【諺文】前項(原文は上述)の「海東諸国記」を書いた申叔舟は、李氏朝鮮の世宗王(在位1419~1450)に仕えた人である。世宗の25年、申叔舟が日本に使いした1443年の12月に、「上監(国王のこと)自ら二十八の文字を作られた」と「朝鮮王朝実録」はいう。つまり諺文(おんもん)(音文字=ハングル)が発明されたというのである。
「海東諸国記」が執筆されたのは1470年頃だが、確かに終りの方には「漢字ハングル混じり文」がある。申叔舟は「保閑斎集」で、「諸国では自国の言語音を表す文字をもってその言葉を記録しているのに、ひとりわが国には独自の文字がないといって、上監が字母二十八字をお作りになった」と述べている。
この時すでに日本には平かなと片かながあった。申叔舟は9月の日本滞在中に、それを見たはずである。言語学者たちはハングルの母音と子音を分ける表記法がどこに由来するか決めかねているが、時期的にまだ西洋のアルファベットの知識は朝鮮にない。ポルトガル船が種子島に漂着して鉄砲が日本に伝わるのが、1543(天文12)年である。
母音と子音を分ける考え方には、日本の「五十音図」が重要な役割を果たしたはずである。これはもともと空海によるサンスクリット語の研究から始まったが、1075(承保2)年以前に高野山で出来上がっていたことが知られている。つまり申叔舟が日本から五十音図を持ち帰り、諺文を考案し、それを世宗の「発明」にしても、ちっともおかしくない。実際に諺文採用にもっとも努力した学者が申叔舟である。
同僚の学者は「わが国ではひとえに中国をもって事大となし、その制度・文物を中心に文字も同一のものを使ってきました。しかるに今、別途諺文をつくり、中国を捨て蛮人にくみするは文明にとっての弊、大なりといわざるをえません」という上申書を出している。(朴永溶ほか「ハングルの歴史」,白水社)
この「蛮人」は、女真文字を採用した女真族をいうよりも、海を隔てた日本人のことを指していると考えるのが妥当であろう。
そういうわけでほぼ570年も前から、日本人は「蛮人」とされていたので、朝鮮人は「蛮人」から文化や文明を受けたことは、死んでも認めたくないのであろう。まあ、怒らずに気長に付き合うしかなかろう。
「海東諸国記」が執筆されたのは1470年頃だが、確かに終りの方には「漢字ハングル混じり文」がある。申叔舟は「保閑斎集」で、「諸国では自国の言語音を表す文字をもってその言葉を記録しているのに、ひとりわが国には独自の文字がないといって、上監が字母二十八字をお作りになった」と述べている。
この時すでに日本には平かなと片かながあった。申叔舟は9月の日本滞在中に、それを見たはずである。言語学者たちはハングルの母音と子音を分ける表記法がどこに由来するか決めかねているが、時期的にまだ西洋のアルファベットの知識は朝鮮にない。ポルトガル船が種子島に漂着して鉄砲が日本に伝わるのが、1543(天文12)年である。
母音と子音を分ける考え方には、日本の「五十音図」が重要な役割を果たしたはずである。これはもともと空海によるサンスクリット語の研究から始まったが、1075(承保2)年以前に高野山で出来上がっていたことが知られている。つまり申叔舟が日本から五十音図を持ち帰り、諺文を考案し、それを世宗の「発明」にしても、ちっともおかしくない。実際に諺文採用にもっとも努力した学者が申叔舟である。
同僚の学者は「わが国ではひとえに中国をもって事大となし、その制度・文物を中心に文字も同一のものを使ってきました。しかるに今、別途諺文をつくり、中国を捨て蛮人にくみするは文明にとっての弊、大なりといわざるをえません」という上申書を出している。(朴永溶ほか「ハングルの歴史」,白水社)
この「蛮人」は、女真文字を採用した女真族をいうよりも、海を隔てた日本人のことを指していると考えるのが妥当であろう。
そういうわけでほぼ570年も前から、日本人は「蛮人」とされていたので、朝鮮人は「蛮人」から文化や文明を受けたことは、死んでも認めたくないのであろう。まあ、怒らずに気長に付き合うしかなかろう。
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