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【けた違い=朝鮮人「従軍慰安婦20万人」という虚偽数値の出所を突き止めました。】
「従軍慰安婦」という言葉を広めたのは元毎日の作家千田夏光である。
その『従軍慰安婦:<声なき女>八万人の告発』(双葉社, 1973)には以下の記述が認められる。
<日本軍が動員し使用(原文傍点)した慰安婦の総数は昭和13年から同20年まで八万人とも十万人とも言うが、その大半が朝鮮人女性であるのは公然の秘密である。>(同書p.29)
千田は「それを裏付ける資料はない」(p.94)といいつつ、元ソウル新聞編集局副局長で、韓国文部省スポークスマンをしている鄭達善なる人物が、「何年かまえにソウル新聞に短い記事を書いたことがある」と言って「朝鮮語を読めない私のために訳して下さった」(p.100)記事の内容をこう紹介している。
その新聞記事には
<1943年から45年まで、挺身隊の名のもと若い朝鮮婦人約20万人が動員され、うち「五万人ないし七万人」が慰安婦にされたとあるのである。>(p.94) しかも<その記事には「奸悪な日帝はこの土地から引っ張った挺身隊の記録を敗戦が決まると全部焼いてしまい正確な被害資料を残さなかった」とも書いてあった。>(p.94)としている。
このソウル新聞の日付を千田は示していないが、p.105に1969/8/14付「ソウル新聞」記事の話が出てくるので、この「解放回想特集号」のことと思われる。
この後も千田は「ソウル新聞」記事を信頼して以下のように書いている。
<朝鮮において組織的に大量の女性が集められたのは昭和18年からであった。…「挺身隊」という名のもとに彼女らは集められたのである。…総計20万人(韓国側の推計)が集められたうち「慰安婦」にされたのは「五万人ないし七万人」とされている。すべてが慰安婦にされた訳ではない。>(p.106)
と書いている。
さらに千田は『続・従軍慰安婦:償われざる女八万人の慟哭』(双葉社, 1974)で、「従軍慰安婦」を定義し、その数について自信たっぷりにこう書いた。<従軍慰安婦とは、旧日本軍が戦場における兵士の性欲を処理させるために使った女性のことであり、敗戦の時点、つまり昭和20年8月15日現在で、彼女らは推定八万余人いた。>(p.1)
翌1975年7月、千田は『一億人の昭和史2』(毎日新聞社)に、「<従軍慰安婦>という悲しい存在」という記事を書き、<十数万人いたと推定されるこの従軍慰安婦の八割以上が朝鮮の農村からつれだされた未婚の朝鮮女性(原文傍点)だった…>と書いている。慰安婦の総数と朝鮮人慰安婦の総数が、「ソウル新聞」の影響により次第に増えているのが注目される。さらにこの記事の後の方には、<十万とも十五万とも推定される従軍慰安婦が集められ、前線に送られていった」とも書いている。
この数値に信憑性をもたせるため、千田夏光が用いた方法は、昭和16(1941)年6月の「関東軍特別大演習(関特演)」において動員予定の兵員70万人に対して2万人の「慰安婦」が集められる「予定」があったという不確かな情報に基づいて「兵員35人に1名の慰安婦」という計算を行っての推計値である。本当にそういう「計算式」が存在していたのであれば、太平洋戦争の軍人軍属動員数350万人に対して10万人の慰安婦が必要だったということになろう。
この計算式の出所は島田俊彦『関東軍』(中公新書, 1965)のようだ。ここに「原善四郎参謀が兵隊の欲求度、持ち金、女性の能力等を綿密に計算して、飛行機で朝鮮に出かけ、約1万(予定は2万)の朝鮮の女性をかき集めて北満の広野に送り、施設を特設して“営業”させた、という一幕もあった。」(p.176)という記述がある。しかし根拠とした文献や資料の明示はない。「防衛庁戦史室そのたの膨大な資料に基づいた。立教大学助手の有賀弘氏が原稿の整理と編集に協力した」と前書きにあるだけで、引用文献がいっさいない。
島田俊彦(1908-1975)は東大文・国史学科卒で「元武蔵大学教授」と著者紹介にある。
千田は『従軍慰安婦』(1973)において、元関東軍参謀・原善四郎のインタビューを書いているが、原は「一部に二万人といわれているが、実際に集まったのは八千人くらいだった」と述べている。彼は「計算式」の存在については否定している。原の助手だった村上貞夫中尉によると「記憶では3000人ぐらい」だったという。(秦郁彦『慰安婦と戦場の性』(新潮社,1999, p.97)。
このように千田夏光はあやふやな情報に基づき、「従軍慰安婦」の話を次第に誇張して行った。ちょうど「慰安婦狩り」の吉田清治が話を大きくしていったのとそっくりである。
他方で、「原善四郎参謀」の表記は、
1973年:「関東軍司令部参謀第三課原善四郎少佐」
1974年:「関東軍後方(補給)担当参謀H中佐」
1975年:「関東軍司令部参謀部第三課F中佐」 と変化している。
