【英語教育】来年から小学校3年生から「英語教育」が始まるのだそうだ。
「報道ステーション」を見ていると、あまり有名でない大学の言語学者とか経済評論家の浜矩子などが出て来て、「日本語ができあがらないうちに、英語を教えるなんて…」とトンデモ発言をしている。「チョムスキー言語学」を知らない言語学者はもぐりだろう。
脳のなかには先天的に言語中枢があり、「普遍文法」を備えている。この理論は実験的にも証明され、「サイエンス」にも論文が載った。これで東アフリカのブッシュマンが話している「クリック言語」が人類最古の言語であると証明された。
知人に日系2世と結婚した日本人がいて、子供をバイリンガルに育てる決意をし、生まれた時から英語と日本語の両方で教育した。結果は大成功で、美事なバリンガルの青年が誕生した。
この夏、5歳と4歳の孫を観察した。言語の発達は上の方が進んでいるかと思いきや、下の方が進んでいた。連文や理由を説明する「Because…」などの接続詞を使ったり、仮定文「If I were …」をしゃべることができる。日本語もすぐに憶えた。このように「普遍言語」の発達能力には個人差がある。日本語がどもる人は英語やドイツ語でもやはりどもる。
海軍大将の井上成美(しげよし)は戦後は世に出ず、子供たちに英語を教えて生計を立てた。その教育法は耳から入るもので、まずギターを弾いて英語の歌を教えた。これは正解だと思う。赤ん坊がことばを憶えて行く「個体発生」を、そのまま英語の教育課程に取り入れればよいのである。
私は小学校に入る前に、いくつかの英語スペルと読み方を憶えた。父がくれた絵本に、「バットBat飛び出すこうもり」といった具合に、語呂合わせで英語が書いてあったからだ。おかげで草野球をする時に「打つ棒」を「バット」いうのを知り、変な気持ちがした。後年、ボストンでメジャーリーグの野球を見た時、打者のことを「at bat」というのを知り驚いたこともある。
子供の時にいくつかの英語を覚えたが、カタカナで書いてあるのを憶えたので、日本語音だ。中学の英語も教師の発音は日本語だから、b:v, l:r, chi: ti,などの区別がなかった。おかげで広島市の高校に進学してから英語で大苦労し、英語クラブに入ってアメリカ文化センターや岩国基地に出入りして、中学3年間の遅れを取り戻すのが大変だった。
読んだり書いたりする外国語能力は、言語中枢がまともに発達していれば、成人後でも容易に獲得できる。しかし耳から入る「聴き取り、発音」の能力は、絶対音感が成立するまでに獲得しなければダメである。
そういう聴覚生理学上の問題があるから、小学生の早い時期から英語を、それも聴いたり歌ったりする能力を学ばせるのは、大賛成である。なに教師がいない? ドリス・デイの「ケセラセラ」やジュリー・アンドリュースの「ドレミの歌」とかジュディー・ガーランドの「虹の彼方に」などの歌を聴かせればよいのである。
もっとも教師が歌ってピアノかギターを弾いて、唄って聴かせないといけないから、そっちの勉強の方が大変かもしれない。しかし、弾けて唄える技術の習得は、教師の人生も豊かにすることだろう。
「報道ステーション」を見ていると、あまり有名でない大学の言語学者とか経済評論家の浜矩子などが出て来て、「日本語ができあがらないうちに、英語を教えるなんて…」とトンデモ発言をしている。「チョムスキー言語学」を知らない言語学者はもぐりだろう。
脳のなかには先天的に言語中枢があり、「普遍文法」を備えている。この理論は実験的にも証明され、「サイエンス」にも論文が載った。これで東アフリカのブッシュマンが話している「クリック言語」が人類最古の言語であると証明された。
知人に日系2世と結婚した日本人がいて、子供をバイリンガルに育てる決意をし、生まれた時から英語と日本語の両方で教育した。結果は大成功で、美事なバリンガルの青年が誕生した。
この夏、5歳と4歳の孫を観察した。言語の発達は上の方が進んでいるかと思いきや、下の方が進んでいた。連文や理由を説明する「Because…」などの接続詞を使ったり、仮定文「If I were …」をしゃべることができる。日本語もすぐに憶えた。このように「普遍言語」の発達能力には個人差がある。日本語がどもる人は英語やドイツ語でもやはりどもる。
海軍大将の井上成美(しげよし)は戦後は世に出ず、子供たちに英語を教えて生計を立てた。その教育法は耳から入るもので、まずギターを弾いて英語の歌を教えた。これは正解だと思う。赤ん坊がことばを憶えて行く「個体発生」を、そのまま英語の教育課程に取り入れればよいのである。
私は小学校に入る前に、いくつかの英語スペルと読み方を憶えた。父がくれた絵本に、「バットBat飛び出すこうもり」といった具合に、語呂合わせで英語が書いてあったからだ。おかげで草野球をする時に「打つ棒」を「バット」いうのを知り、変な気持ちがした。後年、ボストンでメジャーリーグの野球を見た時、打者のことを「at bat」というのを知り驚いたこともある。
子供の時にいくつかの英語を覚えたが、カタカナで書いてあるのを憶えたので、日本語音だ。中学の英語も教師の発音は日本語だから、b:v, l:r, chi: ti,などの区別がなかった。おかげで広島市の高校に進学してから英語で大苦労し、英語クラブに入ってアメリカ文化センターや岩国基地に出入りして、中学3年間の遅れを取り戻すのが大変だった。
読んだり書いたりする外国語能力は、言語中枢がまともに発達していれば、成人後でも容易に獲得できる。しかし耳から入る「聴き取り、発音」の能力は、絶対音感が成立するまでに獲得しなければダメである。
そういう聴覚生理学上の問題があるから、小学生の早い時期から英語を、それも聴いたり歌ったりする能力を学ばせるのは、大賛成である。なに教師がいない? ドリス・デイの「ケセラセラ」やジュリー・アンドリュースの「ドレミの歌」とかジュディー・ガーランドの「虹の彼方に」などの歌を聴かせればよいのである。
もっとも教師が歌ってピアノかギターを弾いて、唄って聴かせないといけないから、そっちの勉強の方が大変かもしれない。しかし、弾けて唄える技術の習得は、教師の人生も豊かにすることだろう。
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