【廃屋ハンティング続】
その後、豊栄から世羅町へ抜ける道路を北に走り、廃屋のカメラハンティングを行った。吉原という集落の小川沿いに、小さな廃屋を見つけた。
郵便受けと電気メーターがあるから、こちらが玄関で、西に面している。切断された木の電柱も見える。左の土壁に高さが違う四角窓があり、もとは藁葺きの土蔵か納屋だったのを改造して、玄関部分を増築したとわかる。南側に庭があったのだが、完全にブッシュになっている。
側壁の地階部分から、低い煙突が斜めに出ており、風呂の焚き口とわかる。家のすぐ東側に川が流れており、水はここから汲んでいたと推定される。昔は「水は三尺流れたら浄化される」という考え方があり、炊事、洗濯を川でする家も多かった。井戸を持てる家は金持ちだった。山水を利用する家もあった。この家も、井戸がないから川の水を利用していたのであろう。
道路の左手は、コンクリート橋のたもとになっている。この家は半地下式で、2階が玄関部分になっている。こういう家を昔は、「道下」とか「橋下」と呼んだ。多くは被差別民の家だった。
家全体と不釣り合いに立派な「梲(うだつ)」があるが、これは後から作ったものだろう。家が道路ぎりぎりに建っているが、これは旧県道の拡張に伴い、敷地を削り取られたのであろうか。南側に元水田の耕作放棄地があり、もと住み込み小作人が、戦後の「農地解放」で猫の額ほどの農地を入手し、地主の納屋を改造して住みついたが、農業では暮らして行けず、日雇いか出稼ぎかで暮らしていたのが、やがて老いて死に絶えてこうなったのかな、と想像した。
藁屋根の倉が建ったのが戦前で、
住宅になったのが1950年代、
玄関部分が増築されたのが、黒瓦からみて、1970年代、
1980年代に藁屋根からトタン屋根に変え、その際にうだつを載せたのではないか、と推測する。屋根本体のトタンとうだつのトタンは、錆のパターンが連続しているからだ。
いずれにしても、限界集落には「生きた建築史」が沢山ある。
この集落の他の廃屋を見物していたら、急に便意を催した。17:00前だった。急いで豊栄まで戻り、1軒だけあるスーパーのトイレに行った。ここには洋式の便器があり、広島八丁堀の「丸善ジュンク堂」より優れている。あそこは1960年代の和式便器しかない。すっきりして自宅に戻った。
結論:プルセニド4錠48mgを服用したところ、1時間後に腹鳴が始まり、6時間後に便意を催し、軟便の排泄を認めた。固形便はなかった。この間に排尿は1回しかなかった。よってプルセニドの蠕動運動の促進作用と水分吸収の抑制作用は、あるものと認められる。倍量服用に伴う副作用と思われる現象は、特に認められなかった。
<追記>後日、この小屋を再訪し、イヌを散歩させていた付近の老女に聞いたところ、前は「倉庫兼水車小屋」で、米つき屋だったが、その後お婆さんが一人暮らししていた、とのこと。地形を見ると川の上流200メートルほど先で、川が左川下に湾曲していて、そこに取水口のようなものがある。ここから旧街道沿いに用水路があり、その水を利用して水車を回していたとわかった。だから道下に小屋があるわけだ。水車はもと道路脇に設置されていて、それを撤去した際に、瓦屋根部分を増築したのだろう。コイン精米所ができるまでは、水車を利用した精米所があり、ついで農協の電気精米所に変わった。
この場所は道路が橋の部分でT字形をしており、Ⅰ字形の橋の西側に水車小屋があり、南北に延びる「一」の部分に数軒の商店があった。タバコ屋、畳屋、家具屋みな閉鎖して廃屋になっている。理由は、新しく広い、中央分離帯のある県道が、商店街の外側を走るようになったからだろう。
吉原地区はさびれ方がひどく、イタチが道路を横断した。見ていたら、側溝に入って、立ち上がってこっちを眺めたので、動かないことを念じて、30メートルの距離から望遠で撮影した。ここではイタチもヒトを怖がらない。速写するにはISO感度を400以上に上げておかないといけない。
往復で100キロほど走ったが、「藁屋根の廃屋」を1軒だけ見かけた。1980年代にはまだあちこちにあったが、いまや「文化遺産」だろう。
敷地は広く、瓦屋根の二階建ての「離れ兼納屋」があり、ツマ壁に「丁子梅鉢」の家紋をつけた、立派な土蔵もあるのだが、母屋西のうだつ下部の藁が破れており、たぶん雨漏りがしている。「梅鉢」は「洞ヶ峠」の筒井順慶の家紋である。西の庭は茶畑になっているが、新芽を摘む人もいない。昔の農家は自宅庭に茶畑を持ち、茶は自給自足していた。見ていてある歌を想いだした。
「幾とせふるさと、来てみれば、…
…荒れたるわが家に、住む人絶えてなく。
昔を語るか、そよぐ風、…
…さびしき故郷や、さびしきわが家や」
「故郷の廃家」(岩波文庫「日本唱歌集」、作詞犬童球渓、作曲ヘイス, 明治40年)だ。
http://www.youtube.com/watch?v=WsIHhPmFiow&feature=kp
19世紀の終わりには、日本でも都市化が進み、田舎にはこういう光景が出現した。
平安の歌人はもっと間接的に、その風情を表現した。
「東風吹かば匂いおこせよ梅の花、主なしとて春な忘れそ」(菅原道真)。
その後、豊栄から世羅町へ抜ける道路を北に走り、廃屋のカメラハンティングを行った。吉原という集落の小川沿いに、小さな廃屋を見つけた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/61/6b/d88865267248a8e1a9fa69ebccc8b7a5_s.jpg)
郵便受けと電気メーターがあるから、こちらが玄関で、西に面している。切断された木の電柱も見える。左の土壁に高さが違う四角窓があり、もとは藁葺きの土蔵か納屋だったのを改造して、玄関部分を増築したとわかる。南側に庭があったのだが、完全にブッシュになっている。
側壁の地階部分から、低い煙突が斜めに出ており、風呂の焚き口とわかる。家のすぐ東側に川が流れており、水はここから汲んでいたと推定される。昔は「水は三尺流れたら浄化される」という考え方があり、炊事、洗濯を川でする家も多かった。井戸を持てる家は金持ちだった。山水を利用する家もあった。この家も、井戸がないから川の水を利用していたのであろう。
道路の左手は、コンクリート橋のたもとになっている。この家は半地下式で、2階が玄関部分になっている。こういう家を昔は、「道下」とか「橋下」と呼んだ。多くは被差別民の家だった。
家全体と不釣り合いに立派な「梲(うだつ)」があるが、これは後から作ったものだろう。家が道路ぎりぎりに建っているが、これは旧県道の拡張に伴い、敷地を削り取られたのであろうか。南側に元水田の耕作放棄地があり、もと住み込み小作人が、戦後の「農地解放」で猫の額ほどの農地を入手し、地主の納屋を改造して住みついたが、農業では暮らして行けず、日雇いか出稼ぎかで暮らしていたのが、やがて老いて死に絶えてこうなったのかな、と想像した。
藁屋根の倉が建ったのが戦前で、
住宅になったのが1950年代、
玄関部分が増築されたのが、黒瓦からみて、1970年代、
1980年代に藁屋根からトタン屋根に変え、その際にうだつを載せたのではないか、と推測する。屋根本体のトタンとうだつのトタンは、錆のパターンが連続しているからだ。
いずれにしても、限界集落には「生きた建築史」が沢山ある。
この集落の他の廃屋を見物していたら、急に便意を催した。17:00前だった。急いで豊栄まで戻り、1軒だけあるスーパーのトイレに行った。ここには洋式の便器があり、広島八丁堀の「丸善ジュンク堂」より優れている。あそこは1960年代の和式便器しかない。すっきりして自宅に戻った。
結論:プルセニド4錠48mgを服用したところ、1時間後に腹鳴が始まり、6時間後に便意を催し、軟便の排泄を認めた。固形便はなかった。この間に排尿は1回しかなかった。よってプルセニドの蠕動運動の促進作用と水分吸収の抑制作用は、あるものと認められる。倍量服用に伴う副作用と思われる現象は、特に認められなかった。
