ある宇和島市議会議員のトレーニング

阪神大震災支援で動きの悪い体に気づいてトレーニングを始め、いつのまにかトライアスリートになってしまった私。

【閔妃像その後】難波先生より

2017-08-29 11:34:29 | 難波紘二先生
【閔妃像その後】8/15韓国「中央日報」が<明成皇后と推定される肖像画を発見>と騒いでいる。これが閔妃の肖像画だというのだから呆れる。(下右画像)
http://japanese.joins.com/photo/697/1/176697.html?servcode=400§code=400&cloc=jplarticlelpicture
 念のためにこれまでの閔妃写真と今回の「明成皇后肖像」なるものを比較して掲げる。
(写真1:閔妃写真)            (写真2:明成皇后=閔妃肖像画?)

(写真3.厳妃像、1900年頃撮影)
 写真2に見られる、前から見て鼻の孔が見え、鼻梁が平たく、眉毛が半円状になっており、下顎部がふっくらしているという解剖学的特徴は、写真3に似ている。
 朝鮮には芸妓の源氏名を例外として、女性に名前がなかった。「厳妃」というのは王室の厨房で働いていた姓が巌(オム)という宮女で、閔妃殺害後に高宗(閔妃の夫)の寵愛を受け、事実上の王妃となり高宗の第三子(後の英親王)を生んだ。英親王はいわば妾の子である。(写真出典=金学俊「西洋人の見た朝鮮」山川出版、p.344)
 「馬子にも衣装」という。写真2は厨房で働いていた巌氏であり気品がないが、写真3は王妃の衣装をまとい、髪を飾ったもので印象がすっかり変わっている。しかし顔の解剖学は、今の美容成形大国の韓国と違い、変わらない。私は「明政皇后肖像」の正体はこの厳妃だと思う。

 「明成皇后」というのは、朝鮮国王「高祖」の妃「閔妃」(1851-1895)のことだ。皇后というのは「皇帝の妃」にしか許されない称号で、日清戦争の結果1895年に朝鮮が清国から独立しした後、国号を「大韓帝国」と改め、時の国王高祖が「皇帝」と称したのが1897年のことだ。しかし閔妃はその2年前に日本と開化派朝鮮人により虐殺されている。従って閔妃が「皇后」であった歴史的事実はない。
 閔妃は、清国政治の実権を1881年から握った西太后(1835-1908)の真似をして、朝鮮の国政を閔妃一族で牛耳ろうとした。西太后と同様に国を滅ぼした悪女だ。死人の閔妃に追贈して「明成皇后」と呼ぶのだから、あの国の「歴史認識」はどうもおめでたい。
(当時の朝鮮の宗主国は清であり、清の動向は朝鮮のモデルになっていたのに、清国史と比較して近代朝鮮史を論じる学者が朝鮮にも日本にも少ないのは残念だ。)
 
 この肖像は、どう見ても気品のないせいぜい中流階級の婦人像だ。しかも、<匿名を求めたある美術専攻教授は「韓服に対する理解度が落ちるという点を見ると、画家は韓国人でなく日本人である確率が非常に高い」とし「肖像画の顔の形も日本人と似ている」と分析した。近代史専攻教授は「服装や容貌を見ると、王妃の肖像画というにはあまりにもみすぼらしい」とし、王妃の肖像画でない可能性を提起した。>と「中央日報」記事にある。
 この証言も肖像画が厨房の料理女、後の巌妃を描いたものだという傍証になるだろう。

 8月15日を韓国では「光復節」と呼んでいる。日本が負けて、李氏朝鮮の輝きが戻って来たという意味だ。ならば何であの時、「朝鮮王朝」復活をしなかったのだろうかと思う。(次項で述べる「上海臨時政府・憲法」には、「第八条 大韓民国は皇室を優待する」があった。)1910年の「日韓併合」後、李氏王族は「公族」として、皇族扱いでみな東京にいた。その一人を帰国させて英国みたいな「象徴王政ないし皇政」を復活させようと思えばできたはずだ。出来なかったくせに、光復節だの「明成皇后」だのと、夢物語を語るのはやめてほしいものだ。
 韓国がこの史実誤認と空想と現実の混同を自覚しない限り、「歴史認識」問題はいつまでも尾を引くだろう。イサベラ・バードなどが撮影したネガを徹底的に調べれば、加工前の閔妃肖像写真など簡単に見つかるだろうと私は思っている。まあ、閔妃についての寝言は正真正銘の閔妃の写真を発見してからのことにしてもらいたいものだ。

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