【韓国と朝鮮】北朝鮮というと朝鮮半島北部を指す地域名であり、同時にそこにある国家を指す。どういうわけかそれに対峙する南半分を「南朝鮮」とは呼ばず、「韓国」という。
両地域には次のような差がある。
韓国(ハンゴク) =面積 9.96万平方キロ、 人口 5,106.9万人(2015)
北朝鮮(ジョソン)=面積 12.27万平方キロ、 人口 2,516万人 (2015,推定)
両方を合わせても22万平方キロだから、日本の面積37.95万平方キロにはるかに及ばない。
英・独語で「朝鮮・韓国」をKoreaと呼ぶのは、10世紀に朝鮮半島を統一した「高麗」に由来するのは衆知の事実だが、どうしてこれが後に国名として採用されなかったのかがよくわからない。
「朝鮮」の名が史書に登場するのは、中国で秦が滅亡し前漢帝国が成立する際に「燕国」から指導者衛満に率いられて、朝鮮半島北西部に亡命した燕人たちが樹立した「衛氏朝鮮」からである。従って最初の「朝鮮」は、中国遼東半島基部の北側から渡来した民族による「征服王朝」である。燕は北方騎馬民族との交易を通じて、いち早く鉄器文化を知っていたようだ。
「衛氏朝鮮王国」は前108年、秦に代わって中国を統一した漢帝国(前漢)により首都「王険城(平壌)」を制圧されて滅亡した。その後、漢帝国は朝鮮半島北部を東海岸から西海岸まで横断する「楽浪四郡」を設置して、植民地として約400年間支配した(BC107〜AD313)。
習近平がトランプに「古代朝鮮は中国の一部だった」と語ったとメディアで報じられたが、おそらくこの史実を指しているのであろう。
衛氏朝鮮のあと朝鮮半島北部に台頭したのが、もとは鴨緑江の右岸の高地にいた遊牧民族「高句麗」である。前1世紀に台頭し、周辺の部族を併合して、版図を鴨緑江左岸・日本海沿岸まで拡げ、漢の楽浪四郡を次々と吸収した。高句麗の北朝鮮支配は約700年続いたが、668年、新羅と唐の連合軍に攻められ首都「平壌城」が陥落して滅亡した。
その後、約350年間の群雄割拠・戦国時代が続き、918年になって旧百済の西部から出た武将王建が、全国統一を成し遂げ「開城」を首都とする「高麗(コリョ)」を建国した。開城(ケソン)は今も工業団地としてある。
このコリョが宣教師の報告書などのラテン語によってCoreaと綴られ、後にイタリア語、スペイン語は同じスペルを採用した。フランス語ではCoree、英・独はKoreaとなっている。朝鮮の存在とその文化・風俗については、10世紀以前は西洋に知られなかったようだ。
Cf.1. 金学俊「西洋人の見た朝鮮」(山川出版社, 2014)
当時高麗は北の元、南の明という両国から圧力を受け、外交方針が定まっていなかった。この時期、明の方に将来性があると見た高麗の武将李成桂は、国王を廃位して自ら国王に即位した(1392)。これが「李王朝」の成立である。李王朝は明と冊封関係を結び、明の皇帝から「朝鮮」という国名を授けられ、明の年号と暦を使用することを強制された。
王朝としての「李氏朝鮮」は1910年の「日韓合邦」まで続いたが、日本が日清戦争(1894=M27)に勝つと朝鮮国王は突然、清に対する態度を改め1897(M30)年、独自の国号と元号を採用し、「王」の称号を「皇帝」に改めた。ここで初めて国号「大韓帝国」と元号「光武」が出現した。(厳密には1896、太陽暦採用の際に「一世一元」として新元号「建陽」を制定している。それを2年後に「光武」と変えたのだから、朝令暮改もいいところだ。)
この「大韓帝国」というのがよくわからない。朝鮮半島の歴史上、「韓国」という国は存在したことがないからだ。衛氏朝鮮の滅亡後、漢帝国が「楽浪四郡」を置き、前1世紀から約400年にわたり、朝鮮半島中央部を支配した頃、半島の南端に時計回りに辰韓、弁韓、馬韓という三つの韓が存在した。いわゆる「三韓」である。しかしこれらはいずれも小さな部族国家だ。
それなのに「大◯帝国」という壮大な名をつけるのに、なぜよりによって小国「韓」の名称を採用したのかがよくわからない。
Cf.2. 金両基「物語 韓国史」(中公新書, 1989/5)
在日で近代朝鮮史研究家の趙景達(千葉大文・教授)によれば、「大韓帝国」という国号の論理は以下のようになる。
<朝鮮という国号は李氏朝鮮の時に、明から与えられたものであり、帝国の国号にふさわしくない。帝国は複数の国家を統合して成立するべきものである。前1〜7世紀に朝鮮半島北半分を高句麗が支配した時代に南部には「三韓」(辰韓、弁韓、馬韓)があった。この三韓が高句麗、高麗時代を経て次第に拡大し、李氏朝鮮をへて現在に至る。それゆえ大韓帝国と称す。>
というもので、史実に対する認識が無茶苦茶である。
Cf.3. 趙景達「近代朝鮮と日本」(岩波新書, 2012/11)
高句麗王朝が滅亡した後、王建による高麗王国が立った(918)。この時には新羅も三韓も滅亡しており、朝鮮半島は統一国家となっていた。
武将李成桂の反逆により「高麗」を倒して成立した「李氏朝鮮」(1390)は、明との冊封体制に入ったため「朝鮮」という国号を与えられたのである。
初代の「大韓帝国皇帝」高宗は李成桂の子孫にほかならない。「大韓」という国号を採用したのは「大清」や「大日本」に対する対抗意識と見栄にほかならないだろう。
それにしては皇帝親政による「大韓帝国」の外交政策はいかにも稚拙だった。日露戦争の直前に「局外中立」を宣言し、日本軍によるソウル占領を招いているし、戦争が日本の勝利に終り「ポーツマス講和条約」が結ばれると、日本は帰す刀で「韓国保護条約」を結ばせている。これで外交権を失ったのに、1907年、オランダ・ハーグで開かれた「万国平和会議」に密使を送り、「韓国保護条約」の無効を訴えようとしたが、外交権がないとして参加を拒否されている。
この事件が直接の理由となって、高宗は退位に追いこまれ1907/7、最後の皇帝純宗が即位した。この皇帝は日本の統治政策を追認するだけの愚帝で、5年後の「日韓併合条約」調印と共にその役割を終えた。
Cf.4. 海野福寿「韓国併合」(岩波新書, 1995/5)
〔追記〕5/15のメルマガで「いまの韓国は無政府状態だ」と書いた。5/15夜の「朴前大統領、青瓦台資料なし…引き継ぎ資料を残していない」という「中央日報」のニュースには驚いた。
http://japanese.joins.com/article/090/229090.html?servcode=200§code=200&cloc=jp|main|top_news
<文在寅(ムン・ジェイン)大統領の青瓦台は以前の政府で進めた重要懸案などに関する資料を確認することができない状態だ。ある関係者はインタビューを通じて「本来前・現政権が引き継ぎチームを組織して室別にどこまで残すかを協議する」とし、「だが、今回は資料が一つも(残っているものが)ない」と明らかにした。>
<THAAD配備など重要な懸案に関連した資料は渡されていない>という。
これは朴槿恵にこれらの書類が公文書であり、それゆえ私人の「お友達」に、それらを見せたり渡したことが、違法として弾劾されたのだという認識がなかったことを意味している。
WIKIによると韓国にも「国立文書館」があるが、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%9F%93%E6%B0%91%E5%9B%BD%E5%9B%BD%E5%AE%B6%E8%A8%98%E9%8C%B2%E9%99%A2
どうもまともに機能していないようだ。
5/17「日経」は来日した韓国大統領特使の発言を伝えている。
<岸田文雄外相は17日、省内で韓国の文在寅(ムン・ジェイン)大統領の特使として訪日した文喜相(ムン・ヒサン)国会議員と会談した。文氏は従軍慰安婦問題の「最終的かつ不可逆的な解決」をうたった2015年末の日韓合意について「韓国国民の大多数が情緒的に受け入れられない雰囲気だ」と発言> したそうだ。
呉善花など帰化韓国人が、「情治国家」だとして韓国批判を展開しているが、まさにその通りの展開だ。
日露戦争が軍事的には日本の圧倒的勝利に終わった後、ポーツマス講和会議が開かれた、「勝った」としか知らされていない日本国民の多くは、賠償金のないこの講和条約を受けいれることができず、全国に講和条約反対の運動が起こった。東京では日比谷公園に集まった民衆が交番や警察署を焼き討ちする事態まで発生し、戒厳令が施行された。
あの時、日本政府は「国民の情緒」に従う道を採らなかった。なぜなら、日露戦争は戦闘の上では勝ったが、もう日本は国力の限界に達していたからだ。「これ以上戦えばロシアに負ける」。このことは当時の政府首脳部には明白だった。よってこれは国家の秘密として公表されなかった。だから民衆暴動が発生したのだ。
<国民の大多数が情緒的に受け入れられない雰囲気>だという理由で、すでに結ばれた「日韓合意」を破棄しようとする韓国は、歴史から何を学んでいるのだろうか?
「記事転載は事前にご連絡いただきますようお願いいたします」
両地域には次のような差がある。
韓国(ハンゴク) =面積 9.96万平方キロ、 人口 5,106.9万人(2015)
北朝鮮(ジョソン)=面積 12.27万平方キロ、 人口 2,516万人 (2015,推定)
両方を合わせても22万平方キロだから、日本の面積37.95万平方キロにはるかに及ばない。
英・独語で「朝鮮・韓国」をKoreaと呼ぶのは、10世紀に朝鮮半島を統一した「高麗」に由来するのは衆知の事実だが、どうしてこれが後に国名として採用されなかったのかがよくわからない。
「朝鮮」の名が史書に登場するのは、中国で秦が滅亡し前漢帝国が成立する際に「燕国」から指導者衛満に率いられて、朝鮮半島北西部に亡命した燕人たちが樹立した「衛氏朝鮮」からである。従って最初の「朝鮮」は、中国遼東半島基部の北側から渡来した民族による「征服王朝」である。燕は北方騎馬民族との交易を通じて、いち早く鉄器文化を知っていたようだ。
「衛氏朝鮮王国」は前108年、秦に代わって中国を統一した漢帝国(前漢)により首都「王険城(平壌)」を制圧されて滅亡した。その後、漢帝国は朝鮮半島北部を東海岸から西海岸まで横断する「楽浪四郡」を設置して、植民地として約400年間支配した(BC107〜AD313)。
習近平がトランプに「古代朝鮮は中国の一部だった」と語ったとメディアで報じられたが、おそらくこの史実を指しているのであろう。
衛氏朝鮮のあと朝鮮半島北部に台頭したのが、もとは鴨緑江の右岸の高地にいた遊牧民族「高句麗」である。前1世紀に台頭し、周辺の部族を併合して、版図を鴨緑江左岸・日本海沿岸まで拡げ、漢の楽浪四郡を次々と吸収した。高句麗の北朝鮮支配は約700年続いたが、668年、新羅と唐の連合軍に攻められ首都「平壌城」が陥落して滅亡した。
その後、約350年間の群雄割拠・戦国時代が続き、918年になって旧百済の西部から出た武将王建が、全国統一を成し遂げ「開城」を首都とする「高麗(コリョ)」を建国した。開城(ケソン)は今も工業団地としてある。
このコリョが宣教師の報告書などのラテン語によってCoreaと綴られ、後にイタリア語、スペイン語は同じスペルを採用した。フランス語ではCoree、英・独はKoreaとなっている。朝鮮の存在とその文化・風俗については、10世紀以前は西洋に知られなかったようだ。
Cf.1. 金学俊「西洋人の見た朝鮮」(山川出版社, 2014)
当時高麗は北の元、南の明という両国から圧力を受け、外交方針が定まっていなかった。この時期、明の方に将来性があると見た高麗の武将李成桂は、国王を廃位して自ら国王に即位した(1392)。これが「李王朝」の成立である。李王朝は明と冊封関係を結び、明の皇帝から「朝鮮」という国名を授けられ、明の年号と暦を使用することを強制された。
王朝としての「李氏朝鮮」は1910年の「日韓合邦」まで続いたが、日本が日清戦争(1894=M27)に勝つと朝鮮国王は突然、清に対する態度を改め1897(M30)年、独自の国号と元号を採用し、「王」の称号を「皇帝」に改めた。ここで初めて国号「大韓帝国」と元号「光武」が出現した。(厳密には1896、太陽暦採用の際に「一世一元」として新元号「建陽」を制定している。それを2年後に「光武」と変えたのだから、朝令暮改もいいところだ。)
この「大韓帝国」というのがよくわからない。朝鮮半島の歴史上、「韓国」という国は存在したことがないからだ。衛氏朝鮮の滅亡後、漢帝国が「楽浪四郡」を置き、前1世紀から約400年にわたり、朝鮮半島中央部を支配した頃、半島の南端に時計回りに辰韓、弁韓、馬韓という三つの韓が存在した。いわゆる「三韓」である。しかしこれらはいずれも小さな部族国家だ。
それなのに「大◯帝国」という壮大な名をつけるのに、なぜよりによって小国「韓」の名称を採用したのかがよくわからない。
Cf.2. 金両基「物語 韓国史」(中公新書, 1989/5)
在日で近代朝鮮史研究家の趙景達(千葉大文・教授)によれば、「大韓帝国」という国号の論理は以下のようになる。
<朝鮮という国号は李氏朝鮮の時に、明から与えられたものであり、帝国の国号にふさわしくない。帝国は複数の国家を統合して成立するべきものである。前1〜7世紀に朝鮮半島北半分を高句麗が支配した時代に南部には「三韓」(辰韓、弁韓、馬韓)があった。この三韓が高句麗、高麗時代を経て次第に拡大し、李氏朝鮮をへて現在に至る。それゆえ大韓帝国と称す。>
というもので、史実に対する認識が無茶苦茶である。
Cf.3. 趙景達「近代朝鮮と日本」(岩波新書, 2012/11)
高句麗王朝が滅亡した後、王建による高麗王国が立った(918)。この時には新羅も三韓も滅亡しており、朝鮮半島は統一国家となっていた。
武将李成桂の反逆により「高麗」を倒して成立した「李氏朝鮮」(1390)は、明との冊封体制に入ったため「朝鮮」という国号を与えられたのである。
初代の「大韓帝国皇帝」高宗は李成桂の子孫にほかならない。「大韓」という国号を採用したのは「大清」や「大日本」に対する対抗意識と見栄にほかならないだろう。
それにしては皇帝親政による「大韓帝国」の外交政策はいかにも稚拙だった。日露戦争の直前に「局外中立」を宣言し、日本軍によるソウル占領を招いているし、戦争が日本の勝利に終り「ポーツマス講和条約」が結ばれると、日本は帰す刀で「韓国保護条約」を結ばせている。これで外交権を失ったのに、1907年、オランダ・ハーグで開かれた「万国平和会議」に密使を送り、「韓国保護条約」の無効を訴えようとしたが、外交権がないとして参加を拒否されている。
この事件が直接の理由となって、高宗は退位に追いこまれ1907/7、最後の皇帝純宗が即位した。この皇帝は日本の統治政策を追認するだけの愚帝で、5年後の「日韓併合条約」調印と共にその役割を終えた。
Cf.4. 海野福寿「韓国併合」(岩波新書, 1995/5)
〔追記〕5/15のメルマガで「いまの韓国は無政府状態だ」と書いた。5/15夜の「朴前大統領、青瓦台資料なし…引き継ぎ資料を残していない」という「中央日報」のニュースには驚いた。
http://japanese.joins.com/article/090/229090.html?servcode=200§code=200&cloc=jp|main|top_news
<文在寅(ムン・ジェイン)大統領の青瓦台は以前の政府で進めた重要懸案などに関する資料を確認することができない状態だ。ある関係者はインタビューを通じて「本来前・現政権が引き継ぎチームを組織して室別にどこまで残すかを協議する」とし、「だが、今回は資料が一つも(残っているものが)ない」と明らかにした。>
<THAAD配備など重要な懸案に関連した資料は渡されていない>という。
これは朴槿恵にこれらの書類が公文書であり、それゆえ私人の「お友達」に、それらを見せたり渡したことが、違法として弾劾されたのだという認識がなかったことを意味している。
WIKIによると韓国にも「国立文書館」があるが、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%9F%93%E6%B0%91%E5%9B%BD%E5%9B%BD%E5%AE%B6%E8%A8%98%E9%8C%B2%E9%99%A2
どうもまともに機能していないようだ。
5/17「日経」は来日した韓国大統領特使の発言を伝えている。
<岸田文雄外相は17日、省内で韓国の文在寅(ムン・ジェイン)大統領の特使として訪日した文喜相(ムン・ヒサン)国会議員と会談した。文氏は従軍慰安婦問題の「最終的かつ不可逆的な解決」をうたった2015年末の日韓合意について「韓国国民の大多数が情緒的に受け入れられない雰囲気だ」と発言> したそうだ。
呉善花など帰化韓国人が、「情治国家」だとして韓国批判を展開しているが、まさにその通りの展開だ。
日露戦争が軍事的には日本の圧倒的勝利に終わった後、ポーツマス講和会議が開かれた、「勝った」としか知らされていない日本国民の多くは、賠償金のないこの講和条約を受けいれることができず、全国に講和条約反対の運動が起こった。東京では日比谷公園に集まった民衆が交番や警察署を焼き討ちする事態まで発生し、戒厳令が施行された。
あの時、日本政府は「国民の情緒」に従う道を採らなかった。なぜなら、日露戦争は戦闘の上では勝ったが、もう日本は国力の限界に達していたからだ。「これ以上戦えばロシアに負ける」。このことは当時の政府首脳部には明白だった。よってこれは国家の秘密として公表されなかった。だから民衆暴動が発生したのだ。
<国民の大多数が情緒的に受け入れられない雰囲気>だという理由で、すでに結ばれた「日韓合意」を破棄しようとする韓国は、歴史から何を学んでいるのだろうか?
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