【宦官(かんがん)】考古学に「騎馬民族は来た?来ない?」という論争があって、「騎馬民族征服説」の江上波夫と否定説の佐原真が論争したことがある。
佐原の論拠は、いくつかあるが、面白いのは「去勢術」が日本には導入されなかったという指摘だ。雄馬の去勢は軍馬に対しておこなわれ、男の子にこれをおこなったものが「宦官」(オイヌーク)だ。男子去勢はギリシア、エジプトから東は中国まで見られると思っていたが、朝鮮にもあったと知った。
http://ja.wikipedia.org/wiki/宦官
朝鮮の宦官制は9世紀、日本の奈良時代に始まり李王朝末期まで受けつがれた。1884(明治19)年、改革派の金玉均らが提示した綱領には「宦官の廃止」が盛られていたが、実施されたのは日本が日清戦争中に要求した「朝鮮改革」の圧力(1894)を受けてである。この時、「朝鮮の独立」も承認され、「大韓帝国」が成立し、清朝への朝貢も廃止された。
それまでは毎年、「冬になると奇妙な衣服をまとい聞き慣れない言語を話すふしぎな一行が(北京に)来た。」とカナダ人で英国の新聞特派員としてアジア各地に駐在したマッケンジーが書いている(「朝鮮の悲劇」,東洋文庫)。一団は200人ほどで、頭のてっぺんにチョンマゲがある。その一行の中には皇帝に献上されるキーセンや宦官もいるという。
この「朝鮮の宦官」の話は、日本で出た朝鮮史に関する本にも韓国で出た翻訳の「大韓民国の歴史」とか「朝鮮事典」のたぐいにはまったく書いてない。
わずかに、ダレ「朝鮮事情」(東洋文庫)に2頁ほどの記載を認めるのみである。宦官は後宮に入り、皇妃や側室の世話をしたので、権力の陰の支配者になることが多かった。李朝末期のあきれるほどの守旧性にも、宦官がからんでいる可能性があり、もっと研究書がありそうなものだが、見つからない。
ここは恐らく朝鮮史の恥部ではないかと思う。
清朝では1912年に王朝が倒れるまで宦官制があった。以後、溥儀はなお紫禁城に居住したが新規に宦官を募集することはなかった。それでも1924年に紫禁城を立ち退いたとき、470人の宦官が立ち去ったという。(三田村泰助「宦官」, 中公文庫) 溥儀の家庭教師だった英国人ジョンストンは、1912年の「民国革命」の時、紫禁城内には「いくつかの階級に分かれた約3,000人の宦官」がいたという。後にこの数は1,000人に減少したという。彼の「紫禁城の黄昏」(岩波文庫)には、1924年に城を出て行く、宦官たちの写真が載っている。
この時、溥儀は北京の日本大使館に亡命し、10年後に「満州国皇帝」として復活する。
訳書の説明によると満州語のタイカンが漢語の「宦官」に相当し、清朝では「太監」と表記し、皇帝に直属する最高位の宦官は「御前太監」と称したという。
佐原の論拠は、いくつかあるが、面白いのは「去勢術」が日本には導入されなかったという指摘だ。雄馬の去勢は軍馬に対しておこなわれ、男の子にこれをおこなったものが「宦官」(オイヌーク)だ。男子去勢はギリシア、エジプトから東は中国まで見られると思っていたが、朝鮮にもあったと知った。
http://ja.wikipedia.org/wiki/宦官
朝鮮の宦官制は9世紀、日本の奈良時代に始まり李王朝末期まで受けつがれた。1884(明治19)年、改革派の金玉均らが提示した綱領には「宦官の廃止」が盛られていたが、実施されたのは日本が日清戦争中に要求した「朝鮮改革」の圧力(1894)を受けてである。この時、「朝鮮の独立」も承認され、「大韓帝国」が成立し、清朝への朝貢も廃止された。
それまでは毎年、「冬になると奇妙な衣服をまとい聞き慣れない言語を話すふしぎな一行が(北京に)来た。」とカナダ人で英国の新聞特派員としてアジア各地に駐在したマッケンジーが書いている(「朝鮮の悲劇」,東洋文庫)。一団は200人ほどで、頭のてっぺんにチョンマゲがある。その一行の中には皇帝に献上されるキーセンや宦官もいるという。
この「朝鮮の宦官」の話は、日本で出た朝鮮史に関する本にも韓国で出た翻訳の「大韓民国の歴史」とか「朝鮮事典」のたぐいにはまったく書いてない。
わずかに、ダレ「朝鮮事情」(東洋文庫)に2頁ほどの記載を認めるのみである。宦官は後宮に入り、皇妃や側室の世話をしたので、権力の陰の支配者になることが多かった。李朝末期のあきれるほどの守旧性にも、宦官がからんでいる可能性があり、もっと研究書がありそうなものだが、見つからない。
ここは恐らく朝鮮史の恥部ではないかと思う。
清朝では1912年に王朝が倒れるまで宦官制があった。以後、溥儀はなお紫禁城に居住したが新規に宦官を募集することはなかった。それでも1924年に紫禁城を立ち退いたとき、470人の宦官が立ち去ったという。(三田村泰助「宦官」, 中公文庫) 溥儀の家庭教師だった英国人ジョンストンは、1912年の「民国革命」の時、紫禁城内には「いくつかの階級に分かれた約3,000人の宦官」がいたという。後にこの数は1,000人に減少したという。彼の「紫禁城の黄昏」(岩波文庫)には、1924年に城を出て行く、宦官たちの写真が載っている。
この時、溥儀は北京の日本大使館に亡命し、10年後に「満州国皇帝」として復活する。
訳書の説明によると満州語のタイカンが漢語の「宦官」に相当し、清朝では「太監」と表記し、皇帝に直属する最高位の宦官は「御前太監」と称したという。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます