ある宇和島市議会議員のトレーニング

阪神大震災支援で動きの悪い体に気づいてトレーニングを始め、いつのまにかトライアスリートになってしまった私。

【ITO, Hirobumi】難波先生より

2014-01-27 12:33:12 | 難波紘二先生
【ITO, Hirobumi】1/23「毎日」のコラム「木語」が安重根と伊藤博文を論じている。
同じテーマで1/22付「産経抄」が次のように論じている。
 http://sankei.jp.msn.com/politics/news/140122/plc14012203160002-n2.htm
 毎日「木語」のコラムと比較すると違いがよくわかる。「産経」はネットで読めるが、「毎日」は登録しないと読めないから、画像を添付しよう。(添付1:「毎日:木語」)=画像はクリックして黒枠のコーナーをドラグすれば拡大できます。

 <いまさら(伊藤を)たたえる国はないだろう。この(安重根)論争に深入りするとまた孤立する。>とこの筆者は主張している。
 では実際に英語で伊藤はどう記載されているのか。
「Webster 人名事典」にはこうある。
 <Ito, Hirobumi(1841-1909):日本の政治家。留学生として初期に欧州に留学。西洋的理念の強烈な支持者。米国訪問(1871)後に、鋳貨制度について報告。内務卿(1878-82)。首相(1885-88, 1892-96, 1898, 1900-01)。明治憲法草案の執筆(1889成立)並びに国会の開設 (1890)に主たる功がある。政党「立憲政友会」を創設し党首を務める(1900-03)。日清戦争(1894-95)を成功裏に遂行後に公爵となる (1895)。日露戦争(1904-05)中は天皇の特別顧問となる。朝鮮統監府長官(1905-09)。朝鮮の愛国主義者により暗殺された。>
 暗殺者の名が書いてないくらいだから、安重根はもちろん辞書項目にない。
 アメリカの大学生用辞書「College Dictionary」はどうか。
 <Ito, Hirobumi公爵(1841-1909):日本の政治家>とある。
 ビスマルクは、同じ項目に1)ドイツの政治家と2)ノース・ダコタ州の首都とが載っている。政治家ビスマルクについては「近代ドイツ帝国最初の宰相」としか載っていない。
 「ベルツの日記」で貴重な明治資料を残した元東大医学部教授エドウィン・フォン・ベルツは、1909年10月26日の伊藤遭難当時、帰国して養生がてらオーストリア各地を旅行していた。ベルツの10月29日の日記にこうある。(添付2)(資料= E. ベルツ「ベルツ日本再訪:草津・ビューティハイム遺稿/ 日記篇」, 東海大学出版会, 2000)

 上掲の日記訳者は原文に「暗殺者たち」と複数になっていることを訳注で問題にしているが、他に3名のピストルを所持した同士が共犯としてロシア警察に逮捕されている。場所がハルピン駅でなかったので報道が遅れたが、27日のオーストリアの新聞は正確に報じている。「無二の友を失った」とあり故人を悼むこころと二人の交流の長さ深さが読みとれる。

 「大日本人名辞典」(講談社学術文庫)は伊藤博文に2ページを費やしている。事件発生とその後の国内の反応及び明治天皇の勅語が載っている。
 「…偶々韓人の狙撃するところとなりて薨ず、享年69。この日従一位に叙せられる。凶報ひとたび本国に伝わるや、上下みな痛悼(つうとう)す。天皇特使を遣わしこれを弔い、尋ねてるいし(弔詞)を賜う。曰く『志を立てて旧勤王王政の復古を唱え、難を排して邁往(進)宏猷(こうゆう=大計画を建てること)し、維新に賛(成)す。憲法を創草して刊(削)らざるの論を修(おさ)め、韓国を指導して渝(変わる)なきの盟を締すび、股肱(ここう)これより柱石(に)これ任じ、忠貞君に報じて公正事に当たり、勲績(くんせき)倍々(ますます)顕れて、望み一生に(たか)し、忽ち訃音に接す。なんぞ軫悼(しんとう)にたえん。ここに侍臣を遣わし賻(ふ)を齋(もよお)し、もって弔慰せしむ』と。」

 天皇と政府の信任が厚かったことは、26日にさかのぼって「従一位」の位(これまで岩倉具視と旧長州藩主毛利元徳しかもらっていない)が授けられ、公爵を養子の長男博邦が継ぐに際して、庶子で養子の形式にしていた次男文吉(妾の子)を男爵に叙していることからもわかる。
 葬儀はもちろん国葬で、その経費は今日のお金で「約5億9000万円」と下記伊藤の研究書は記している。(p.575) 「ベルツの日記」によると、岩倉はプロシアから伊藤が憲法の資料を持って帰国するのを一日千秋の想いで待ちつつ死んだ。憲法を制定し、内閣制度を発足させ、4度も内閣を組織し、さらに初の政党を結成した伊藤こそ、近代日本の設計者であろう。
 歴史はしばしば偶然により左右される。もし幕末に長州藩からロンドンに密行した5人の若者がいなくて、そのうちの二人つまり伊藤博文と井上馨が「馬関戦争」と「薩英戦争」(1863)の報に接して、留学を中断し攘夷を止めさせるために帰国していなかったら、その後の日本はどうなっていただろうか。
 恐らく列強の植民地になっていただろう。北海道はロシア、九州は英国、房総半島はフランス、新潟はドイツか……
 ロンドン大学ユニヴァーシティ・カレッジに残る学籍名簿に、5人の聴講科目名が記載されているそうで、数学、数理物理学、地質・鉱物学、土木工学など理系科目を学習しているそうだ。伊藤の合理主義は自然科学の素養に由来するものだ。

 「木語」氏が依拠している市川正明の原書房版の本は、これであろう。1979年のものだ。
 http://www.amazon.co.jp/s/ref=nb_sb_noss?__mk_ja_JP=カタカナ&url=search-alias%3Dstripbooks&field-keywords=市川正明%E3%80%80安重根
 やはり、伊藤之雄「伊藤博文:近代日本を創った男」(講談社, 2009)と佐々木春隆の大著「韓国独立運動の研究」(国書刊行会, 2012)程度は必読文献だろう。
 安重根に「自叙伝」があることは寡聞にして知らない。ひょっとして、これか?
http://www.amazon.co.jp/gp/product/images/4903036146/ref=dp_image_0?ie=UTF8&n=465392&s=books 
 安重根はカトリック信者だった。「天帝」を信じていたので、在日のクリスチャンが支援するのか?
 「木語」の問題点は「添付1」に①~④で示した箇所について以下に記す。
 ①の問題点は「大義」があれば「テロリストではなく、義士だ」と主張している点にある。
大義とはなんぞや? 浅沼稲次郎を刺殺した山口二矢(おとや)も義士か?
 大石良雄は浅野内内匠頭の家来で藩の家老だった。殿中での刃傷に対する刑罰として、内匠頭は切腹、播州赤穂藩は取り潰しになった。だから家臣団に吉良上野に対する遺恨も強かった。しかし処罰したのは幕府である。復讐するのなら幕府大老か将軍綱吉を暗殺するのが筋だろう。
 旧浅野家からは関白の近衛家を通じて「御家再興」の嘆願が出ていた。幕府がこれを認めていたらもう吉良への仇討ちは不可能であった。
 彼らを忠義の士としたのは、江戸期の「仮名手本忠臣蔵」ではない。福沢諭吉の西洋的啓蒙主義を軟弱だと批判して登場した明治中期の陸羯南の同志、新聞記者の福本日南による「元禄快挙録(全3冊)」(岩波文庫)である。その後出た大衆小説や映画は、みなこの本を下敷きにしている。福本ははじめ陸と新聞「日本」、雑誌「日本及び日本人」を創刊した。次いで国家主義団体「玄洋社」系の「九州日報」社長となり、1908年「元禄快挙録」の連載を始めた。
 しかし「忠臣蔵」という名称を人口に膾炙せしめたのは、劇作家真山青果による大作「元禄忠臣蔵」(1941)であり、それをすぐに溝口健二が同名の映画(二部作)にしたからである。事件が起こった時は「元禄時代」、関ヶ原の合戦から100年経ち「士道」も地に墜ちていた。
 「元禄忠臣蔵」には、将軍綱吉の養子、甲府宰相綱豊が学問の師新井白石と相談し、赤穂浪士に仇討ちをさせ、たるんだ世情に活を入れるために、浅野家復興を認めず、大石に本懐を遂げさせることで意見一致する一幕が挿入されている。宝永6(1709)年1月綱吉が死に、綱豊改め家宣が第六代将軍になると、白石は「大赦」を実施させ、この時に赤穂浪士の遺族で「親戚預け」になっていたものを赦免している。(新井白石「折りたく柴の記」, 岩波文庫)
青果の戯曲は限りなく真実に近いと思われる。真山は「赤穂義士は実は為政者によりつくられた義士ではないか?」と問うているのだが、そこまで気づく観客は少ない。
 
 ロシアのテロリスト集団「社会革命党(エスエル)」は二重スパイ・アゼフとサヴィンコフ(1879-1925)に指揮されて、内務大臣プレーヴェ、摂政セルゲイ大公暗殺(1904)、ペテルブルグ市長、軍検事総長などを暗殺した。ロシア皇帝ニコライ二世の暗殺をも計画していた(1908/10暗殺未遂)。その一世代前のテロリスト集団「ナロードニキ」は皇帝アレクサンドル二世の暗殺に成功している。彼らが作り出した社会不安は、1914年、ケレンスキーの「二月革命」、レーニン=トロツキーに指導されたボルシェビキの「十月革命」に利用され、以後テロリストの多くは反革命「白軍」に投じた。
 安重根はロシア・テロリスト活動に刺激されたし、今日のイスラム・テロ組織はサヴィンコフ自叙伝を研究しているはずだ。(サヴィンコフ「テロリスト群像」,岩波現代新書)

 ②の問題点は、事実誤認にある。伊藤はロシア蔵相に会うために、満州の長春からハルピンに向かった。このため長春で護衛の日本憲兵隊を帰し、ハルピンでの護衛はロシア側に委ねたから事件が発生した。駅頭に出迎えたココツォフ蔵相と握手した直後に凶弾に倒れた。安重根他3名の国籍は(朝鮮併合以前だから)朝鮮である。
 よって同蔵相は国際法とポーツマス条約に基づいて、すでに司法権を日本に委ねていた朝鮮に直接身柄を引き渡さずに、日本側に引き渡した。日本でも「日米安保条約」の地位協定に基づいて、日本国内で犯罪を犯した米兵が米政府に引き渡される例は多い。
 ③の問題点「伊藤博文の罪状」:「閔妃暗殺」(1895)は朝鮮王室とその政府を牛耳っている、閔妃と閔氏一族を排除するために、三浦梧楼駐朝公使(予備陸軍中将)が閔妃の天敵大院君(王の実父)、改革派官僚金宏集などと気脈を通じ、「熊本国権党」の壮士たちに実行させたもので、当時首相だった伊藤は関与していない。(もちろん政治責任はある。)事件に関しては暗殺に加わった(後の「熊本日日」社長)小早川秀雄の詳細な手記がある。(「閔后暗殺」、『世界ノンフィクション全集37』, 筑摩書房, 1962)
 次ぎに、朝鮮の「皇帝廃位」は伊藤死後のことだ。「ハーグ密使派遣」事件の責任をとって高宗皇帝が譲位し(1907)、第三次日韓協定により朝鮮はほぼ主権を失った。皇帝制度が廃止されるのは朝鮮併合後の1910年8月で、安重根による伊藤暗殺から10ヶ月後だ。

 ④安重根の評価:朝鮮独立運動に一生を捧げた朝鮮人活動家の手記を読むと、評価は極めて低い。「東学史」(東洋文庫)を書いた呉知泳は「東学軍を弾圧したのは官側に立つ民兵<民包軍>で、官兵、日本兵を助けた。その民包軍の首領が安泰峻と息子の安重根だった」と書いている。
 李承晩の南部朝鮮だけの独立方針に反対して、統一国家形成を主張して暗殺された金九の自叙伝「白凡逸志」(東洋文庫)では、伊藤の暗殺が「ウンチアン」という朝鮮人によって行われたという新聞記事を読んだが、誰のことかわからなかった。翌日の新聞で幼名が安応七(アンウンチル)と知り、「ああ昔会ったことのある安重根かとわかった」と何の感慨も見せずに書いている(p.167)。
 「当時の評価と今の評価は違う」という反論はあるだろう。が、それなら東アジアにおける二つの全体主義国家、中国帝国と北朝鮮が旧ソ連のように破綻・崩壊し、10ヶ国ぐらいに分裂し、朝鮮半島に真の統一民主主義国家が成立したら、安重根に対する今の評価もまた変わるだろう。「正しい歴史認識」とは未来予測を内包しなければいけない。
 この程度の論評を載せるようでは、値上げと引き換えに「毎日」が約束した1月からの「紙面刷新」も疑わしい。


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