<追記>後日、この小屋を再訪し、イヌを散歩させていた付近の老女に聞いたところ、前は「倉庫兼水車小屋」で、米つき屋だったが、その後お婆さんが一人暮らししていた、とのこと。地形を見ると川の上流200メートルほど先で、川が左川下に湾曲していて、そこに取水口のようなものがある。ここから旧街道沿いに用水路があり、その水を利用して水車を回していたとわかった。だから道下に小屋があるわけだ。水車はもと道路脇に設置されていて、それを撤去した際に、瓦屋根部分を増築したのだろう。コイン精米所ができるまでは、水車を利用した精米所があり、ついで農協の電気精米所に変わった。
この場所は道路が橋の部分でT字形をしており、Ⅰ字形の橋の西側に水車小屋があり、南北に延びる「一」の部分に数軒の商店があった。タバコ屋、畳屋、家具屋みな閉鎖して廃屋になっている。理由は、新しく広い、中央分離帯のある県道が、商店街の外側を走るようになったからだろう。
吉原地区はさびれ方がひどく、イタチが道路を横断した。見ていたら、側溝に入って、立ち上がってこっちを眺めたので、動かないことを念じて、30メートルの距離から望遠で撮影した。ここではイタチもヒトを怖がらない。速写するにはISO感度を400以上に上げておかないといけない。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/46/ef/8fd34da763552bedcf088f6de5a94758_s.jpg)
往復で100キロほど走ったが、「藁屋根の廃屋」を1軒だけ見かけた。1980年代にはまだあちこちにあったが、いまや「文化遺産」だろう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/71/c4/acbb08fe6275cc27ed27c8ded3a2f521_s.jpg)
敷地は広く、瓦屋根の二階建ての「離れ兼納屋」があり、ツマ壁に「丁子梅鉢」の家紋をつけた、立派な土蔵もあるのだが、母屋西のうだつ下部の藁が破れており、たぶん雨漏りがしている。「梅鉢」は「洞ヶ峠」の筒井順慶の家紋である。西の庭は茶畑になっているが、新芽を摘む人もいない。昔の農家は自宅庭に茶畑を持ち、茶は自給自足していた。見ていてある歌を想いだした。
「幾とせふるさと、来てみれば、…
…荒れたるわが家に、住む人絶えてなく。
昔を語るか、そよぐ風、…
…さびしき故郷や、さびしきわが家や」
「故郷の廃家」(岩波文庫「日本唱歌集」、作詞犬童球渓、作曲ヘイス, 明治40年)だ。
http://www.youtube.com/watch?v=WsIHhPmFiow&feature=kp
19世紀の終わりには、日本でも都市化が進み、田舎にはこういう光景が出現した。
平安の歌人はもっと間接的に、その風情を表現した。
「東風吹かば匂いおこせよ梅の花、主なしとて春な忘れそ」(菅原道真)。
http://mainichi.jp/opinion/news/20141015k0000m070138000c.html
「主なしとて」の歌の心は、家ではなく左遷された自分の心情にあると思う。難波先生って国語科の成績はあんまりよくなかったんじゃないかなあ。
私が居なくても春が来たら咲いておくれ・・・・
と言ってるんだろ?
家とはまったく関係ないね。
>「主なしとて」の歌の心は、家ではなく左遷された自分の心情にあると思う。
そうかな?
その心情は左遷される身もあるけども、離れなければならない実家の情景に対し梅の木を代表にして詠んだのだと思う。
梅ではなくてそれが表札、あるいは垣根でも良かったのだと思いますよ。
誰も居なくなる家ってのは一気に寂れますからね。
それに対する心情が強く出ていますよ。
>難波先生って国語科の成績はあんまりよくなかったんじゃないかなあ。
これは底意地の悪い見解ですな。