【新書の価値】12月初めに大学生協で買った15冊のサイエンス関係の新書をやっと「蔵書目録」に入力した。最近は、索引、参考文献の有無、総ページ数、著者略歴、書棚の位置も記入するようにしているので、手間はかかるが「総合データベース」として、役に立つ。
入力はやっと4,400冊に達したところです。
「ボケ」は1)先天性(Congenital dementia)=巨人の長島がよい例、2)若年性(Juvenile D.)=アルツハイマー病(一時、精神分裂病が「若年性痴呆症」と呼ばれたこともある)、 3)老人性(Senile D.)=年取ると誰でも起こる、の3種に分類されます。この老人性の方は私もそろそろ自覚症状がある。
が、机に座ってPCを使って執筆しているかぎり、このデータベースがアシストしてくれるので、あまり気にならない。
確かサイバネティクスの創始者で、コンピュータの父の一人であるノバート・ウィーナーが「マン・マシン・ハイブリッド」の出現を50年くらい前に予言していますが、スマフォやiPAD airの登場をみると、そうなりつつあるように思われます。
「般若心経」の「色、受、想、行、識」、つまりポランニーの「暗黙知」や「経験知」を超えた系統的思考によって得られる、アリストテレスのいう「理論知」こそが、本当に人間らしい「知識」だという方向に向かっているような気がします。
英語の本には小説をのぞいて、まず索引と執筆に参照した文献の記載がないということはない。それが当たり前だ。なぜなら本は「読者に有用であり、自己啓発に役立つ」から発行する価値があり、売れるのだから。
最近は、書物のフロントページに、索引の有無、参考文献の有無を鉛筆で書くようにしています。「E-3」というように書架位置も書いておく。探すのも返すのもこれだと早い。1分以内に必要な本を机上に持って来られます。
驚いたことに「索引あり」の新書は1冊もなかった! 新書はもともと岩波がペンギン・ブックをコピーしたものだ。昭和の初めは知らないが、いまのペンギン・ブックは全部索引がついている。Penguin Classicsの索引など大したものだ。
で、「文献あり」はたった8冊。
杉晴夫「天才たちの科学史」(平凡社新書)は索引はないが、参考文献が巻末にまとめて掲載してある。杉の「現代医学に残された7つの謎」、「栄養学を拓いた巨人たち」はいずれも講談社ブルーバックスで、これらには索引と文献リストが載っている。
岡谷公二「神社の起源と古代朝鮮」も平凡社新書で、文献リストはあるが索引なし。
中公新書の
角山栄「茶の世界史」、
小山茂「外邦図:帝国日本のアジア地図」、
政野淳子「四大公害病:水俣病、新潟水俣病、イタイイタイ病、四日市公害」
も同様だ。
現代では、参考文献の提示がなく索引がない本は、第三者が「真偽の検証」ができないから、それ自体が「出版公害」なのです。紙のムダ、資源のムダです。
「集英社新書」の
一川誠「錯覚学:知覚の謎を解く」、
天野祐吉「成長から成熟へ:さよなら経済大国」、
も文献はあるが、索引がない。
岩波新書は5冊買ったが、文献がリスト化されているのは、
加藤九祚(くぞう)「シルクロードの古代都市」、だけ。
中村桂子「科学者が人間であること」は2013/8刊行なのに、索引も文献もない。
彼女が三菱総研にいたころに、出逢って話をしたことがあるが、1993年からJTがスポンサーである大阪の「生命誌研究館」に勤めている。
「人間的科学者」なら、そのことへの説明があってよかろうに…
桑原万寿太郎「動物と太陽コンパス」(1963, 29刷り)
斎藤国治「星の古記録」(1982, 4刷り)
は著者が二人とも死没しているが、刷りを重ねているから、編集者がせめて索引だけでもつけるべきだろう。値段の方はアップしているのだから、付加価値を付けてほしい。
広瀬和雄「前方後円墳の世界」(2010, 2刷り)
本文中に出てくる遺跡の索引だけあるというのがおかしい。
考古学はもともと東大の理学部に最初に設置された。
それを京大が文学部に作って、歴史学の一部にしたから、考古学者から科学的思考力がなくなり、「ほら吹き男爵」中野益男帯広畜産大学教授と藤村新一に騙されて、「旧石器遺跡捏造」事件が起こったではないか。
前方後円墳はスキタイの墳墓もそうだ。日本だけ見ていても何もわからない。
少しは朝鮮や中国やスキタイの墳墓のことが書いてあるかと思ったが、人類学とちがって、考古学は鎖国状態にあるようだ。
私は「覚悟としての死生学」(文春新書)では7頁の索引と141冊の文献をリストで明示した。その恩恵を最大限に受けているのは、じつは著者自身である。索引も参考文献の明示もない本なんて、私は出す気がしない。良心のうずきをおぼえるからだ。
本を書くのはお金のためではない。金もうけしたかったら病理学者などになっていないし、医者にもなっていないだろう。
粗製濫造の「新書戦争」はいつまで続くのか知らん…
入力はやっと4,400冊に達したところです。
「ボケ」は1)先天性(Congenital dementia)=巨人の長島がよい例、2)若年性(Juvenile D.)=アルツハイマー病(一時、精神分裂病が「若年性痴呆症」と呼ばれたこともある)、 3)老人性(Senile D.)=年取ると誰でも起こる、の3種に分類されます。この老人性の方は私もそろそろ自覚症状がある。
が、机に座ってPCを使って執筆しているかぎり、このデータベースがアシストしてくれるので、あまり気にならない。
確かサイバネティクスの創始者で、コンピュータの父の一人であるノバート・ウィーナーが「マン・マシン・ハイブリッド」の出現を50年くらい前に予言していますが、スマフォやiPAD airの登場をみると、そうなりつつあるように思われます。
「般若心経」の「色、受、想、行、識」、つまりポランニーの「暗黙知」や「経験知」を超えた系統的思考によって得られる、アリストテレスのいう「理論知」こそが、本当に人間らしい「知識」だという方向に向かっているような気がします。
英語の本には小説をのぞいて、まず索引と執筆に参照した文献の記載がないということはない。それが当たり前だ。なぜなら本は「読者に有用であり、自己啓発に役立つ」から発行する価値があり、売れるのだから。
最近は、書物のフロントページに、索引の有無、参考文献の有無を鉛筆で書くようにしています。「E-3」というように書架位置も書いておく。探すのも返すのもこれだと早い。1分以内に必要な本を机上に持って来られます。
驚いたことに「索引あり」の新書は1冊もなかった! 新書はもともと岩波がペンギン・ブックをコピーしたものだ。昭和の初めは知らないが、いまのペンギン・ブックは全部索引がついている。Penguin Classicsの索引など大したものだ。
で、「文献あり」はたった8冊。
杉晴夫「天才たちの科学史」(平凡社新書)は索引はないが、参考文献が巻末にまとめて掲載してある。杉の「現代医学に残された7つの謎」、「栄養学を拓いた巨人たち」はいずれも講談社ブルーバックスで、これらには索引と文献リストが載っている。
岡谷公二「神社の起源と古代朝鮮」も平凡社新書で、文献リストはあるが索引なし。
中公新書の
角山栄「茶の世界史」、
小山茂「外邦図:帝国日本のアジア地図」、
政野淳子「四大公害病:水俣病、新潟水俣病、イタイイタイ病、四日市公害」
も同様だ。
現代では、参考文献の提示がなく索引がない本は、第三者が「真偽の検証」ができないから、それ自体が「出版公害」なのです。紙のムダ、資源のムダです。
「集英社新書」の
一川誠「錯覚学:知覚の謎を解く」、
天野祐吉「成長から成熟へ:さよなら経済大国」、
も文献はあるが、索引がない。
岩波新書は5冊買ったが、文献がリスト化されているのは、
加藤九祚(くぞう)「シルクロードの古代都市」、だけ。
中村桂子「科学者が人間であること」は2013/8刊行なのに、索引も文献もない。
彼女が三菱総研にいたころに、出逢って話をしたことがあるが、1993年からJTがスポンサーである大阪の「生命誌研究館」に勤めている。
「人間的科学者」なら、そのことへの説明があってよかろうに…
桑原万寿太郎「動物と太陽コンパス」(1963, 29刷り)
斎藤国治「星の古記録」(1982, 4刷り)
は著者が二人とも死没しているが、刷りを重ねているから、編集者がせめて索引だけでもつけるべきだろう。値段の方はアップしているのだから、付加価値を付けてほしい。
広瀬和雄「前方後円墳の世界」(2010, 2刷り)
本文中に出てくる遺跡の索引だけあるというのがおかしい。
考古学はもともと東大の理学部に最初に設置された。
それを京大が文学部に作って、歴史学の一部にしたから、考古学者から科学的思考力がなくなり、「ほら吹き男爵」中野益男帯広畜産大学教授と藤村新一に騙されて、「旧石器遺跡捏造」事件が起こったではないか。
前方後円墳はスキタイの墳墓もそうだ。日本だけ見ていても何もわからない。
少しは朝鮮や中国やスキタイの墳墓のことが書いてあるかと思ったが、人類学とちがって、考古学は鎖国状態にあるようだ。
私は「覚悟としての死生学」(文春新書)では7頁の索引と141冊の文献をリストで明示した。その恩恵を最大限に受けているのは、じつは著者自身である。索引も参考文献の明示もない本なんて、私は出す気がしない。良心のうずきをおぼえるからだ。
本を書くのはお金のためではない。金もうけしたかったら病理学者などになっていないし、医者にもなっていないだろう。
粗製濫造の「新書戦争」はいつまで続くのか知らん…
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