ある宇和島市議会議員のトレーニング

阪神大震災支援で動きの悪い体に気づいてトレーニングを始め、いつのまにかトライアスリートになってしまった私。

【訂正など:中江兆民】難波先生より

2017-06-26 16:07:36 | 難波紘二先生
【訂正など:中江兆民】6/12号で、兆民の告別式で「改葬御礼の挨拶」をした人物を大石誠之助と書いたが、あれは私の勘違いで「大石正巳」が正しかった。この時のスピーチは幸徳秋水「兆民先生・兆民先生行状記」(岩波文庫)に入れられており、てっきり幸徳秋水と交流があった和歌山・新宮の医師「大石誠之助」だと思い込んでいた。スピーチ冒頭に「大石正巳演説」とちゃんと書いてあるのだが見落とした。兆民の知友に意外に医師が多いのを知り、確認のため「日本人名辞典」も開いたのだが、兆民と同郷で土佐出身の大石正巳を見落とした。お詫びして訂正いたします。

 大石正巳(1855-1935)は、自由民権運動からスタートした、自由党の創立に参画した人物で、兆民と異なり一貫して明治の政治に加わった人物だ。
 中江兆民「一年有半・続一年有半」(岩波文庫)の年譜を見ると、1890(M23)年、自由党から衆議院議員に選出された兆民は、第1回帝国議会での予算案審議において、「民力休養のため」政府支出の削減を主張したが容れられなかった。そこで、主筆をつとめる「立憲自由新聞」に議会は「無血虫の陳列場である」という趣旨の評論を載せ、議員を辞職している。
 その後、小樽の「北門新報」の主筆となり、北海道に渡っている。
 
 「何で兆民が北海道へ?」と思ったが、これは岩崎徂堂「中江兆民奇行談」(「世界ノンフィクション全集2」筑摩書房、1960/5)中の「兆民と金玉均」という一文を読んで、当時小樽にいた金玉均(日本名:岩田周作)による強い勧誘があったことを知った。

 金玉均(1851-1894)は朝鮮の革命家で、日本の明治維新をモデルとした開国・改革を追求する「開化党」のリーダーだった。若くして政府の要職にあり、1881(M14)年、1882(M15)年、1883(M16)年と3度来日して日本の「文明開化」の実状を視察している。「日本が東洋の英国になるなら、朝鮮は東洋のフランスになる」という、戦略的理想を持っていた。当時の朝鮮には珍しい政治家だ。
 1884/12に、朝鮮で「甲申政変」と呼ばれるクーデターを起こし、新政府の樹立を図ったが、日本の全面的支援が得られず、ソウル駐在の清国軍が武力弾圧に乗り出したため、三日天下に終わった。クーデターに加わった人たちの多くはアメリカに亡命したが、金玉均は日本に亡命した。朝鮮政府が金玉均らの引き渡しを求めたため、日本政府は困惑し、小笠原島ついで北海道に彼を匿った。朝鮮政府による暗殺を危惧したのである。

 福沢諭吉や自由民権派の人たちは金玉均を支援したようだ。兆民と金は1883年の来日の時に会っている。1891(M24)年、「岩田周作」名で小樽にいた金玉均が、議員辞職したばかりで東京にいた兆民を訪ねてきて、「新天地」北海道の良さを説き、同地への移住を懇請した。
 これに応えて兆民は小樽におもむき、1891/4、同地の新聞「北門新報」の主筆に就任した。しかし兆民は間もなくこれを辞し札幌で紙問屋を開業し、実業家に転じた。これも長続きせず、同年11月には東京に戻っている。

 一方、金玉均は1894/2に朝鮮に「東学党の乱」が発生すると、朝鮮を牛耳る「閔氏一族」が清に出兵を求めると大変なことになると憂慮し、清の朝鮮担当大臣である李鴻章と談判するため上海に渡った。彼はそこで閔妃一派の放った刺客により暗殺された。(1894/3)
遺体はソウルに送られ、朝鮮政府は金の遺体を「凌遅刑」に処した。この刑は元来生きた罪人に対するもので、両手両足を切断し、最後に首をはねるものだ。金の首とバラバラの手足は全国各地で晒しものにされた。
 この後、すぐに清が朝鮮に軍隊を送ったため、清との条約に基づいて日本も軍を送り、両軍が衝突して「日清戦争」(1894/7〜)が始まっている。

 まさか言論文筆オンリーである中江兆民と朝鮮の有名な革命家金玉均との間に、接点があったとは知らなかった。まさに世の中は「複雑系」で、誰がどこで誰と繋がっているか分からない、という感をさらに強くした。


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