【乞うご教示】
昔高校の教師から聞いたのか、何かの本で読んだのか記憶にないが、こういう話がある。
北海道のある村で農大の教授が農民相手に「土壌の改良」について講演した。終了後会場からの質問を受けつけたところ、「貴重なお話をありがとうございました。ところでお話のドジョウはシマドジョウのことでしょうか、それともクロドジョウのことでしょうか?」という質問があったという。専門用語を多く使ったので、聴衆の農民にわからず、土とドジョウを勘違いしたのだ。
この話の出典を探している。薄田泣菫「茶話(全三冊)」(冨山房文庫)の約800話中にあるかと思ったが載っていない。(この本も目次と索引の出来が悪い。)
外山滋比古「忘却の整理学」(筑摩書房)に「ITが発達してきたので、機械的記憶は必要性が薄れてきた。必要ならネットで探せばよい」と書いてあるが、ネットではこの程度しか見つからない。
http://www.tsuiteru.jp/study/article/088.html
どなたかこの話の出典について、ご教示いただければありがたく思います。
先日ある新聞の一面コラムが、初代陸軍軍医総監石黒忠悳(ただのり)の言葉として「人はよほど注意せねば地位が上がるにつれ才能が減じるものだ」という意味の文句を引いていた。岩波文庫に自叙伝「懐旧九十年」があるが、これも索引がなく該当箇所を見つけられない。
出典をご存知の方はこれもご教示願いたいと思う。友人のW君が「京府の吉川学長はいい人だが脇が甘い」とメールをくれたので、どこかで読んだこの言葉を思い出した。
石黒は弘化2(1845)年に生まれ幕府の「江戸医学所」に学び医師となった。病弱だったが昭和16(1941)年、97歳まで生き、90歳で回顧録を残した。
ただ、つくづく世の中が複雑系だと思わせるエピソードが見つかった。
明治12〜13年頃のある夕方、役所から戻った石黒の自宅に男が訪ねてきた。
名乗らないで「自分はフランスに留学したことがあり、有益なフランス書の翻訳に没頭しようと思っている。しかし付近の開業医に肺が悪いから仕事してはいけない、と言われているが、いかがなものがご診察願いたい」という。
一度目はざっと診察し、二度目にまた来させて丁寧に診察し「右肺が一部悪いが、勉学に支障はない」と言いわたしたところ、「自分は中江篤介というものです」と名乗り、大変喜んでビール数本をお礼として置いて帰った。その後、中江篤介訳「ルソー民約論」が世に出た。
以後20余年会うこともなかったが、明治35年頃「中江兆民が泉州堺で喉頭がんを病み、再起不能」という記事が新聞に載った。「さてはあの時の男か」と見舞いの手紙を送ったら、細字で長文の返書が来て当時の診察を謝し、「喉頭がんで再起不能のため生前にお会いすることは不可能でしょう。今書いているものを後日、博文舘から出し、お届けしますのでご一読下さい」とあった。ほどなくして兆民の著書「一年有半」が送られて来た。「自筆の書き入れがあり、私の文庫の貴重な一冊となっている」と石黒は書いている。
その後病勢が進まない(放置療法のせいか)ので、東京に戻ってきたので、二三度兆民宅を見舞い、(喉頭摘出で声が出せないので)筆談で話した、とある。死亡半月前に兆民が寄こした手紙も収録してある。
世の中は複雑系で、何がどう連なっているかわからない。まさか新聞紙条例違反で東京を追われた中江兆民と元陸軍軍医総監の間に交流があったとは知らなかった。兆民の弟子で、無政府主義者の幸徳秋水とも兆民の病室で会った可能性がある。
「記事転載は事前にご連絡いただきますようお願いいたします」
昔高校の教師から聞いたのか、何かの本で読んだのか記憶にないが、こういう話がある。
北海道のある村で農大の教授が農民相手に「土壌の改良」について講演した。終了後会場からの質問を受けつけたところ、「貴重なお話をありがとうございました。ところでお話のドジョウはシマドジョウのことでしょうか、それともクロドジョウのことでしょうか?」という質問があったという。専門用語を多く使ったので、聴衆の農民にわからず、土とドジョウを勘違いしたのだ。
この話の出典を探している。薄田泣菫「茶話(全三冊)」(冨山房文庫)の約800話中にあるかと思ったが載っていない。(この本も目次と索引の出来が悪い。)
外山滋比古「忘却の整理学」(筑摩書房)に「ITが発達してきたので、機械的記憶は必要性が薄れてきた。必要ならネットで探せばよい」と書いてあるが、ネットではこの程度しか見つからない。
http://www.tsuiteru.jp/study/article/088.html
どなたかこの話の出典について、ご教示いただければありがたく思います。
先日ある新聞の一面コラムが、初代陸軍軍医総監石黒忠悳(ただのり)の言葉として「人はよほど注意せねば地位が上がるにつれ才能が減じるものだ」という意味の文句を引いていた。岩波文庫に自叙伝「懐旧九十年」があるが、これも索引がなく該当箇所を見つけられない。
出典をご存知の方はこれもご教示願いたいと思う。友人のW君が「京府の吉川学長はいい人だが脇が甘い」とメールをくれたので、どこかで読んだこの言葉を思い出した。
石黒は弘化2(1845)年に生まれ幕府の「江戸医学所」に学び医師となった。病弱だったが昭和16(1941)年、97歳まで生き、90歳で回顧録を残した。
ただ、つくづく世の中が複雑系だと思わせるエピソードが見つかった。
明治12〜13年頃のある夕方、役所から戻った石黒の自宅に男が訪ねてきた。
名乗らないで「自分はフランスに留学したことがあり、有益なフランス書の翻訳に没頭しようと思っている。しかし付近の開業医に肺が悪いから仕事してはいけない、と言われているが、いかがなものがご診察願いたい」という。
一度目はざっと診察し、二度目にまた来させて丁寧に診察し「右肺が一部悪いが、勉学に支障はない」と言いわたしたところ、「自分は中江篤介というものです」と名乗り、大変喜んでビール数本をお礼として置いて帰った。その後、中江篤介訳「ルソー民約論」が世に出た。
以後20余年会うこともなかったが、明治35年頃「中江兆民が泉州堺で喉頭がんを病み、再起不能」という記事が新聞に載った。「さてはあの時の男か」と見舞いの手紙を送ったら、細字で長文の返書が来て当時の診察を謝し、「喉頭がんで再起不能のため生前にお会いすることは不可能でしょう。今書いているものを後日、博文舘から出し、お届けしますのでご一読下さい」とあった。ほどなくして兆民の著書「一年有半」が送られて来た。「自筆の書き入れがあり、私の文庫の貴重な一冊となっている」と石黒は書いている。
その後病勢が進まない(放置療法のせいか)ので、東京に戻ってきたので、二三度兆民宅を見舞い、(喉頭摘出で声が出せないので)筆談で話した、とある。死亡半月前に兆民が寄こした手紙も収録してある。
世の中は複雑系で、何がどう連なっているかわからない。まさか新聞紙条例違反で東京を追われた中江兆民と元陸軍軍医総監の間に交流があったとは知らなかった。兆民の弟子で、無政府主義者の幸徳秋水とも兆民の病室で会った可能性がある。
「記事転載は事前にご連絡いただきますようお願いいたします」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1884883
アクセスできましたら、コマ番号202(ページ番号二一四)に、第六期二十八(29ではなく28でした)があります。ページの始まりから、ちょうど該当部分があります。
文庫では番号割が異なるようですね。
手元にある「懐旧九十年」初版(岩波文庫, 1983)には、「第六期29:日比谷公園の設計」に問題の箇所が含まれていません。実の娘原もと子が解説を書いているので、問題の箇所がカットされた可能性もあります。参照された本の書誌学的情報を教えて下さい。
美味しんぼか何かの漫画か落語で読んだ記憶があったのですが出典は意外と見つからないものですね。
池上彰『わかりやすく 〈伝える〉 技術』
に載っているようですね。
石黒氏の名言は、懐舊九十年の兒玉源太郎氏について書かれている所(第六期・二十九)で出てきます。
『人は餘程注意をせぬと地位が上るにつれて才能が減ずる。私の知つて居る人で大臣などになつたのも少くないが、どうも皆さうです。』