【個と普遍】あるいは「具象と抽象」と言い換えても良い。
「古里の山に向かいていうことなし古里の山はありがたきかな」
子供時代を過ごした渋民村の山々をみて、啄木はこう詠った。目の前には昔と変わることのない山があった。
「往く川の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず。」
鴨長明[方丈記」の出だしである。同じ川が流れているが、その水は刻々と入れ替わっている。だから「同じ川」ではない。
本当は、「往く川の水は変わらずして、しかも元の水にあらず」とした方がよかった、と思う。
古代ギリシアの哲学者ヘラクレイトスも同じことを述べている。
「人は同じ川に二度と足を踏み入れることはできない」
啄木が見た山は、山容は同じでも、生えている木々は入れ替わっている。だから昔の山と同じ山ではない。同じと見るのは「文学的真実」なのである。そこが文学と科学の違いである。
アリストテレスも「個人は存在するが、人間は抽象名詞であり、それ自体としては存在しない」とプラトンの「イデア論」を批判している。
ゲーテは、「人類? そんなものは抽象名詞だ。昔から存在していたのは個人だけだ」と述べている。(「ゲーテ格言集」)
肝臓も心臓も腎臓も、胃腸も、いったん出来上がったら、同じ場所にあって、かたちを変えることなく働いている。山や川が変わらないのと同じだ。だからそれらを構成する細胞や器官骨格とよばれる硬い線維性のフレームも、入れ替わらないものとつい思いがちだ。
実際に、50年前の医学では「血液細胞を例外として、臓器の細胞は<新陳代謝>により外から物質を取り入れ、それを分解してエネルギーとして利用し、いつまでも生きている。だから哺乳類では臓器の細胞分裂が起こらないので、再生はない」と教えていた。
臓器それぞれに固有の幹細胞があり、その分裂により絶えず細胞が置き換えられていること(腸管上皮では2日で入れ替わる)、もし幹細胞が不足すれば骨髄から末梢血を介して、臓器に「多潜能幹細胞」が補給されること。従ってかたちは同じ肝臓でも、中味の細胞などは日々に入れ替わっていること。こうしたことが次第に明らかになってきたのが、過去30年のことだ。まだこうした認識は医師の世界でも一般化していない。
要するに「肝臓」も「腎臓」も抽象名詞なのである。同じ個人のものでも、30歳の時のものと40歳の時のものは、別ものなのである。細胞はすっかり入れ替わっているのに、同じかたちをしていて、同じ場所にあるから「変わらない」と思っているだけだ。
臓器移植はこの点で、非常に興味深い観察の機会を与えてくれる。
腎移植後14年目に発生した腎細胞がんが、ドナーDNAではなくレシピエントのDNAを持っていたという報告は、「恐らく移植後10年程度でドナー細胞がレシピエント細胞に置き換えられる」ことを意味している。
「移植された臓器は何年したら、レシピエントの細胞に置き換わるのか?」
こんな質問を移植医にしても回答がない。そんな可能性などだれも考えたことがないからだ。
疑問を抱かなければ、研究も行われない。
前に「ミクロスコピア」で「臓器の寿命と個体の寿命」というタイトルで、「30歳の人に80歳の人の腎臓を移植しても、移植された腎臓は40年以上生きる場合があるという不思議さ」を論じたが、移植された腎臓がレシピエントの細胞に置き換わるのなら、何の不思議もない。
マルクスは「問題を提起することは、すでに回答を半ばえているといことだ」と論じたが、そのとおりだと思う。
「外形は同じなのに中味がすっかり変わっている」のである。
この問題が深刻なのは、認知症の場合である。脳死の場合である。いずれも昨日(あるいは去年)と変わらない外形をしているので、「中味がすっかり変わっている」ことが〔家族に)受け入れられないのである。
「脳が同じ」であることが、人格の統一性と持続性の前提である。その脳が変質したのが認知症であり、破壊されたのが脳死である。だから認知症では別人格になるし、脳死では人格そのものがなくなる。しかしこうした認識も、まだひろく行きわたったものではない。
「古里の山に向かいていうことなし古里の山はありがたきかな」
子供時代を過ごした渋民村の山々をみて、啄木はこう詠った。目の前には昔と変わることのない山があった。
「往く川の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず。」
鴨長明[方丈記」の出だしである。同じ川が流れているが、その水は刻々と入れ替わっている。だから「同じ川」ではない。
本当は、「往く川の水は変わらずして、しかも元の水にあらず」とした方がよかった、と思う。
古代ギリシアの哲学者ヘラクレイトスも同じことを述べている。
「人は同じ川に二度と足を踏み入れることはできない」
啄木が見た山は、山容は同じでも、生えている木々は入れ替わっている。だから昔の山と同じ山ではない。同じと見るのは「文学的真実」なのである。そこが文学と科学の違いである。
アリストテレスも「個人は存在するが、人間は抽象名詞であり、それ自体としては存在しない」とプラトンの「イデア論」を批判している。
ゲーテは、「人類? そんなものは抽象名詞だ。昔から存在していたのは個人だけだ」と述べている。(「ゲーテ格言集」)
肝臓も心臓も腎臓も、胃腸も、いったん出来上がったら、同じ場所にあって、かたちを変えることなく働いている。山や川が変わらないのと同じだ。だからそれらを構成する細胞や器官骨格とよばれる硬い線維性のフレームも、入れ替わらないものとつい思いがちだ。
実際に、50年前の医学では「血液細胞を例外として、臓器の細胞は<新陳代謝>により外から物質を取り入れ、それを分解してエネルギーとして利用し、いつまでも生きている。だから哺乳類では臓器の細胞分裂が起こらないので、再生はない」と教えていた。
臓器それぞれに固有の幹細胞があり、その分裂により絶えず細胞が置き換えられていること(腸管上皮では2日で入れ替わる)、もし幹細胞が不足すれば骨髄から末梢血を介して、臓器に「多潜能幹細胞」が補給されること。従ってかたちは同じ肝臓でも、中味の細胞などは日々に入れ替わっていること。こうしたことが次第に明らかになってきたのが、過去30年のことだ。まだこうした認識は医師の世界でも一般化していない。
要するに「肝臓」も「腎臓」も抽象名詞なのである。同じ個人のものでも、30歳の時のものと40歳の時のものは、別ものなのである。細胞はすっかり入れ替わっているのに、同じかたちをしていて、同じ場所にあるから「変わらない」と思っているだけだ。
臓器移植はこの点で、非常に興味深い観察の機会を与えてくれる。
腎移植後14年目に発生した腎細胞がんが、ドナーDNAではなくレシピエントのDNAを持っていたという報告は、「恐らく移植後10年程度でドナー細胞がレシピエント細胞に置き換えられる」ことを意味している。
「移植された臓器は何年したら、レシピエントの細胞に置き換わるのか?」
こんな質問を移植医にしても回答がない。そんな可能性などだれも考えたことがないからだ。
疑問を抱かなければ、研究も行われない。
前に「ミクロスコピア」で「臓器の寿命と個体の寿命」というタイトルで、「30歳の人に80歳の人の腎臓を移植しても、移植された腎臓は40年以上生きる場合があるという不思議さ」を論じたが、移植された腎臓がレシピエントの細胞に置き換わるのなら、何の不思議もない。
マルクスは「問題を提起することは、すでに回答を半ばえているといことだ」と論じたが、そのとおりだと思う。
「外形は同じなのに中味がすっかり変わっている」のである。
この問題が深刻なのは、認知症の場合である。脳死の場合である。いずれも昨日(あるいは去年)と変わらない外形をしているので、「中味がすっかり変わっている」ことが〔家族に)受け入れられないのである。
「脳が同じ」であることが、人格の統一性と持続性の前提である。その脳が変質したのが認知症であり、破壊されたのが脳死である。だから認知症では別人格になるし、脳死では人格そのものがなくなる。しかしこうした認識も、まだひろく行きわたったものではない。
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