【置いてけ堀】TBS「報道ステーション」はわりとよく見る。恵村という「朝日」の論説委員がぼそぼそと通りの悪い声で、しかもカメラを見ないで古館さんの方を向いてしゃべるのをディレクターはなんとかしないか、カメラを真っ直ぐ見つめないと視聴者に顔が見えないのだよと思うが、こっちはチャンネルを切り換えるしか手がない。
誰の発言だったか忘れたが、10/23の夜、その番組で「置いてきぼり」という言葉が出たので、一瞬「置いてけぼり」の間違いではないか?と思った。
「置いてけ堀」は江戸本所横網町にあったお竹倉(俗称で正式には「本所御蔵」)を取り囲んでいた実在の掘に由来する。「広辞苑」には「錦糸堀」とあるが、明治・大正のジャーナリスト矢田挿雲「江戸から明治へ」では、語源となった堀は横網町の「笹谷堀」となっている。(同書「本所区」の項)
付近に古狸が住んでいて、堀で釣りをした町人が夕方びくを下げて帰路につくと、後から「置いてけ、置いてけ」と声がするという伝承があった。だからこの堀の俗称が「置いてけ堀」。
矢田が記した「置いてけ堀と足洗え屋敷」という話は二段構成になっている。
小宮山左膳という八百石の取りの旗本が明治2年秋、本所笹谷堀で土地の青年たちが良く太った狸を捕まえて、狸汁をこしらえると騒いでいるの出会い、妻の命日でもあったの買い取って放生してやった。
小宮山が住んでいた屋敷が本所「錦糸堀」にあった。その夜、放した狸が若い女に化けて、夢の中で礼に来る。そして「夢ゆめ、お側のものに気を許すな」と告げて消える。
妻亡き後、小宮山は妾のお玉、ひとり息子の膳一、それに下男二人と暮らしている。
実は、このお玉が身を持ち崩した旗本の倅源次郎とかつて情を通じ、今も共謀して左膳から密かに金品を奪い、果ては殺害しようとしていたのだ。
狸の警告も空しく、源次郎とお玉は左膳を切り殺し、強盗のしわざに見せかける。やがて左膳の倅膳一が狸の協力を得て、親の敵を討つ。この時、狸が倒れた源次郎に「足を洗え」と左膳の声で叫んだので、寝ていた下男が起きて、たらいに水を組んで出てきたという。
源次郎の大腿には左膳が投げつけた手裏剣の傷があった。
矢田挿雲は、この事件以来、「置いてけ堀」と「屋敷」が有名になったという。この仇討ち事件は、明治3年のこととされていて、膳一にはなんのお咎めもなかったとのこと。
石井研堂「明治事物起原」中の「仇討ちの終り」を見ると「仇討ち禁止令」が出たのが、明治6年2月で、明治3年までに3例、明治13年に1例を挙げている。明治13年の例は両親を殺されたにもかかわらず、仇討ちした方が無期懲役になっている。
矢田挿雲(1882-1961)は明治12年生まれだから、幕末から明治への変遷を同時代に経験しているわけではない。「報知新聞」記者として古老の話を収集したものだ。他により信頼のおける資料がないかぎり、「置いてけぼり」の語源は「本所笹谷堀」で、「置いて行け」という狸の声がするという伝承に由来すると考えてよいのではないか。
矢田がこの項を書いたのは大正12年、関東大震災の年とあるが、すでに「置いてき堀」と「置いてけ堀」の両方を並記していて、「落伍、あるいは落伍者の意味」としている。「新明解」には「=を食う」、「広辞苑」には「=にする」と名詞(体言)として載っている。
いまは「置いてきぼり」でも、「置いてけぼり」でもよいのだと辞書にはある。
「置いてけ」だと命令形、「置いてき」だと動詞の連用形になる。
恐らく「置いてき」と「放り」が連結したものだと誤解されているのであろう。
誰の発言だったか忘れたが、10/23の夜、その番組で「置いてきぼり」という言葉が出たので、一瞬「置いてけぼり」の間違いではないか?と思った。
「置いてけ堀」は江戸本所横網町にあったお竹倉(俗称で正式には「本所御蔵」)を取り囲んでいた実在の掘に由来する。「広辞苑」には「錦糸堀」とあるが、明治・大正のジャーナリスト矢田挿雲「江戸から明治へ」では、語源となった堀は横網町の「笹谷堀」となっている。(同書「本所区」の項)
付近に古狸が住んでいて、堀で釣りをした町人が夕方びくを下げて帰路につくと、後から「置いてけ、置いてけ」と声がするという伝承があった。だからこの堀の俗称が「置いてけ堀」。
矢田が記した「置いてけ堀と足洗え屋敷」という話は二段構成になっている。
小宮山左膳という八百石の取りの旗本が明治2年秋、本所笹谷堀で土地の青年たちが良く太った狸を捕まえて、狸汁をこしらえると騒いでいるの出会い、妻の命日でもあったの買い取って放生してやった。
小宮山が住んでいた屋敷が本所「錦糸堀」にあった。その夜、放した狸が若い女に化けて、夢の中で礼に来る。そして「夢ゆめ、お側のものに気を許すな」と告げて消える。
妻亡き後、小宮山は妾のお玉、ひとり息子の膳一、それに下男二人と暮らしている。
実は、このお玉が身を持ち崩した旗本の倅源次郎とかつて情を通じ、今も共謀して左膳から密かに金品を奪い、果ては殺害しようとしていたのだ。
狸の警告も空しく、源次郎とお玉は左膳を切り殺し、強盗のしわざに見せかける。やがて左膳の倅膳一が狸の協力を得て、親の敵を討つ。この時、狸が倒れた源次郎に「足を洗え」と左膳の声で叫んだので、寝ていた下男が起きて、たらいに水を組んで出てきたという。
源次郎の大腿には左膳が投げつけた手裏剣の傷があった。
矢田挿雲は、この事件以来、「置いてけ堀」と「屋敷」が有名になったという。この仇討ち事件は、明治3年のこととされていて、膳一にはなんのお咎めもなかったとのこと。
石井研堂「明治事物起原」中の「仇討ちの終り」を見ると「仇討ち禁止令」が出たのが、明治6年2月で、明治3年までに3例、明治13年に1例を挙げている。明治13年の例は両親を殺されたにもかかわらず、仇討ちした方が無期懲役になっている。
矢田挿雲(1882-1961)は明治12年生まれだから、幕末から明治への変遷を同時代に経験しているわけではない。「報知新聞」記者として古老の話を収集したものだ。他により信頼のおける資料がないかぎり、「置いてけぼり」の語源は「本所笹谷堀」で、「置いて行け」という狸の声がするという伝承に由来すると考えてよいのではないか。
矢田がこの項を書いたのは大正12年、関東大震災の年とあるが、すでに「置いてき堀」と「置いてけ堀」の両方を並記していて、「落伍、あるいは落伍者の意味」としている。「新明解」には「=を食う」、「広辞苑」には「=にする」と名詞(体言)として載っている。
いまは「置いてきぼり」でも、「置いてけぼり」でもよいのだと辞書にはある。
「置いてけ」だと命令形、「置いてき」だと動詞の連用形になる。
恐らく「置いてき」と「放り」が連結したものだと誤解されているのであろう。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます