしたはずだが、「日本人として恥じざる精神と魂魄をもって一死奉公し」などという血書を書いて陸軍士官学校に志願した人物を父親として持つ人物が、どうして大統領になれのだろうか。
つまり「法の下の平等」が存在しない国であるから、こういうことが起きるのであろう。
「安重根」については、前にも書いた。彼の父、安泰勳は裕福な両班(やんばん=貴族階級)に属し、李王朝末期の農民の困窮とその結果として多発した一揆(東学農民戦争)には同情せず、安重根は父親と共に農民軍と戦っている。
しかし、1907年、ソウルで安昌浩の話を聞いて、独立運動に身を投じる決意をした。安昌浩」は1884(明治17)年、結成の開化党(独立党)の流れをくむ「朝鮮独立運動」の指導者で、1896年「新民会」結成に加わり、「青年学友会」を組織している。日本による朝鮮併合後は、東満州に移動し吉林省で「韓族軍政治部」に属し、反日活動に従事した。その後は李承晩が上海に樹立した「大韓民国臨時政府」に合流した。重根の弟安恭根はテロリスト金九の右腕として、上海で活躍している。
この金九の上海「愛国団」の指令で日本に渡り、1932(S')1月、昭和天皇の馬車に爆弾を投げる「桜田門事件」を起こしたのが、李奉昌で韓国では「義士」とされている。上海がテロの拠点と判明したことが、「第一次上海事件」の背景になった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/桜田門事件
同じく「第一次上海事件」の後に、1932年(S7)4月29日、上海虹口公園で開かれた「戦勝記念・天長節祝賀」行事において、爆弾を投じ、白川支那派遣軍司令官と河端貞次居留民団長(医師)の殺害、日本公使、領事などに重傷を負わせるという、「天長節爆弾事件」を実行したのが、尹奉吉である。同様に韓国では「義士」となっている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/上海天長節爆弾事件
安重根、李奉昌、尹奉吉の3人のテロリストは、韓国では「独立三義士」として英雄となっている。経歴からわかるように、実態は生活を持ち崩したならず者だ。
ここが帝政ロシア末期に多発した、大学生たちによる「ブナロード(民衆の中へ)」運動と「ナロードニキ(民衆派)」と名乗った、テロリストたちのとの大きな違いだ。彼らは、帝政ロシアを打倒するために皇帝の高級官僚と警察機構の中枢をテロの対象として狙った。
やがて、そのようなテロリスト亡命者たちが、スイス・ジュネーブに集まり、そこがロシア革命党の拠点となっていった。
李氏朝鮮王朝は腐敗しきっていたにもかかわらず、朝鮮ではロシアのような運動がまったく起こらなかった。それどころか、日本の「蛮社の獄」に相当する1801年の「実学弾圧事件」で、西洋の学問を研究する学者がいなくなってしまった。大老井伊直弼を暗殺した「桜田門外の変」のような事件は、朝鮮では起こらなかった。
吉田松陰のように、禁を犯して海外留学しようと志す憂国の士もいなかった。難破してアメリカ船に救助され、勉強を重ね、西洋の知識を故国にもたらした、ジョン万次郎のような人物もいなかった。
国王の実権は妃の一族に完全に取り上げられてしまった。いわゆる「閔妃暗殺」事件は首謀者は三浦梧楼公使だが、実行者は日本人壮士と朝鮮人王宮守備隊である。
日本の武士のような社会階級が存在せず、「武士道」のような倫理もなく、「尊皇攘夷」のような運動も起こりようがなかった。
「攘夷」から一転「開国」に転じて、全力をあげて植民地への転落を防ぐために、「富国強兵」路線に転換した日本に国を奪われて、海外に「亡命政府」を作ってももう遅い。
ここらへんは、韓国人自らが正しい「歴史認識」をもち、深く反省しなければいけないところだろう。
朴正煕の「血書」の話を書いたが、1909(M42)年10月13日、ハルピン駅頭で伊藤博文枢密院議長(前朝鮮総督府長官)を暗殺した安重根には3人の仲間がいて、同時に現行犯逮捕されている。今回、調べていて、安重根の左手薬指が切断されているのに気づいた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/安重根
これは彼が獄中で書いた書に押した手形でも確認できる。
また、検事調書で「たとえ我々を捕らえても、左手の薬指を切り、共に盟約した11名の同志がいる」と述べている。
安重とその同志の「指詰め」については、これまでどの本でも読んだことがない。普通これは「ヤクザ社会の」掟とされている。驚いてWIKIで「指詰め」を見ると、
http://ja.wikipedia.org/wiki/指詰め
「日本や韓国の右翼や民族主義者が抗議のために行う」とあった。しかし、日本での実例は知らない。
こういう風習は一体いつ始まったのだろう?
念のために「指切り」も見たら、「吾妻鏡」に鮫島という男が「指切りの刑」に処せられたとある。http://ja.wikipedia.org/wiki/ゆびきり
実は、これを見つけたのが大きな不幸だった。
「吾妻鏡」は「鏡」という字がつく他の書物がそうであるように、歴史書で「東国の源氏の盛衰」を扱っている。在職中に生協に岩波文庫で、五冊本があるのを知ったが、どうしても一冊だけ欠けているので買うのを控えた。古本でこれを買う場合、これが「利き目」になっていて、結局他の4冊よりも高く買わされるということがあるからだ。
2008年になって、やっとAMAZONで揃いが入手できるようになり、買ったが1939~44年にかけて出版された文庫の「復刻版」で、文章がやたら難しいので、書棚に入れたままになっていた。
「龍粛」という中国人みたいな名前の人による「訳注」で、目次も不十分(何しろ元号だけで、小見出しがない)、索引がない、という欠陥本。探しようがない。
第一分冊から、まず目次の年号に西暦を並記し、人名にマークしながら繰って行ったが、旧字体の漢文に、テニオハが付いただけの文体だから、読みにくい。全部で900頁もあるので、とても無理だ。ついに半分も行かないでギブアップした。
人名索引があれば、1分もかからないで、目的のページにたどり着けるのに…。これを「復刻」として出した文庫編集部つくづくうらめしい。テキストが電子化されていれば「鮫島+指」で、一発で探せる。
そう思って、「青空文庫」を探したがここにはなかった。「吾妻鏡」でGOOGLE検索したら、国会図書館にデジタル版があり、該当事項の記載年月がわかった。
しかしこれも使いにくい。使う人の立場に立ってソフトが作られていない。
「Project Gutenberg」のテキストはその点、とても使いやすくできている。
知的生産性は英語環境の方が、はるかに優れていると思う。
「吾妻鏡」は紀年体の書だから、「元歴元年(1184) 6月」と分かれば、本のページを探せる。第一分冊のp.144に該当の記載があった。
「6月16日、鮫島四郎を(頼朝)の御前に召して、右手の指を切らしめたまう。これは昨夕の騒動の際に、味方打ちをした罪科があるためである。」(拙訳)
これは前日の夜、謀反心のある家臣を宴会にことよせて呼び、頼朝が騙し討ちした際に、双方の家臣が混戦となった。その際に鮫島に不手際があったことを述べている。
頼朝は大変な独裁者で、武断政治家だ。
死刑は復活するは、肉刑を各種考案するは、と元歴年間の記述は殺人と処刑に充ちている。
日本と中国の刑罰史の本も調べたが、「指切りの刑」というのは載っていない。命に別状がないからだろうか?
