【ゴーストタウン】
木曜日は午前中にまたRCCラジオの電話録音があった。午後の「週刊しっとかんとイカン」というコーナーで15分ほどSTAP細胞事件についてしゃべれと言う。(別掲)新番組で担当アナウンサー(男女)がどの程度知っているのかが分からないから、しゃべりにくい。専門的なことを素人にわかるように説明するのは、ほんとうは怖いことだ。
午後気分転換に、車の試乗がてら「無住の家」探険に出かけた。道に迷ってもカーナビに「帰宅」と指示すれば、帰り道を教えてくれることが分かったので、今日は地図も持たなかった。まず福富町と豊栄町が混じっている東谷という集落を訪ねた。ここも無人の家が点在している。付近には大きな養鶏場がある。
ついで山道を走って宇山という、平家の落人のような、山中に孤立した集落に行った。ここは水田がほとんどなく畑作でソバ中心になっている。
廃校になった小学校を利用して手打ちソバの店があるが、「本日休業」だった。立派なプールや体育館もあるのだが、地域が利用している気配はない。もったいないことだ。この集落にも廃屋が目立つ。
それからまた山の中の道を走って、河内町河戸(こうど)というところに出た。この河戸の集落はまさにゴーストタウンだった。
この河戸を通過する道路は、大型車が離合できない狭い道が山際にあり、その右手にあとで作られた、集落を迂回するやや広い県道がある。ここは路線バスが走る。さらに10年ほど前に整備された、集落を大きく川沿いに迂回する、広い2車線のバイパス道路がある。
県道脇に駐車して歩いて集落に入る。(写真)手前に川があり、大正時代のデザインと思われるコンクリート橋が架かっている。道路脇に10軒ほどの民家が並んでいるのが、かつての「河戸商店街」だ。いまはほとんどが廃屋で、車も通らないし、人の気配がない。たまに軽トラが向こうから来たと思うと、前方左手の電柱のところを右折して、宇山への近道を利用する車だ。まあ、一種のゴーストタウンになっている。
小中大の並行に走る3本の道路と廃屋の壊れ方を見ると、この河戸集落の歴史がわかる。
1920年頃は、立派なデザインのコンクリート橋を架けるほど、賑わっていた商店街だった。1950年以後、次第に車が増え、離合も難しい商店街の道路では不便になった。そこで商店街の右側に新しく広い道路を作った。恐らく1970年代だろう。そこで路線バスが通らなくなった。商店街を迂回する車がほとんどになった。これが街の衰退の始まりだろう。
2000年頃に新広島空港へ行く車の便をよくするため、さらに右手(沼田川沿い)に広いバイパスが作られた。これで通行する車は、この集落の存在にすら気づかなくなった。商店にとって前を人が通ってくれることは、決定的に重要な要素である。人通りが絶えたことが商店街の致命傷になった。
歩いて商店街をはずれまで行ってみたが、道路に面して立派な二階建ての和風住宅があり、屋根に赤瓦を敷きつめ、広いガラス障子を立て回している。そこにツタが二階まで絡まっている。前庭には樹齢50年くらいのヒノキの大木があり、途中折れて枯れている。日本経済が良くなってきた1960年代に建てられた家であろう。見ていて気の毒になる。
戻りながらあちこち廃屋を撮影し、一服していると、向こうから突然という感じで灰色のトックリセータを着て、作業着のようなズボンをはいた三十代くらいの男が現れた。小太りしていて、脂ぎった感じがする。丸顔で頭は五分刈りにしていて、どちらかというと中国系を思わすところがある。近づいてきて「タバコを一本くれませんか」という。
時に広島駅でそういうホームレスに会うが、たいていは相手が箱から取り出す時を見ていう。ロンドンの乞食でもそうする。私が吸っているのは、さっき取り出したときに確認したら最後の1本だった。だからそういうと、「一口でよいから吸わせてくれませんか」という。
いちいち言うことが想定外のことばかりだ。
仕方がないから吸っているのを渡すと、美味しそうに深く吸ってすぐに返してよこした。が、唾液でべっとり濡れた吸口を見ると、もう吸う気になれないので、「いや、君にあげる」と手渡した。「君はここに住んでいるの?」と聞くと、「あの家に親と二人で住んでいる」と橋の左詰の廃屋を指さした。無住とばかり思っていたが、人が住んでいるとは…
「この商店街には何軒、人が住んでいる家があるの?」と聞くと「知らん」という。
医者の問診と同じで、これだけ会話して住む家を見れば、生活環境、経済状態、親と同居の理由、タバコが買いに行けない理由がすべてわかる。
田舎の人、ことに商店街の人というのは無駄口をたたくのが普通だが、この男はどうも少し違う。どうやら少し知恵遅れがあるようだ。昔はそれを「馬鹿」と呼んだ。どの集落にも馬鹿と呼ばれる人が一人か二人はいた。
泉鏡花の「高野聖」に出てくる白痴の青年そっくりの男に、廃墟の商店街で会うとは。もっとも相棒の美女はいなかったが…
新潮文庫で「高野聖」の原文を確認したら、面白い語句を「発見」した。「眼張る」という言葉に「がんばる」とルビが振ってある。「気を弛めずに目を配っている」という意味で使われている。三省堂「新明解語源辞典」は、漱石の「吾輩は猫である」における「頑張る」の用例をあげ、「我に張る」が「がんばる」の語源で「頑」は当て字としている。しかし、
「高野聖」(明治33年)
「吾輩は猫である」(明治38~39年)
という年代差を見ると、どうも鏡花が「眼張る」を先に使っている。鏡花の用例には「我をはる」という意味はなく、「一生懸命努力する」という意味で、今日の用例に近い。どうも辞書の記載の方が間違っているのではないかと思う。
木曜日は午前中にまたRCCラジオの電話録音があった。午後の「週刊しっとかんとイカン」というコーナーで15分ほどSTAP細胞事件についてしゃべれと言う。(別掲)新番組で担当アナウンサー(男女)がどの程度知っているのかが分からないから、しゃべりにくい。専門的なことを素人にわかるように説明するのは、ほんとうは怖いことだ。
午後気分転換に、車の試乗がてら「無住の家」探険に出かけた。道に迷ってもカーナビに「帰宅」と指示すれば、帰り道を教えてくれることが分かったので、今日は地図も持たなかった。まず福富町と豊栄町が混じっている東谷という集落を訪ねた。ここも無人の家が点在している。付近には大きな養鶏場がある。
ついで山道を走って宇山という、平家の落人のような、山中に孤立した集落に行った。ここは水田がほとんどなく畑作でソバ中心になっている。
廃校になった小学校を利用して手打ちソバの店があるが、「本日休業」だった。立派なプールや体育館もあるのだが、地域が利用している気配はない。もったいないことだ。この集落にも廃屋が目立つ。
それからまた山の中の道を走って、河内町河戸(こうど)というところに出た。この河戸の集落はまさにゴーストタウンだった。
この河戸を通過する道路は、大型車が離合できない狭い道が山際にあり、その右手にあとで作られた、集落を迂回するやや広い県道がある。ここは路線バスが走る。さらに10年ほど前に整備された、集落を大きく川沿いに迂回する、広い2車線のバイパス道路がある。
県道脇に駐車して歩いて集落に入る。(写真)手前に川があり、大正時代のデザインと思われるコンクリート橋が架かっている。道路脇に10軒ほどの民家が並んでいるのが、かつての「河戸商店街」だ。いまはほとんどが廃屋で、車も通らないし、人の気配がない。たまに軽トラが向こうから来たと思うと、前方左手の電柱のところを右折して、宇山への近道を利用する車だ。まあ、一種のゴーストタウンになっている。
小中大の並行に走る3本の道路と廃屋の壊れ方を見ると、この河戸集落の歴史がわかる。
1920年頃は、立派なデザインのコンクリート橋を架けるほど、賑わっていた商店街だった。1950年以後、次第に車が増え、離合も難しい商店街の道路では不便になった。そこで商店街の右側に新しく広い道路を作った。恐らく1970年代だろう。そこで路線バスが通らなくなった。商店街を迂回する車がほとんどになった。これが街の衰退の始まりだろう。
2000年頃に新広島空港へ行く車の便をよくするため、さらに右手(沼田川沿い)に広いバイパスが作られた。これで通行する車は、この集落の存在にすら気づかなくなった。商店にとって前を人が通ってくれることは、決定的に重要な要素である。人通りが絶えたことが商店街の致命傷になった。
歩いて商店街をはずれまで行ってみたが、道路に面して立派な二階建ての和風住宅があり、屋根に赤瓦を敷きつめ、広いガラス障子を立て回している。そこにツタが二階まで絡まっている。前庭には樹齢50年くらいのヒノキの大木があり、途中折れて枯れている。日本経済が良くなってきた1960年代に建てられた家であろう。見ていて気の毒になる。
戻りながらあちこち廃屋を撮影し、一服していると、向こうから突然という感じで灰色のトックリセータを着て、作業着のようなズボンをはいた三十代くらいの男が現れた。小太りしていて、脂ぎった感じがする。丸顔で頭は五分刈りにしていて、どちらかというと中国系を思わすところがある。近づいてきて「タバコを一本くれませんか」という。
時に広島駅でそういうホームレスに会うが、たいていは相手が箱から取り出す時を見ていう。ロンドンの乞食でもそうする。私が吸っているのは、さっき取り出したときに確認したら最後の1本だった。だからそういうと、「一口でよいから吸わせてくれませんか」という。
いちいち言うことが想定外のことばかりだ。
仕方がないから吸っているのを渡すと、美味しそうに深く吸ってすぐに返してよこした。が、唾液でべっとり濡れた吸口を見ると、もう吸う気になれないので、「いや、君にあげる」と手渡した。「君はここに住んでいるの?」と聞くと、「あの家に親と二人で住んでいる」と橋の左詰の廃屋を指さした。無住とばかり思っていたが、人が住んでいるとは…
「この商店街には何軒、人が住んでいる家があるの?」と聞くと「知らん」という。
医者の問診と同じで、これだけ会話して住む家を見れば、生活環境、経済状態、親と同居の理由、タバコが買いに行けない理由がすべてわかる。
田舎の人、ことに商店街の人というのは無駄口をたたくのが普通だが、この男はどうも少し違う。どうやら少し知恵遅れがあるようだ。昔はそれを「馬鹿」と呼んだ。どの集落にも馬鹿と呼ばれる人が一人か二人はいた。
泉鏡花の「高野聖」に出てくる白痴の青年そっくりの男に、廃墟の商店街で会うとは。もっとも相棒の美女はいなかったが…
新潮文庫で「高野聖」の原文を確認したら、面白い語句を「発見」した。「眼張る」という言葉に「がんばる」とルビが振ってある。「気を弛めずに目を配っている」という意味で使われている。三省堂「新明解語源辞典」は、漱石の「吾輩は猫である」における「頑張る」の用例をあげ、「我に張る」が「がんばる」の語源で「頑」は当て字としている。しかし、
「高野聖」(明治33年)
「吾輩は猫である」(明治38~39年)
という年代差を見ると、どうも鏡花が「眼張る」を先に使っている。鏡花の用例には「我をはる」という意味はなく、「一生懸命努力する」という意味で、今日の用例に近い。どうも辞書の記載の方が間違っているのではないかと思う。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます