ある宇和島市議会議員のトレーニング

阪神大震災支援で動きの悪い体に気づいてトレーニングを始め、いつのまにかトライアスリートになってしまった私。

【献本お礼など】難波先生より

2017-06-10 06:13:38 | 難波紘二先生
【献本お礼など】「医薬経済」5/15号への感想を書く前に、6/1号をお送り頂いた。厚くお礼申し上げます。
 5/15号では中村うさぎのエンディングノートに続いて、AV監督村西徹のそれが載っている。1960年代の終わりだったか「日活・ロマンポルノ」が映画に登場したこと、劇場で見たことがあるが、ホテルのテレビでAVが見られるようになってからは、監督名などついに憶えなかったから、村西徹という名前とその作品とが結びつかない。
 「心臓の弁に菌が生える25万人に1人の奇病」に罹り、手術を受けたが退院時に主治医から「年だからいつ死んでもおかしくない」と言われパニックになったそうだ。精神科を受診したら「うつ病です」と診断され、抗うつ薬を処方されたとある。真菌性の心弁膜症らしいが、詳細は不明だ。

 余命告知はここまで来たか…と思う。知る限りでは喉頭癌で「余命一年半」と執刀医に宣告され(1904/4)、「一年有半:生前の遺稿」(岩波文庫)を書いた中江兆民(1847-1901)が、「がん告知」患者の第一号だろう。途中で大阪から東京に引き揚げ、東京帝大医学部耳鼻咽喉科の岡田和一郎教授を主治医とした。岡田らの「まだ2ヶ月はもつ」という助言がなければ、兆民思想の集成ともいうべき哲学書「続・一年有半」は書かれなかったと思う。
 兆民は自分で医者から「余命」を聞きだし、遺著を執筆すると同時に、死後に自分の遺体を病理解剖する手続きをしておいた。私の知る限り、篤志病理解剖は兆民が初めてである。
 
 戦後になると著名人によるがん告白・闘病記が出るようになった。悪性黒色腫の脳転移で死亡した、東大文学部教授の宗教学者岸本英夫による「死を見つめる心:ガンとたたかった十年間」(講談社、1964)はおそらくその先がけであろう。
 その次ぎに出たのが、小学館の編集者を辞め、フリー・ジャーナリストになった児玉隆也「ガン病棟の九十九日」( 新潮社、1975)だろう。「文藝春秋」1974/11号が時の首相田中角栄の「金脈」について2本のレポートを載せた。立花隆「田中角栄研究:その金脈と人脈」と児玉隆也「寂しき越山会の女王」(現、岩波現代文庫、2001/2)だ。
 前者は「土地転がし」と土地の先行取得による資金調達の手法を暴露した。後者は愛人で田中派金庫番の女性の半生に焦点を当てたもので、政治部記者にとっては公然の秘密だったが、どの社もあえて記事にしなかった。従って角栄とその家族に与えた衝撃はこちらの方が大きかった。
 不幸にして39歳の児玉は記事掲載時点で、第三期の肺がんが発見され国立がんセンターに入院・治療となった。同じ病棟の患者とその家族、治療と看護にあたる医師やナースの動きをも観察しながら書かれたのが、異色の闘病記「ガン病棟の九十九日」だ。児玉は右肺のがんが心外膜に浸潤し、心外膜欠陥の破綻による大出血=心タンポナーデで急死した。呉のNさんの親友の場合と同じである。
 1970年代、国立癌センターでさえも患者に「がん告知」をしていなかった。新潮文庫版に含まれている妻の手記によると、主治医から児玉が肺がんだと言われたが、「夫には絶対に告げない決心をした」とある。だが彼はそれ以前に、状況証拠や他の入院患者との話で自分が肺がんであることを知っていた。

 有名人による「がん公表」が始まったのは2000年頃からで、「がんを生きる:老後の健康2」(文春文庫、2015/6)には、
徳岡孝夫(ジャーナリスト、悪性リンパ腫)、小椋佳(作詞・作曲家、胃がん)、鳥越俊太郎(ニュースキャスター、大腸がん)、◆藤村俊二(俳優、胃がん)、浅野史郞(元宮城県知事、ATL)、鈴木孝夫(言語社会学者、前立腺がん)、鴨下信一(演出家、胃がん)、渡邊恒雄(読売新聞社会長・主筆、前立腺がん)(◆は2017/6/4時点ですでに死亡)といった著名人が自分のがん治療を告白している。
 もちろん治療がうまく行き、執筆時に再発のない人が手記を書いているので、70年代に比べてがん治療法が格段に向上したとは言い切れない。
 日本のがん告知は70年代の終わりに始まり、今や患者に告知しないと医師が告発されかねない状況になった。有名人が続々「がん告白」をしている。エンディング・ノートも今はまだ公表する人が少ないが、やがて当たり前になる時代が来るように思う。

 鳥集徹氏の5/15号「口に苦い薬:バイエル薬品問題公益通報者保護精神の徹底を」と6/1号「温かな<手当て>のできる総合診療医の育成を」を共に興味深く読んだ。
 前者は新薬の治験データを論文化した際に、製薬会社社員によるカルテの無断閲覧が行われ、さらに論文がゴーストライターにより執筆されたという。この内部事情を告発した社員に会社がパワハラを行ったという問題である。「<内部告発者を徹底して守る>という社会でなければ、社会正義は実現できない」という鳥集氏の意見に同意する。
 いわゆるコンプライアンス(法令順守)の根底にはモラル・インテグリティ(道徳的一貫性)という考えがある。これは洋の東西を問わない。「李下に冠を正さず」とか「瓜田に沓(くつ)を納(いれ)ず」がそれだろう。ジョージ・ワシントンの「正直は最良の政策だ」というのもある。

 6/4(日)に広島市で会合があり、「加計学園」問題でスクープを連発している週刊新潮と週刊文春の6/8号を買おうと思ったが、広島駅前のコンビニでは両方とも売り切れていた。帰りにJR西高屋駅脇のコンビニで、週刊文春だけがまだ残っていたので買った。
 その記事中に、千葉科学大学(開設者=加計学園)の開学十周年記念式で来賓の安倍首相が述べた祝辞の一部が引用されていた。
 「心の奥でつながっている友人、私と加計(孝太郎理事長)もまさに腹心の友だ」。

 「腹心の部下」とはいうが、「腹心の友」とはふつう言わない。ごくふつうの漢字熟語を誤読する閣僚がいるくらいだから、首相がこの程度の国語力しかなくても、別に驚かない。それはともかく、このスピーチが誤報でないなら、加計理事長と安倍首相の「お友達関係」は明瞭だ。この一言で事件の核心が見えてくる。
 雑誌「プレジデント」が各紙の社説比較をやっているが、掲載写真を見ると今治の岡山理科大学獣医学部はもうほぼ完成しているではないか。
http://president.jp/articles/-/22239

 「国家戦略特区」という名目で、大学設置審議会と無関係にこういうことが可能になるなら、それは安倍「独裁制」だな。正式に認可されてから、キャンパス建設が始まるものと思っていた私の認識は甘かった。

 (その後入手した「週刊新潮」6/8号の記事によると、2014年に「内閣人事局」が設置され、高級官僚人事はここに任命権が移ったのだそうだ。それと「国家戦略特区」の指定は内閣府の専権事項だという。大学設置審議会とは無関係だということだ。
 同誌には学部の設置準備を始める前に、加計学園理事長が日本獣医師会顧問の元代議士のところに相談に来たので、「なぜ獣医学部を?」と聞いたら「息子が鹿児島大の獣医学部卒で、入学式に行って施設を見たら、これなら自分でもできると思った」と答えたとある。その元代議士も「ずいぶん軽い動機だな」と思ったそうだ。)

 各紙は「文科省の前川前事務次官」の言動を主に報じているが、社会部や政治部の記事には切り口に新味がない。前川前事務次官の「出会い系バー」の5/22「読売」報道問題については、Blogosで弁護士による詳細な検証がなされている。
 http://blogos.com/article/227017/

 6/5「毎日」が全国の獣医学部の学生定員は合計930人、獣医師は全国で約3万9,000人。ペット数は2017年がピーク(約330万頭)で、10年後には約180万頭(58%)に減少するという公的予測数値を報じている。2018年度から獣医学部の学生定数を120人(加計学園の計画。現員の約17%)も増やす必然性がない、と論じている。(永山悦子記者の名があるから「科学環境部」の記事だと思う。)
 子供の頃、一度だけ獣医さんによる牛の診察を見たことがある。近くの農家の庭でのことだ。右腕の袖を肩の付け根までまくり上げて、牛の肛門から腕を突っ込み、糞便を書き出した後、腕を深く差し入れて大腸の奧を触診していた。子供心にも「これは大変な仕事だ!」と思った。

 「毎日」記事によると、いま日本の獣医総数は、こういう①産業動物獣医が約4300人、②食肉検査などにあたる公務員獣医が約9,500人、残りは③いわゆるペットの獣医約1万5,200人(全体の約4割)だという。獣医学部の学生定員を930人から1,050人に増員すれば、10年後には1万500人の獣医が誕生する計算になる。獣医師の需要と供給のアンバランスは必ず起こる。
 そういう博打みたいな計画を「国家戦略特区」として推進してよいのだろうか?という疑問を抱いた。「加計学園」問題では、こうしたデータを提示しての調査報道を望みたい。

 「総合診療専門医」は来年度から実施が予定されている「専門医制度」の根幹に関わる問題だ。鳥集氏のいう「温かな手当てのできる総合診療医の養成」には大賛成だが、問題はその方策だろう。今の医師法では自由標榜科制になっていて、内科、外科、小児科、総合診療科など19科名は自由に看板が出せることになっている。
 これとは別に学会が「専門医制度」を持っていて独自の基準で専門医の認定を行っている。この認定医には更新があるから、専門医になると学会費を払い学会に出席しなくてはならない。
更新時には更新費用がかかる。複数の専門医資格を維持するのは経費的にも馬鹿にならない。
 この制度のおかげで、日本の医学は「学会栄えて学問滅ぶ」という事態になりつつある。

 私は欧米のように医学部を4年制にして、4年生の他学部を卒業したものでなければ受験資格がないというように教育制度を変え、受験生の面接ないし過去のボランティアー活動を重視し、臨床医に適した学生を医学部に入学させるのがよいと思うが、これについては別の機会に論じたい。



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3 コメント

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Unknown (Mr.S)
2017-06-10 20:31:07
笑止千万である。
安倍政権を陥れることしか頭に無い民進とそれに追従するマスコミの悪巧みと意を共にするとは。
ペットの数が半減するからという根拠のない推測に絡めて獣医師不要とはこれまた民進党ばりの薄っぺらい思考
北の脅威に日米が、世界が恐々として居る時期に日本国民の為に血を吐く思いで行動する安倍総理に対し。少しでも応援するのが国民の責務だ。
腹心とは腹を割って語り合えるという意味もある。腹心の友という表現は面白いと思うが、何かとケチを付けるのは民進党症候群に罹っているようだね。
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Unknown (Unknown)
2017-06-11 12:39:28
>知る限りでは喉頭癌で「余命一年半」と執刀医に宣告され(1904/4)、「一年有半:生前の遺稿」(岩波文庫)を書いた中江兆民(1847-1901)が、「がん告知」患者の第一号だろう。

いつ宣告されたのか知らんが、死亡年より後ということはありえないだろう。
返信する
Unknown (Unknown)
2017-06-11 12:51:12
調べてみた。
余命宣告を行ったのは堀内謙吉医師。どうしてこの医師をナンバ氏が「執刀医」と表記したのか分からない。宣告は、明治34年4月。すなわち、1901年だ。おそらく34と1901を混同したのだろう。

因みに、篤志病理解剖の結果、兆民の死因は喉頭がんではなく食道がんであることが分かったらしい。
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