【静かなる決闘】かつて日本の新聞が「志」を持っていた時代があった。
1950年代、日本の輸血事業の主力は民営の「ブラッド・バンク」だった。買血により集めた血液を商品として病院に提供していたのである。きっかけは1948年に起きた東大分院での「枕元輸血」(ベッドサイドで献血者から患者に輸血)により、患者が梅毒に感染したという事件である。
http://www.kigs.jp/db/history.php?nid=2567&PHPSESSID=8ab6d96e143c47cdec3a2f9f7
この事件にヒントをえて製作されたのが、黒澤明「静かなる決闘」(1949)だ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/静かなる決闘
この時、日本における「輸血システム」の確立に乗り出したGHQに応えて、旧「七三一部隊」の関係者を組織し、「ミドリ十字」社を立ち上げ、商業ベースでの輸血と血液製剤事業に乗り出したのが内藤良一である。
「エイズ薬害」事件の臨床側責任者安部英は、ヨーロッパ留学から戻った年、1958年、内藤をミドリ十字東京支社に訪ね、血友病治療への協力を乞うた。ミドリ十字は、すでに血漿分画から抗凝固因子「第Ⅷ因子」を抽出することに成功していた。内藤はすぐさま全面的協力を約束した。以後二人の深い関係が始まった。
ミドリ十字のバックがあったから、安部は帝京大学の内科教授になれたし、臨床血液学会の会長にもなれた。血液凝固研究において、日本のリーダーになれたのである。
まるでどこかの大学の腎移植教授と製薬会社の関係に類似している。
1980年、ロサンゼルスでエイズが発生したとき、日本の生血漿と血漿製剤はほとんどが米国からの輸入で、その総量は血漿換算で年間約1900トンに及んでいた。うち60%をミドリ十字が扱っていた。学会と厚労省に深く食い入っていたミドリ十字は、「非加熱凝固因子」の安全性を言いたてた。「加熱製剤の国内生産には時間がかかる」とも言った。エイズ研究班長も安部も同じことを言った。
この「産官学」のトライアングルが「エイズ薬害事件」の根源である。
話がそれたが、1964年3月、ライシャワー駐日米国大使が暴漢に刺され、虎の門病院で手当を受け、九死に一生をえた。この時に輸血に使用された保存血は「冨士臓器製薬」のものである。供給源は山谷の常習的売血者に由来するものだ。大使は40日後に「血清肝炎」を発症した。(ライシャワーはその後、肝硬変となり1990年に死去した。)
この頃、「黄色い血」という言葉が流行った。命名したのは日赤血液センターの村上省三だが流行らせたのは、前に取りあげた本田靖春が担当した「読売」の連載記事「黄色い血の恐怖」である。連載は1962年11月にスタートしている。東京山谷や大阪釜ヶ崎における売血者の実態を調査したのは、早稲田大の木村や桃山学院大学の青木など「日赤献血学生連盟」の学生たちだった。
当時はまだ「200cc採血」の時代で、学生たちの調査によれば、常習的売血者は1回200ccの買血では食っていけず、場所を変えて1日に2本、週に8~10本、月に8リットルも売るものが珍しくなかったという。骨髄の造血能力が追いつかないから、赤血球とヘモグロビンが足りず、血は赤味を失い黄色っぽくなる。
仕事にあぶれたニコヨンが、当座のカネほしさに買血すると、今度は身体がきつくなって重労働ができなくなり、ついまた血を売る。月に8リットルの買血をして、得る報酬が2万円。(「朝日」記事だと、山谷で200ccが400円となっている。)1960年の小学校教師初任給の倍額である。稼いだ金は、飲み代、パチンコ、競馬、競輪にすぐ消える。常習的売血者になると、余命は3~10年。階段や路上で転倒したきり起きられなくなり、しょっちゅう救急車が出動した。
規則では採血は1人月1回と定められていたが、量に関する規程がなかったので、1回に採血瓶(200cc)2本を抜いた。「日本製薬」は王子と葛飾に工場をもっていて、それぞれ午前と午後にバスで山谷から売血者を工場に運んだ。職業的売血者は午前中は一方のバスに乗り、午後はまた別のバスに乗って、それぞれの工場で2本ずつ合計800ccの血を売り、3400円の金を手に入れた。
常習的売血者の血は薄くて全血輸血には適さない。日本製薬は買血により得た血液を原料にして、化粧用クリーム「プラズマ」を製造し、ひとビン1万円の超高級化粧品として販売していた。「人体の資源としての利用」は、すでにこの頃から始まっていたのである。同社は後に廃棄保存血を原料として「ガンマグロブリン製剤」を開発した。
その頃、医学生だった私は「黄色い血」のイメージが湧かず、「輸血してウイルスが感染して、肝炎が起こり、黄疸のために黄色くなるからか」と考えていた。
当時はC型肝炎という言葉もなく、「血清肝炎」とか「輸血後肝炎」と呼ばれていた。これも不思議で、「輸血や静脈注射が発明される、はるか前から、血清肝炎ウイルスは存在したに違いない。なら感染ルートなしに、どうやってこのウイルスは生き残って来たのか?保因者が死んで埋葬するなり、火葬すれば、それで終りではないか」と思った。
当時の病理学教室の先輩や教師たちは、だれもこの質問に満足のゆく回答を与えてくれなかった。
今なら、経胎盤感染とか母乳感染とかで説明がつくのだが、当時はそんな概念がなかった。
日赤の村上省三、早稲田の学生木村雅是の運動に共鳴して、「読売」で「黄色い血」の一大キャンペーンを張って、ついにミドリ十字に「買血事業」からの撤退を表明させたのが、社会部の本田雅春である。当時はこういう記者がいた。
Cf.池田房雄「増補版・白い血液」(潮出版社、1985)
本田は1971年、16年勤めた読売を中途退社した。当時の「正力松太郎独裁体制」に愛想を尽かしたようだ。1985年には大阪読売社会部長だった黒田清が、「渡辺恒雄独裁体制」に反撥して辞職している。
新聞社は政治部が幅をきかせ、政治部出身が社長になるとダメになる。本田の「体験的新聞紙学」(潮出版社, 1976)は 新聞社をダメにする最大の要因として「年功序列制と終身雇用制」をあげ、これを廃止することと、さらに「レポーター(通信員)」と「ライター(執筆者)」を区別することを提案している。後者は署名記事を書くことが要求される。欧米のメディアがとっくに実施していることだ。
ミドリ十字は、1966年4月「日赤が廃棄する保存血の譲渡」を条件に、採血(買血)事業から撤退し、「成分輸血」用の血液製剤事業に転換した。この間「読売」の本田記者は、1962年11月から66年6月まで、足かけ5年にわたり強烈な「買血制度廃止」のキャンペーンを張った。これで現在の用に輸血用血液はすべて「日赤血液センター」が扱い、商業血液銀行は廃業することになったのである。
この点で、本田靖春の功績は大きい。
広島市にも、大手町4丁目の国道2号線バイパスのバス停前に「血液銀行」があった。教養部の頃、活動家の学生が「今日はゲルピンだから売ってくる」と出掛けていたが、比較的早く廃業したように記憶している。
しかしミドリ十字が血液製剤に転換し、安部の血友病治療に「血液凝固因子」を提供し続けたことで、厚労省薬事課を巻き込んだ「産官学トライアングル」は維持され、ここに「エイズ薬害」の火種が残されたのである。
この夏、本田靖春の他の著作「警察(サツ)回り」(ちくま文庫)、「疵(きず):花形敬とその時代」(ちくま文庫)を読んで、彼が優れたストーリーテラーであることを再認識した。
花形敬は渋谷の伝説的な「愚連隊」のボスである。本田と同じ早稲田卒の宮学「万年東一」(角川文庫)にも、上野のレストランの用心棒をしていた力道山一派に拳銃を突きつけ、事務所に連行したという話が出てくるが、宮の本は「小説」。右翼に遠慮して児玉誉士夫が「児玉義男」になっている。
本田の作品は綿密な取材に基づくノンフィクションである。それも時系列的なレポートでなく、ヤマ場とどんでん返しが用意してある。
つまり映画「哀愁」における、ロンドンのウォータルー橋上での回想から、第一次大戦におけるロンドン空襲場面が始まるように、記述に構造が取り入れられている。これが本田のいう「ライティング」であろう。すべては事実だが、事実をどう叙述するかはライターの才能である。
1950年代、日本の輸血事業の主力は民営の「ブラッド・バンク」だった。買血により集めた血液を商品として病院に提供していたのである。きっかけは1948年に起きた東大分院での「枕元輸血」(ベッドサイドで献血者から患者に輸血)により、患者が梅毒に感染したという事件である。
http://www.kigs.jp/db/history.php?nid=2567&PHPSESSID=8ab6d96e143c47cdec3a2f9f7
この事件にヒントをえて製作されたのが、黒澤明「静かなる決闘」(1949)だ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/静かなる決闘
この時、日本における「輸血システム」の確立に乗り出したGHQに応えて、旧「七三一部隊」の関係者を組織し、「ミドリ十字」社を立ち上げ、商業ベースでの輸血と血液製剤事業に乗り出したのが内藤良一である。
「エイズ薬害」事件の臨床側責任者安部英は、ヨーロッパ留学から戻った年、1958年、内藤をミドリ十字東京支社に訪ね、血友病治療への協力を乞うた。ミドリ十字は、すでに血漿分画から抗凝固因子「第Ⅷ因子」を抽出することに成功していた。内藤はすぐさま全面的協力を約束した。以後二人の深い関係が始まった。
ミドリ十字のバックがあったから、安部は帝京大学の内科教授になれたし、臨床血液学会の会長にもなれた。血液凝固研究において、日本のリーダーになれたのである。
まるでどこかの大学の腎移植教授と製薬会社の関係に類似している。
1980年、ロサンゼルスでエイズが発生したとき、日本の生血漿と血漿製剤はほとんどが米国からの輸入で、その総量は血漿換算で年間約1900トンに及んでいた。うち60%をミドリ十字が扱っていた。学会と厚労省に深く食い入っていたミドリ十字は、「非加熱凝固因子」の安全性を言いたてた。「加熱製剤の国内生産には時間がかかる」とも言った。エイズ研究班長も安部も同じことを言った。
この「産官学」のトライアングルが「エイズ薬害事件」の根源である。
話がそれたが、1964年3月、ライシャワー駐日米国大使が暴漢に刺され、虎の門病院で手当を受け、九死に一生をえた。この時に輸血に使用された保存血は「冨士臓器製薬」のものである。供給源は山谷の常習的売血者に由来するものだ。大使は40日後に「血清肝炎」を発症した。(ライシャワーはその後、肝硬変となり1990年に死去した。)
この頃、「黄色い血」という言葉が流行った。命名したのは日赤血液センターの村上省三だが流行らせたのは、前に取りあげた本田靖春が担当した「読売」の連載記事「黄色い血の恐怖」である。連載は1962年11月にスタートしている。東京山谷や大阪釜ヶ崎における売血者の実態を調査したのは、早稲田大の木村や桃山学院大学の青木など「日赤献血学生連盟」の学生たちだった。
当時はまだ「200cc採血」の時代で、学生たちの調査によれば、常習的売血者は1回200ccの買血では食っていけず、場所を変えて1日に2本、週に8~10本、月に8リットルも売るものが珍しくなかったという。骨髄の造血能力が追いつかないから、赤血球とヘモグロビンが足りず、血は赤味を失い黄色っぽくなる。
仕事にあぶれたニコヨンが、当座のカネほしさに買血すると、今度は身体がきつくなって重労働ができなくなり、ついまた血を売る。月に8リットルの買血をして、得る報酬が2万円。(「朝日」記事だと、山谷で200ccが400円となっている。)1960年の小学校教師初任給の倍額である。稼いだ金は、飲み代、パチンコ、競馬、競輪にすぐ消える。常習的売血者になると、余命は3~10年。階段や路上で転倒したきり起きられなくなり、しょっちゅう救急車が出動した。
規則では採血は1人月1回と定められていたが、量に関する規程がなかったので、1回に採血瓶(200cc)2本を抜いた。「日本製薬」は王子と葛飾に工場をもっていて、それぞれ午前と午後にバスで山谷から売血者を工場に運んだ。職業的売血者は午前中は一方のバスに乗り、午後はまた別のバスに乗って、それぞれの工場で2本ずつ合計800ccの血を売り、3400円の金を手に入れた。
常習的売血者の血は薄くて全血輸血には適さない。日本製薬は買血により得た血液を原料にして、化粧用クリーム「プラズマ」を製造し、ひとビン1万円の超高級化粧品として販売していた。「人体の資源としての利用」は、すでにこの頃から始まっていたのである。同社は後に廃棄保存血を原料として「ガンマグロブリン製剤」を開発した。
その頃、医学生だった私は「黄色い血」のイメージが湧かず、「輸血してウイルスが感染して、肝炎が起こり、黄疸のために黄色くなるからか」と考えていた。
当時はC型肝炎という言葉もなく、「血清肝炎」とか「輸血後肝炎」と呼ばれていた。これも不思議で、「輸血や静脈注射が発明される、はるか前から、血清肝炎ウイルスは存在したに違いない。なら感染ルートなしに、どうやってこのウイルスは生き残って来たのか?保因者が死んで埋葬するなり、火葬すれば、それで終りではないか」と思った。
当時の病理学教室の先輩や教師たちは、だれもこの質問に満足のゆく回答を与えてくれなかった。
今なら、経胎盤感染とか母乳感染とかで説明がつくのだが、当時はそんな概念がなかった。
日赤の村上省三、早稲田の学生木村雅是の運動に共鳴して、「読売」で「黄色い血」の一大キャンペーンを張って、ついにミドリ十字に「買血事業」からの撤退を表明させたのが、社会部の本田雅春である。当時はこういう記者がいた。
Cf.池田房雄「増補版・白い血液」(潮出版社、1985)
本田は1971年、16年勤めた読売を中途退社した。当時の「正力松太郎独裁体制」に愛想を尽かしたようだ。1985年には大阪読売社会部長だった黒田清が、「渡辺恒雄独裁体制」に反撥して辞職している。
新聞社は政治部が幅をきかせ、政治部出身が社長になるとダメになる。本田の「体験的新聞紙学」(潮出版社, 1976)は 新聞社をダメにする最大の要因として「年功序列制と終身雇用制」をあげ、これを廃止することと、さらに「レポーター(通信員)」と「ライター(執筆者)」を区別することを提案している。後者は署名記事を書くことが要求される。欧米のメディアがとっくに実施していることだ。
ミドリ十字は、1966年4月「日赤が廃棄する保存血の譲渡」を条件に、採血(買血)事業から撤退し、「成分輸血」用の血液製剤事業に転換した。この間「読売」の本田記者は、1962年11月から66年6月まで、足かけ5年にわたり強烈な「買血制度廃止」のキャンペーンを張った。これで現在の用に輸血用血液はすべて「日赤血液センター」が扱い、商業血液銀行は廃業することになったのである。
この点で、本田靖春の功績は大きい。
広島市にも、大手町4丁目の国道2号線バイパスのバス停前に「血液銀行」があった。教養部の頃、活動家の学生が「今日はゲルピンだから売ってくる」と出掛けていたが、比較的早く廃業したように記憶している。
しかしミドリ十字が血液製剤に転換し、安部の血友病治療に「血液凝固因子」を提供し続けたことで、厚労省薬事課を巻き込んだ「産官学トライアングル」は維持され、ここに「エイズ薬害」の火種が残されたのである。
この夏、本田靖春の他の著作「警察(サツ)回り」(ちくま文庫)、「疵(きず):花形敬とその時代」(ちくま文庫)を読んで、彼が優れたストーリーテラーであることを再認識した。
花形敬は渋谷の伝説的な「愚連隊」のボスである。本田と同じ早稲田卒の宮学「万年東一」(角川文庫)にも、上野のレストランの用心棒をしていた力道山一派に拳銃を突きつけ、事務所に連行したという話が出てくるが、宮の本は「小説」。右翼に遠慮して児玉誉士夫が「児玉義男」になっている。
本田の作品は綿密な取材に基づくノンフィクションである。それも時系列的なレポートでなく、ヤマ場とどんでん返しが用意してある。
つまり映画「哀愁」における、ロンドンのウォータルー橋上での回想から、第一次大戦におけるロンドン空襲場面が始まるように、記述に構造が取り入れられている。これが本田のいう「ライティング」であろう。すべては事実だが、事実をどう叙述するかはライターの才能である。
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