ある宇和島市議会議員のトレーニング

阪神大震災支援で動きの悪い体に気づいてトレーニングを始め、いつのまにかトライアスリートになってしまった私。

【熱気球】難波先生より

2013-02-28 12:10:16 | 難波紘二先生
【熱気球】
1870年7月13日、プロシア宰相ビスマルクが仕組んだ謀略電報(「エムス電報事件」)をきっかけとして、19日普仏戦争が勃発した。鉄血宰相ビスマルク、参謀総長モルトケが統率するドイツ参謀本部に仏軍がかなうわけがなく、皇帝ナポレオン三世は虜となり、パリには帝政を排して共和制の臨時政府が樹立された。
 パリを包囲したプロシア軍をさけて、背後の仏軍と連絡し抗戦を継続するために、内相ガンベッタは史上初の熱気球に乗り込み、10月5日、パリを脱出した。その後、翌年3月に「パリ・コミューン」が発生し、2ヶ月後にプロシア軍に鎮圧されるまで、市民による自治が続いた。
 大佛次郎はノンフィクション小説『パリ燃ゆ』(朝日新聞社, 1971)で、この一部始終を描いている。この小説の特徴は詳細な事実調べと沢山の挿絵、写真、地図が含まれている点にある。(今の小説が面白くないのは、これらがないからだ、と私は思う)

 添付1はガンベッタが乗った気球が出発するところの絵である。この模様は、テキストのようにヴィクトル・ユーゴーが立ち会っていて、記録に残している。


 熱気球は火を燃やして空気を暖めて上昇する。プロペラも舵もないから、方向と速度は風まかせである。
 ガンベッタの時も、彼が乗った黄色の気球と他の白い気球と二つ飛ばして、目的地に着いたのは黄色の方だけである。
 やがて、水素ガスをつめた紡錘状の巨大風船からゴンドラと呼ばれる客室をつり下げ、船体の両側にプロペラをつけた「飛行船」が出現した。飛行船は飛行機のように滑走路がいらず、繋留は塔の上でよく、静かで燃料費もあまりかからず、大量輸送機関として大発展すると思われた。


1937年5月3日朝、ドイツ・フランクフルト市を離陸した、ナチス政府が誇る最新鋭の飛行船「ヒンデンブルグ号」は、乗員61名、乗客36名を乗せてニューヨークに向かった。向かい風のため予定より12時間遅れて、夕刻7時に到着。繋留塔にロープを下ろしたときに、機体後部から発火し、船体内の水素ガスがたちまち大爆発を起こした。(添付2)

 機体は全体が燃えあがり、地上に墜落し、乗客13名と最後まで持ち場に留まった乗組員のほとんどが死亡した。


 不燃性のヘリウムガスを使えば、このような事故は防げるが、コストの点で採算があわなかった。そこでヒンデンブルグ号の大事故以後は、商業用飛行船は姿を消した。


 エジプトのルクソールで起こった気球事故で、1870年にガンベッタが使ったとほとんど同じタイプの熱気球が使われているのには驚いた。
 ゴンドラを見ると、籐で編んだただの籠である。4つのマスがありここに5人ずつ、合計20人を詰めこんだという。
 よくもこういう危険なものに乗る気になったものだ。よくもこういう危険なフライトを旅行会社が組み込んだものだ。


 それにしても報道もだらしない。熱気球の構造について説明がない。燃料ガスの種類に関する説明もない。また記者は、普仏戦争とガンベッタのパリ脱出を学校で学ばなかったのだろうか。
 
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