ある宇和島市議会議員のトレーニング

阪神大震災支援で動きの悪い体に気づいてトレーニングを始め、いつのまにかトライアスリートになってしまった私。

【キンドル】難波先生より

2013-06-18 12:13:37 | 難波紘二先生
【キンドル】私は6月の中旬に誕生日を迎え、その日か後に「父の日」が来るので、家族が集まり賑やかになります。ハワイの娘も二人の男の子連れて帰って来ました。息子夫婦も来て誕生日兼父の日を祝ってくれ、キンドルをみんなでプレゼントしてくれました。
 その前に、紀田順一郎「文庫の整理学」(講談社学術文庫)により、田中貢太郎「貢太郎見聞録」(中公文庫)の存在を知り、AMAZON古書で取り寄せたら、なんと酒井シヅ「病が語る日本史」(講談社学術文庫)が取りあげている「李鴻章狙撃事件」の犯人が貢太郎の知人で、「馬関街頭の刺客」という狙撃犯から直接聞いた事件の裏面史が詳しく書かれているのに驚いた。


 男は小山豊太郎といい、明治28年3月24日、下関市春帆楼で開かれていた日清戰争の講和会談に、清国全権代表として出席していた李鴻章を五連発のピストルで狙撃した。弾は「射入口径約8ミリ、右眼窩下縁中央の約1センチ下より進入し、副鼻腔後部の骨内に止まる」という盲貫銃創を負わせた男である。すぐに取り押さえられ、3月31日下関地裁で無期懲役の判決を受け、釧路刑務所と網走刑務所で12年服役、明治40年8月に特赦になっている。


 凶器のピストルは3月11日に「横浜の金丸銃砲店」で買った「32型(口径=(8mm) 5連発、長さ5寸7分(17cm)、重さ90匁(338g)」という「最も小型な揚打銃」で、試射もしていない。直径8ミリの拳銃弾というと鉛筆ほどの太さである。当時は猟銃だけでなく、護身用のピストルが自由に買えたらしい。


 群馬県大島村出身の小山が特赦後に、獄中で書いた手記を土佐出身の紀行作家大町桂月のところに持ち込んだ。貢太郎は土佐の出で、桂月に師事していたから、その関係で小山と知り合いになったらしい。「おとなしいむしろ女性的な感じのする人であった」と貢太郎は書いている。しかし、豊太郎の軽率な行為は、列強を刺激し日清戦争の講和条約に対して「三国干渉」をもたらし、後の日露戦争や「満州事変」につながるので、歴史に与える偶然の影響は大きい。


 当時、貢太郎は「日高有隣堂」という出版社の社員だった。その関係で日高有隣堂が小山豊太郎の「活地獄」を出版したらしい。この日高有隣堂が明治14年に田山花袋が丁稚奉公に入った、「有隣堂」という「農業専門の書店」と同じものかどうかは、定かでない。


 山田風太郎に小山豊太郎と小山の手記「活地獄」を素材とした、小説「牢屋の坊ちゃん」があると知り驚いた。今は文春文庫「明治バベルの塔」に収められているらしい。風太郎の読書幅の広さ、着眼点と発想の奇抜さにはいつも驚かされる。


 ところで、「貢太郎見聞録」には「死体の臭い」と題する、大正12年9月1日の関東大震災の翌日、東京の下町を歩きまわり、実に約3万6,000人が焼け死んだ本所の被服廠跡地を見聞した記録がある。遺体は何十体かずつ塊にして並べられていた。身寄りの者が遺体を探し当てやすいようにしていたのである。
 「溺死人のように腫れあがった者、腐った魚のように半身がどろどろになった者、黒焦げになった者」、そうした死体が二町(200m)四方もあろうと思われる場所を被っていた、と書いている。
 貢太郎は鼻を手拭いで被って、この広場を対角線状に歩き、北側の電車通りと被服廠の間の堀にも、びっしりと黒焦げ死体が詰まっているのを目撃している。身寄りの者が焼け残りの木材を集めて、遺体を焼いているのも認めている。


 東日本大震災の後に急遽復刊された田山花袋「東京震災記」では、花袋は9月5日から取材に入っており、描写も迫力に乏しい。被服廠跡には、「死体の醜悪な状態と腐りかけた臭気に閉口して」、入るのを止めている。
 東京市における死者約10万6000人の約半数がこの被服廠跡で発生している。ここでの折り重なる焼死体の山は写真に記録されているが、筆舌に尽くしがたかったのか、この貢太郎の「死体の臭い」に匹敵するドキュメントを読んだことがない。
 東日本大震災でも多くの犠牲者が出たが、関東大震災や広島長の被曝に比べ、死者がこれほど無惨に扱われることはなかったのは、不幸中の幸いというべきか。
 被災地の皆さんに、ぜひ「死体の臭い」を一度読まれることをお薦めしたい。


 吉村昭「関東大震災」の本所被服廠の跡地場面では、この広場に避難してきた住民が周囲から迫る業火と猛烈な火災風のために、身を焼かれ吹き飛ばされる光景が見事に描かれている。信じられないことだが、1973年のこの作品が関東大震災をとらえた最初のノンフィクションだという。つまりノンフィションというジャンルは戦後に生まれたものだ。
 「関東大震災」の参考文献を見ると、「貢太郎見聞録」が入っていない。使っていたらもっと迫力が出ただろう。


 夕食の時に娘に「死体の臭い」という作品の話をしたら、キンドルをごちょごちょいじっていたが、間もなくAMAZONで「無料」というのを見つけ、ダウンロードしてきた。アマゾンが青空文庫とタイアップしていて、著作権が切れた作品を公開している青空文庫の本を、無料でキンドルに配信するらしい。


 娘が寝た後、ひとりで焼酎の梅昆布茶入りを飲みながら、トライしてみた。「キンドル事始め」である。
 画面は文庫本の1ページにほぼ対応している。背景色は真っ白なので、古本の文庫とは印象が違う。文字の大きさは8段階に切り換えられるようになっており、最小のフォントサイズだと1行45字X18行=810字になる。
 文庫本の「貢太郎見聞録」(中公文庫)だと、1行43字X20行=860字になる。


 で、読みやすさだが、これはキンドルの方がバックライト(透過光)なので断然読みやすい。文庫本は反射光で読むので電灯を消したら読めない。キンドルは逆で、かえって読みやすく目にやさしくなる。眼鏡をはずしても視距離30cmの位置からちゃんと文字が読める。
 ちなみに重さを比較したら、文庫本270g、キンドル200gだった。寝床で文庫本を読むことが多いが、これならキンドルにインストールしたテキストを読む方が楽だなと思った。なぜならスタンドをつける必要がないし、眠くなったらナイトテーブルの上に置いておけば、自動的にスリープしてくれるからだ。


 ところで文庫本は机上で開いて読むと、見開き2ページ、1,720字が一度に目に入ってくる。速読するにはこれが都合が良い。鍵になる言葉だけを読めばよいから、すぐページがめくれる。が、良いことだけではない。いわゆる「目が走って」、他のことを読み落としてしまう場合がある。


 ところが、キンドルの場合、フォントサイズを簡単に大きくして「味読」モードにできる。私の場合、それは31字12行=372字か、27字10行=270字である。これだと嫌でも1行ずつゆっくりと読んで行くしかない。短編の名作を味読するのに向いているだろう。はじめて電子ブックを使って気づいたのだが、文字サイズが拡大縮小できるので、ページ番号がない。全テキストの中で現在表示されている文字群の位置がパーセント表示され、読了までの「必要時間」が「あと何分」と表示されるのもユニークだ。


 ただ困るのは紙の本の場合、マーカーでしるしをつけたり、注釈や自分の意見を書き込んだりできるが、その位置をだいたいの厚みで憶えており、後で必要なときに、書き込みをすぐ発見できるが、キンドルではそうもいかない。
 と思ったが、「文字検索機能」と「書き込み機能」があり、索引としても書き込みとしても、利用できるとわかった。


 電子ブックは電子手帳と同じで「一覧性、一瞥性」において、紙本、紙手帳に劣るだろうと思っていたが、少し違った。
 日本の文庫本の90%には索引がついておらず、読者が中味を吟味できないようになっている。
 読者どころか書いた本人が吟味していないから、翻訳本では箇所によって人名の表記が違っていたり、推理小説ではとっくに死んだはずの人間がまた出てきたりする。竹内久美子のような「トンデモ科学者」だと、はじめの方と終りの方では、矛盾したことを書いていたりする。


 あと、夏目漱石「明暗」を同じくダウンロードしてくれたので、いま読んでいる開高健「パニック・裸の王様」の文庫本を読み終えたら、寝る前の本としてスタンドをつけないでこれを味読する実験をしてみようと思う。


 本ははじめ巻物だった。本のことをギリシア語で「ビブリオ(biblio)」=バイブルの語源、ラテン語で「リーベル(liber)」=コウゾのような樹皮を用いたので原義は「樹皮」、巻いたものを「ヴォルーメン(volumen)」(英語のヴォリューム=巻の語源)と呼んだ。


 この時代には目次はあってもページ番号はなかった。
 冊子体の本が出現してページ番号が付けられるようになり、目次にページ番号が入った。
 ページ番号を付けるのが当たり前になり、18世紀の末にやっと「索引」が発明された。しかし普及するのは西洋の場合、19世紀に入ってからである。索引をインデックス(index)というのは、ラテン語で冊子体の本をコデックス(codex)と呼んだからである。


 いま洋書で私が買うものに、索引と参考文献が付いていない本は一冊もない。医学関連書では19世紀の洋書もあるが、索引はみな付いている。
 日本の本は21世紀になっても、索引も参考文献の明示もない粗悪本がごろごろしている。


 ページ番号は本文から「落丁」が疑われる場合に、それを確認するのに役立つぐらいで、目次が充実していない本だと無意味である。だから巻物本にページ番号がなかったように、電子ブックにページがなくても構わない。
 それよりも、キンドルに「見出し一覧」が作れないものか、と思う。


 ともかくキンドルを使ってみて、「紙冊子体」の本が大きな時代の転換点にある、ということを痛感した。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 【書評】ナサニエル・ホーソ... | トップ | 【横書き】難波先生より »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

難波紘二先生」カテゴリの最新記事