この中佐が「作戦部隊に属する兵隊の欲求度、彼らの戦時加算を加えた俸給、これに女性の肉体的生理的能力を加算してはじき出した」と述べたことになっている(千田夏光『続・従軍慰安婦』, 1974, p.2)。原少佐の最終階級は中佐だから、73年本では昭和16年当時の階級「少佐」を書き、恐らく本人から抗議をおそれて「H中佐」と階級を変え、イニシアルにしたのであろう。
1975年の毎日『一億人の昭和史』(p.177)では、「H中佐」が「関東軍司令部参謀部第三課F中佐参謀」に変えられている。これは「歴史の捏造」と言ってよいだろう。
秦郁彦の調査によると原善四郎は「第三課」ではなく「第一課」の参謀だった。(上掲書)
千田はデータを改ざん・捏造するごとに、原善四郎少佐参謀→参謀H中佐→F中佐参謀というふうに、「原善四郎」による情報ではないかのごとく書き、「十数万人の従軍慰安婦がいて、その八割以上が未婚の若い朝鮮人婦人だった」と断定している。
そして<(関特演では)兵員70万人、飛行機600機、軍馬14万頭を集中するとなっていたが、この動員計画のなかに兵員70万人の性欲処理用女性(慰安婦)2万人の動員がうたわれていた」とし、この推計から「比率を拡大し、(太平洋戦争)第一線軍人軍属全動員数350万人なる数字にあてはめると、8万余人の(慰安婦という)数字が出てくるのである。>(『続・従軍慰安婦』, p.1)と言い切っている。
この元「毎日」の千田夏光が吉田清治と並んでウソを垂れ流した犯人である。不勉強な「朝日」は二人に騙されたことを恥じるべきであろう。
<1943年から45年まで、挺身隊の名のもと若い朝鮮婦人約20万人が動員され、うち「五万人ないし七万人」が慰安婦にされた>とあったという「ソウル新聞」(1969/8/14号?)の記事の出所は、朴慶植『朝鮮人強制連行の記録』(1965、未来社)のp.64-67の記載だと思われる。なお、千田本にはこの本が参考文献にあげられている。朴慶植によると、
朝鮮人で日本軍の志願兵になったもの、20,364人(1938〜1943)
朝鮮人で徴兵されたもの、陸軍186,980人、海軍22,200人、合計209,270人(復員局資料)
となっている。軍属等については「表7 軍要員送出労務員数調」という出所不明の表が掲げられている。これによると1939〜1945に朝鮮から「送出労務員」となったものの総数は33,861人で日本国内の朝鮮人69,997人よりも少ない。(『朝鮮人強制連行の記録』p.66、添付1)
(添付1)
ところがこの表は縦横集計による「検算」をしておらず、数値に誤りがある。
まず「南方」の列の総合計は36,535人なのに、万の桁に「2」が付け加えられて「32万6,535人」と一桁上がっている。
ついで1944年の行は、横の合計が45,442人、「朝鮮」の縦合計が33,861人だから、41年の「朝鮮」は12万1,575人ではなく1万3,575でないとおかしい。13575という数列が「3=2+1」と二桁に分割され、121575という数列に置換されている。ここでも数値が一桁上がっている。(なお「朝鮮」列の合計は上記修正をすると33,891人となり、30人ほど増えるが、桁数は変わらない。)
1945年の「南方」欄は空白なのに「合計」欄には326,535人という数字が揚げられている。しかし1941〜1944の数値の合計は「36,535人」であり、これは36535という数列が、故意か誤ってか、326535と転写された可能性が高い。しかし都合よく数値を読む側からすれば、「朝鮮からの動員数は1944年、12.1万人、「南方への動員数は32.6万人から1941〜44に明記してある<36,535人>を差し引いた29万人である」というようにも解釈できる。
朴慶植は「戦時中、朝鮮婦人が慰安婦として多数戦線に動員されているが、この数値は合計欄の32.6万人に入っており、各年度の「南方」の数値に入っていない」と主張している。つまり、32.6万人から14.5万人を差し引いた18.1万人が「朝鮮人強制連行の慰安婦数」だと示唆している。
さすがに日本では縦横の集計に誤りがあるこの本を資料として引用する著者はいない。しかし「ソウル新聞の<1943年から45年まで、挺身隊の名のもと若い朝鮮婦人約20万人が動員され、うち「五万人ないし七万人」が慰安婦にされた>という記事の出所はここである、と断定するほかない。
ここで慰安婦数は一桁水増しされて10万のオーダーに跳ね上がったのである。
「伝言ゲーム」の恐ろしさというか、出典を明示しない、あるいは「裏付け」が十分になされていない新聞記事や著作の怖さがここにある。私が「買いたい新書」の書評で、参考文献の有無、索引の有無をやかましく評価するのも、書評に責任を持ちたいからだ。「幽霊の正体」がこれで明らかになったので、慰安婦問題はもう終わりにしたい。
「慰安婦問題」で新聞記事や書物を沢山読んでみて、引用の不備(出所が明記してない)、引用文献リストの不備、索引の欠除にあきれた。文系のひとの多くは小説と事実報告(レポート)の区別がついていないようだ。
