ある宇和島市議会議員のトレーニング

阪神大震災支援で動きの悪い体に気づいてトレーニングを始め、いつのまにかトライアスリートになってしまった私。

【慰安婦】難波先生より

2012-09-27 12:52:54 | 難波紘二先生
【慰安婦】吉見義明「従軍慰安婦」(岩波新書, 1995)が届いた。古本なので前の持ち主がうっすらと鉛筆で印をした箇所がある。それを見ると「悖る(もとる)」という字が読めず、意味がわからなかったことがわかる。
 その程度の国語力では、吉見のレトリックに簡単に騙されてしまうだろう。


 私は小説は別にして、社会科学や医学・自然科学の本では、まず索引と引用文献をチェックする。前者があれば、内部矛盾の有無が、後者があれば代表的文献が引用されているかどうかがチェックできる。どちらもない本は、他者による検証を拒否しているわけで、書物としての値打ちがない。


 吉見本にはいくつか問題がある。
 1)引用文献に、<広崎リュウ:従軍慰安婦には返還されない軍事郵便貯金. 週刊金曜日26号, 1994.5.25>というのが載っている。ところがこの文献は本文のどこにも引用されていない。2度、始めから終わりまで頁を繰ったが引用箇所も、軍事郵便貯金への言及もない。慰安婦が体を売って貯めた貯金を、本人に払い戻さないというのは、事実とすれば大問題だが、<参照文献一覧>には載っているが、本文でにはその不当性を非難する記述がない。


 ところで吉見の「日本軍<慰安婦>制度とは何か」(岩波ブックレット, 2010)には、文原玉珠名義の「軍事郵便貯金」原簿の「平成4(1992)年5月15日」付「熊本貯金事務センター長」による「原簿予払金調書」の写しが掲載されている。預け入れは昭和18年3月6日から昭和20年9月29日までで、この時の最終預金残高は27,242円である。この額は陸軍大将の年俸6,600円のおよそ4年分であることは、前にも指摘した。この写しは下記の文玉珠「自伝」(1996)からの転載である。
 上記、広崎リュウの論文が、この軍事預金口座を問題にしている可能性は高いが、私自身はまだ照合していない。


 ネットで調べるとこの「廣崎リュウ」という人は下関の男性カトリック信者で、慰安婦問題の活動家のようだ。
 <まさか名乗り出るとは思わなかった元軍隊慰安婦の文玉殊さん。軍事郵便貯金払い戻しの運動も、裁判を始める 際ここで記者会見を行いました。>
 http://hiroshima.catholic.jp/kyokuho/1101.pdf


 と述べているので私の推測は間違っていなかったようだ。


 日本名文原玉珠こと文玉珠は、その一代記(文玉珠、森川万智子構成「楯師団の<慰安婦だった私>」, 梨の木書房, 1996)があり、要約が秦郁彦「慰安婦と戦場の性」(新潮新書, 1999)に掲載されている。それによれば文玉珠はキーセン見習いをしていた1940年に、「夜の路上で、日本人と朝鮮人憲兵、朝鮮人警官に呼び止められ詰め所に連行され、翌朝憲兵と朝鮮人警官が同行して、列車で満州東安の朝鮮人経営で軍を相手とする慰安所に連れて行かれた。」1年後脱走して故郷大邱に戻りキーセンとして働いていたが、東安時代の仲間に「よいもうけ口がある」と誘われ、慰安婦となりビルマ・ラングーンの陸軍慰安所に配属された。
 ビルマから実家に5,000円を送金したが、戦後、戻ってみると兄がその大金を使い果たしていた。
 戦後、軍需成金と結婚しぜいたくな生活をしたが、破産してキーセンに逆戻りした。養子の息子が博打で全財産を使い果たし、今は「慰安婦のための生活安定支援法」により政府借り上げの無料アパートに住み、衣食住には困っていない。1996年10月26日、病死。


 吉見の「従軍慰安婦」(1995)はこの文玉珠の証言を「暴力的連行のケース」として取り上げている。しかし検証しようにも、引用元の明示がない。
 「…自分の家に帰りかけました。…軍服を着た日本人が私に近寄って来ました。…連れて行かれた先は、憲兵隊ではないかと思われます。
 これが「強制連行」の証拠と吉見がしているものだ。この証言では、「近寄って来た軍服を着た男」は明らかに単数である。しかし著書では3人になっている。しかも朝鮮人2人と、日本人1人に変わっている。
 こうした「証言のゆらぎ」は捏造の有力な傍証である。