朝鮮の両班なら儒学が基本だから、「身体髪膚これを父母に受く、あえて傷つけざるは孝の始めなり」という言葉は知っていただろう。テロ首謀者の安重根が、自分とその仲間に、なんでこんなヤクザまがいの行為を強いたのかわからない。
日本の武家社会では「刑罰」として始まったものが、いつの間にか、朝鮮では「盟約」の証しになった。これも不思議で、「指詰めの歴史」を研究したら面白いだろう。ひょっとしたら「ヤクザの指詰め」は朝鮮のアングラ社会の習慣が日本に輸入されたものではなかろうか…。
ヤクザと右翼は日本ではつながっている。「在日」の学者が書いた朝鮮史の本には、安重根は「愛国者」と必ず書いてあるが、「指詰め」をしていたとは一言も書いてないのには、どうも隠された理由があるようだ。
http://mainichi.jp/select/news/20131120k0000m010045000c.html
6月の訪中で中国政府に請願し、今回はそのためにわざわざ中国共産党の「聖地」である、延安まで訪れたそうだ。
あれが「暗殺」であったことを否定するものはあるまい。
「愛国」どころか、朝鮮併合に否定的であった伊藤が殺されたことで、日本国民は憤激し、一挙に「朝鮮併合」論が加速され、1910年8月の「日韓併合条約」に至ったのだ。
それにしても11/21「朝鮮日報」の社説は「誤った事実認識」が目立つ。
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2013/11/21/2013112100797.html?ent_rank_news
安重根により、ハルビン駅プラットホームで午前9:30に、3発撃たれた伊藤博文は即死ではない。
撫順からハルピンまで載ってきた特別列車の寝台に運ばれ、日本人の主治医と出迎えのロシア人医師の手当を受け、応急手当を受けている。
「ブランデーが飲みたい」というので、グラスを渡すとそれを飲み干した後、
「誰が撃ったのか」と質問している。側近が「朝鮮人のようです」と答えると、
「馬鹿な奴だ。何を誤解したのか…」と吐き捨てるように言った。
それが最後の言葉で、死亡時刻は午前10:00である。肺を弾が2発貫通したのが致命傷となった。
安重根は本当にバカな奴だった。主観的には「愛国」のつもりでも、融和派の伊藤を殺すことで、朝鮮併合への「最大の障害物」がなくなったのだから。
今も、本当の犯人は安重根ではないという説が唱えられる由縁である。
Cf.1)伊藤之雄:「伊東博文:近代日本を創った男」, 講談社, 2009
2)清水克之:「明石元二郎の生涯」, 桜の花出版, 2009
朴大統領もいい加減にしないと、日本の週刊誌に「愚かな国だ」と安倍首相言った(「週刊文春」)と書かれ、今度は父親の朴正煕は「従軍慰安婦の管理人だった」と書かれた(「週刊新潮」)。
http://www.shinchosha.co.jp/magazines/nakaduri/index_shukan.html
「産経」に至っては独裁者の夫人つまり、朴大統領の狙撃に失敗し、朴槿恵の母親を射殺した、大阪の在日朝鮮人文世光の像をソウル駅頭に立てられたら、どう思うかと11/20「産経抄」で書いている。http://sankei.jp.msn.com/life/news/131120/art13112003100001-n2.htm
朴正煕は師範学校を出た後、朝鮮で教師をしていた。満州国の陸軍士官学校に進学しようと思ったが、年齢制限に引っかかり、「日本人として恥じないように頑張るから、ぜひ受験させてほしい」と「血書」を書いている。血書とは指を切り、流れる血で書いた書状だ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/ファイル:Park_Chung-hee,_Manchu_Shinmun.jpg
後、日本の陸軍士官学校に入り直し、1944/3月に卒業し、満州国軍に配置され、中尉として45年8月を迎えている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/朴正煕#.E6.BA.80.E6.B4.B2.E5.9B.BD.E8.BB.8D
士官学校を出たら階級は少尉である。(軍医ははじめから中尉。)
朴正煕は敗戦に軍医中尉だったから、名前を高木文雄と変えたが、あまり効果がなかったのかもしれない。
だから「慰安所」の担当将校であった、としても不思議はない。
あの頃、玉砕覚悟の前線に出るよりは、後方の「慰安所」で働く方がましだ、と考える将校はいた。
評論家の鶴見俊輔は「進歩的文化人」が華やかな頃は黙っていたが、シンガポールの慰安所の将校だったことを、後に自分で書いたか、山本夏彦が書いていた。父親が政治家の鶴見祐輔だったから、コネで危ないところに行かされないですんだのである。
朴正煕だって、同じことを考えたろう。
確か韓国は「反日法」を制定し、先祖が日帝に協力したものは、資産没収とか公職追放などに処す(本人と関係がなくても)ということにしたはずだが、「日本人として恥じざる精神と魂魄をもって一死奉公し」などという血書を書いて陸軍士官学校に志願した人物を父親として持つ人物が、どうして大統領になれのだろうか。
つまり「法の下の平等」が存在しない国であるから、こういうことが起きるのであろう。
「安重根」については、前にも書いた。彼の父、安泰勳は裕福な両班(やんばん=貴族階級)に属し、李王朝末期の農民の困窮とその結果として多発した一揆(東学農民戦争)には同情せず、安重根は父親と共に農民軍と戦っている。
しかし、1907年、ソウルで安昌浩の話を聞いて、独立運動に身を投じる決意をした。安昌浩」は1884(明治17)年、結成の開化党(独立党)の流れをくむ「朝鮮独立運動」の指導者で、1896年「新民会」結成に加わり、「青年学友会」を組織している。日本による朝鮮併合後は、東満州に移動し吉林省で「韓族軍政治部」に属し、反日活動に従事した。その後は李承晩が上海に樹立した「大韓民国臨時政府」に合流した。重根の弟安恭根はテロリスト金九の右腕として、上海で活躍している。
この金九の上海「愛国団」の指令で日本に渡り、1932(S')1月、昭和天皇の馬車に爆弾を投げる「桜田門事件」を起こしたのが、李奉昌で韓国では「義士」とされている。上海がテロの拠点と判明したことが、「第一次上海事件」の背景になった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/桜田門事件
同じく「第一次上海事件」の後に、1932年(S7)4月29日、上海虹口公園で開かれた「戦勝記念・天長節祝賀」行事において、爆弾を投じ、白川支那派遣軍司令官と河端貞次居留民団長(医師)の殺害、日本公使、領事などに重傷を負わせるという、「天長節爆弾事件」を実行したのが、尹奉吉である。同様に韓国では「義士」となっている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/上海天長節爆弾事件
安重根、李奉昌、尹奉吉の3人のテロリストは、韓国では「独立三義士」として英雄となっている。経歴からわかるように、実態は生活を持ち崩したならず者だ。
ここが帝政ロシア末期に多発した、大学生たちによる「ブナロード(民衆の中へ)」運動と「ナロードニキ(民衆派)」と名乗った、テロリストたちのとの大きな違いだ。彼らは、帝政ロシアを打倒するために皇帝の高級官僚と警察機構の中枢をテロの対象として狙った。
やがて、そのようなテロリスト亡命者たちが、スイス・ジュネーブに集まり、そこがロシア革命党の拠点となっていった。
李氏朝鮮王朝は腐敗しきっていたにもかかわらず、朝鮮ではロシアのような運動がまったく起こらなかった。それどころか、日本の「蛮社の獄」に相当する1801年の「実学弾圧事件」で、西洋の学問を研究する学者がいなくなってしまった。大老井伊直弼を暗殺した「桜田門外の変」のような事件は、朝鮮では起こらなかった。
吉田松陰のように、禁を犯して海外留学しようと志す憂国の士もいなかった。難破してアメリカ船に救助され、勉強を重ね、西洋の知識を故国にもたらした、ジョン万次郎のような人物もいなかった。
国王の実権は妃の一族に完全に取り上げられてしまった。いわゆる「閔妃暗殺」事件は首謀者は三浦梧楼公使だが、実行者は日本人壮士と朝鮮人王宮守備隊である。
日本の武士のような社会階級が存在せず、「武士道」のような倫理もなく、「尊皇攘夷」のような運動も起こりようがなかった。
「攘夷」から一転「開国」に転じて、全力をあげて植民地への転落を防ぐために、「富国強兵」路線に転換した日本に国を奪われて、海外に「亡命政府」を作ってももう遅い。
ここらへんは、韓国人自らが正しい「歴史認識」をもち、深く反省しなければいけないところだろう。
朴正煕の「血書」の話を書いたが、1909(M42)年10月13日、ハルピン駅頭で伊藤博文枢密院議長(前朝鮮総督府長官)を暗殺した安重根には3人の仲間がいて、同時に現行犯逮捕されている。今回、調べていて、安重根の左手薬指が切断されているのに気づいた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/安重根
これは彼が獄中で書いた書に押した手形でも確認できる。
また、検事調書で「たとえ我々を捕らえても、左手の薬指を切り、共に盟約した11名の同志がいる」と述べている。
安重とその同志の「指詰め」については、これまでどの本でも読んだことがない。普通これは「ヤクザ社会の」掟とされている。驚いてWIKIで「指詰め」を見ると、
http://ja.wikipedia.org/wiki/指詰め
「日本や韓国の右翼や民族主義者が抗議のために行う」とあった。しかし、日本での実例は知らない。
こういう風習は一体いつ始まったのだろう?
念のために「指切り」も見たら、「吾妻鏡」に鮫島という男が「指切りの刑」に処せられたとある。http://ja.wikipedia.org/wiki/ゆびきり
実は、これを見つけたのが大きな不幸だった。
「吾妻鏡」は「鏡」という字がつく他の書物がそうであるように、歴史書で「東国の源氏の盛衰」を扱っている。在職中に生協に岩波文庫で、五冊本があるのを知ったが、どうしても一冊だけ欠けているので買うのを控えた。古本でこれを買う場合、これが「利き目」になっていて、結局他の4冊よりも高く買わされるということがあるからだ。
2008年になって、やっとAMAZONで揃いが入手できるようになり、買ったが1939~44年にかけて出版された文庫の「復刻版」で、文章がやたら難しいので、書棚に入れたままになっていた。
「龍粛」という中国人みたいな名前の人による「訳注」で、目次も不十分(何しろ元号だけで、小見出しがない)、索引がない、という欠陥本。探しようがない。
第一分冊から、まず目次の年号に西暦を並記し、人名にマークしながら繰って行ったが、旧字体の漢文に、テニオハが付いただけの文体だから、読みにくい。全部で900頁もあるので、とても無理だ。ついに半分も行かないでギブアップした。
人名索引があれば、1分もかからないで、目的のページにたどり着けるのに…。これを「復刻」として出した文庫編集部つくづくうらめしい。テキストが電子化されていれば「鮫島+指」で、一発で探せる。
そう思って、「青空文庫」を探したがここにはなかった。「吾妻鏡」でGOOGLE検索したら、国会図書館にデジタル版があり、該当事項の記載年月がわかった。
しかしこれも使いにくい。使う人の立場に立ってソフトが作られていない。
「Project Gutenberg」のテキストはその点、とても使いやすくできている。
知的生産性は英語環境の方が、はるかに優れていると思う。
「吾妻鏡」は紀年体の書だから、「元歴元年(1184) 6月」と分かれば、本のページを探せる。第一分冊のp.144に該当の記載があった。
「6月16日、鮫島四郎を(頼朝)の御前に召して、右手の指を切らしめたまう。これは昨夕の騒動の際に、味方打ちをした罪科があるためである。」(拙訳)
これは前日の夜、謀反心のある家臣を宴会にことよせて呼び、頼朝が騙し討ちした際に、双方の家臣が混戦となった。その際に鮫島に不手際があったことを述べている。
頼朝は大変な独裁者で、武断政治家だ。
死刑は復活するは、肉刑を各種考案するは、と元歴年間の記述は殺人と処刑に充ちている。
日本と中国の刑罰史の本も調べたが、「指切りの刑」というのは載っていない。命に別状がないからだろうか?
朝鮮の両班なら儒学が基本だから、「身体髪膚これを父母に受く、あえて傷つけざるは孝の始めなり」という言葉は知っていただろう。テロ首謀者の安重根が、自分とその仲間に、なんでこんなヤクザまがいの行為を強いたのかわからない。
日本の武家社会では「刑罰」として始まったものが、いつの間にか、朝鮮では「盟約」の証しになった。これも不思議で、「指詰めの歴史」を研究したら面白いだろう。ひょっとしたら「ヤクザの指詰め」は朝鮮のアングラ社会の習慣が日本に輸入されたものではなかろうか…。
ヤクザと右翼は日本ではつながっている。「在日」の学者が書いた朝鮮史の本には、安重根は「愛国者」と必ず書いてあるが、「指詰め」をしていたとは一言も書いてないのには、どうも隠された理由があるようだ。
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