 吉見もさすがに学者として良心がとがめたのか、「拉致した日本人は、軍人か、巡査か、カーキ色の国民服を着た民間人か、断定できない。…民間人による誘拐の可能性が高いのではないだろうか。」と書いている。断定できないのなら、「暴力的連行のケース」として書くべきではない。
 
 2)「陸軍省の関与を証明する文書」として防衛省防衛研究所図書館蔵の「陸支密大日記」に綴じてある、「軍慰安所従業婦等募集に関する件」という文書表題頁と「陸支密 副官より北支那方面軍及び中支派遣(駐屯を訂正)軍参謀長宛通牒案」という二つの書類の写真が、第1章扉に掲げられている。(添付)
 
 不思議なのは、前者は書類番号「陸支密第2197号」で起案は「兵務課」、起案日は「昭和13年3月4日」なのに、左の「副官より」は「陸士密第745号」となっていることだ。
しかも後者の日付は3月4日だが、年は修正されていて読めない。原本は本文が手書きで書類番号と日付が和文タイプライターで印字されており、読めない箇所のスペースには1文字しか入らない。書類番号は通しだから、これは昭和一桁の年に発せられた文書の草稿である。
 従ってこの二つの書類の間の間隔は少なくとも4年あることになり、二つは結びつかない。
 確かに右文書には梅津美治郎(陸軍省次官)、今村均(陸軍省兵務局長)の名前が見え、陸軍のトップ(後に二人とも陸軍大将)が関与しているのは間違いない。


 しかし、左の文章が述べている内容は、「支那事変の地に慰安所を設置するに際して、内地で従業婦等を募集する場合に、1)「軍部が了解している」とことさら言い立て、軍の威信を傷つけ、庶民の誤解を招くようなこと、2)従軍記者や慰問者の仲介により不規則に募集し、社会問題化するおそれがあるもの、3)募集人の人選が適切でないため、募集の方法が誘拐に類似したものとなり、警察当局に検挙取り調べを受けた例がある等、注意するべきものが少なくない。ついては今後これらの募集は派遣軍において統制し、募集人の人選を適切にし、募集の実施にあたっては関係地方の憲兵および警察当局と連携を密にして、軍の威信保持、ならびに社会問題上遺漏ないようにせよ。」
 というものであり。「内地で」慰安所従業婦等を募集する場合、についての遵守事項が述べられている。


 「従軍記者が斡旋したケース」があるというのは、驚きである。これは「慰安所=売春所」でなかったことを意味していると思われる。
 いずれにせよ、書類の日付不一致と文面の内容からは、慰安婦問題について「陸軍省の関与を証明する文書」といえない。


 吉見はこの「従軍慰安婦」(1995)のあとがきで、「1991年12月に従軍慰安婦の調査をはじめてから、もう3年がたった。」と述べている。
 秦郁彦は「朝日新聞の辰濃哲郎記者が吉見から情報を入手したのは(1991年)の12月24日頃」と述べている(「慰安婦と戦場の性」)。
 それが翌年1月、宮澤総理大臣の韓国訪問を目前にして、「朝日」の「慰安所に軍の関与」という一面大報道となったわけである。


 金学順は実名で名乗り出た「従軍慰安婦」の第一号だが、上述の文珠玉と同じく「父は独立運動家で日本軍に撃たれて死亡した」とするなど、告白内容があまりにも嘘くさい。秦はその著書で供述内容を比較しているが、話す度に内容が変わっているのがよくわかる。「実際は親に身売りされたのだ」と秦はいう。


 要するに、「慰安婦問題」について調査を始めたばかりの吉見が、防衛庁の図書館で「陸支密大日記」の綴りから、上記ページを発見し、有頂天になって詳しい吟味もしないまま、朝日の辰濃記者に材料を提供し、朝日が訪韓直前の首相に「奇襲攻撃」をかけたというのが真相であろう。
 吉見自身が「資料の信憑性に問題がある」と気づいたから、岩波ブックレット(2010)では、わざわざ文玉珠の「軍事郵便貯金」の写しを載せながら、上記「軍の関与を証明する文書」を載せていないのであろう。


 勝手な思い込みというか、想像力がたくましい点では「文学者」であるが、実証的な歴史学者とはとてもいえない。吉見と朝日はもたれあっていて、「あとがき」の謝辞には朝日新聞に対する謝辞がしっかり書き込まれている。
 「歴史認識」という錦の御旗を韓国と中国に与え、竹島・尖閣問題にまでつながってきたわけで、もう少し誠実に学問をしてもらわないと困る。
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