それと「縦書き」というフォーマットは、注釈や引用文献を明示するのに、きわめて不便だということだ。
新聞では1行12字の「産経」、「中国」がいちばん読みやすい。他紙はダメだ。映画もテレビも、パソコンもiPhoneも、学校のノートもみな横書きなのに、何で新聞だけが縦書きにこだわるのかがわからない。私は無責任な報道・出版と「縦書き」の間に、関連があると思う。
もうそろそろ、新聞の名前や出版社の名前で信用することをやめ、書いてある文章の注釈や引用文献の正確さや索引の充実度で、記事や書物の内容を判断するようにすべきだろう。それは自然科学の分野では当たり前のこととされている。
【けた違い=朝鮮人「従軍慰安婦20万人」という虚偽数値の出所を突き止めました。】
「従軍慰安婦」という言葉を広めたのは元毎日の作家千田夏光である。
その『従軍慰安婦:<声なき女>八万人の告発』(双葉社, 1973)には以下の記述が認められる。
<日本軍が動員し使用(原文傍点)した慰安婦の総数は昭和13年から同20年まで八万人とも十万人とも言うが、その大半が朝鮮人女性であるのは公然の秘密である。>(同書p.29)
千田は「それを裏付ける資料はない」(p.94)といいつつ、元ソウル新聞編集局副局長で、韓国文部省スポークスマンをしている鄭達善なる人物が、「何年かまえにソウル新聞に短い記事を書いたことがある」と言って「朝鮮語を読めない私のために訳して下さった」(p.100)記事の内容をこう紹介している。
その新聞記事には
<1943年から45年まで、挺身隊の名のもと若い朝鮮婦人約20万人が動員され、うち「五万人ないし七万人」が慰安婦にされたとあるのである。>(p.94) しかも<その記事には「奸悪な日帝はこの土地から引っ張った挺身隊の記録を敗戦が決まると全部焼いてしまい正確な被害資料を残さなかった」とも書いてあった。>(p.94)としている。
このソウル新聞の日付を千田は示していないが、p.105に1969/8/14付「ソウル新聞」記事の話が出てくるので、この「解放回想特集号」のことと思われる。
この後も千田は「ソウル新聞」記事を信頼して以下のように書いている。
<朝鮮において組織的に大量の女性が集められたのは昭和18年からであった。…「挺身隊」という名のもとに彼女らは集められたのである。…総計20万人(韓国側の推計)が集められたうち「慰安婦」にされたのは「五万人ないし七万人」とされている。すべてが慰安婦にされた訳ではない。>(p.106)
と書いている。
さらに千田は『続・従軍慰安婦:償われざる女八万人の慟哭』(双葉社, 1974)で、「従軍慰安婦」を定義し、その数について自信たっぷりにこう書いた。<従軍慰安婦とは、旧日本軍が戦場における兵士の性欲を処理させるために使った女性のことであり、敗戦の時点、つまり昭和20年8月15日現在で、彼女らは推定八万余人いた。>(p.1)
翌1975年7月、千田は『一億人の昭和史2』(毎日新聞社)に、「<従軍慰安婦>という悲しい存在」という記事を書き、<十数万人いたと推定されるこの従軍慰安婦の八割以上が朝鮮の農村からつれだされた未婚の朝鮮女性(原文傍点)だった…>と書いている。慰安婦の総数と朝鮮人慰安婦の総数が、「ソウル新聞」の影響により次第に増えているのが注目される。さらにこの記事の後の方には、<十万とも十五万とも推定される従軍慰安婦が集められ、前線に送られていった」とも書いている。
この数値に信憑性をもたせるため、千田夏光が用いた方法は、昭和16(1941)年6月の「関東軍特別大演習(関特演)」において動員予定の兵員70万人に対して2万人の「慰安婦」が集められる「予定」があったという不確かな情報に基づいて「兵員35人に1名の慰安婦」という計算を行っての推計値である。本当にそういう「計算式」が存在していたのであれば、太平洋戦争の軍人軍属動員数350万人に対して10万人の慰安婦が必要だったということになろう。
この計算式の出所は島田俊彦『関東軍』(中公新書, 1965)のようだ。ここに「原善四郎参謀が兵隊の欲求度、持ち金、女性の能力等を綿密に計算して、飛行機で朝鮮に出かけ、約1万(予定は2万)の朝鮮の女性をかき集めて北満の広野に送り、施設を特設して“営業”させた、という一幕もあった。」(p.176)という記述がある。しかし根拠とした文献や資料の明示はない。「防衛庁戦史室そのたの膨大な資料に基づいた。立教大学助手の有賀弘氏が原稿の整理と編集に協力した」と前書きにあるだけで、引用文献がいっさいない。
島田俊彦(1908-1975)は東大文・国史学科卒で「元武蔵大学教授」と著者紹介にある。
千田は『従軍慰安婦』(1973)において、元関東軍参謀・原善四郎のインタビューを書いているが、原は「一部に二万人といわれているが、実際に集まったのは八千人くらいだった」と述べている。彼は「計算式」の存在については否定している。原の助手だった村上貞夫中尉によると「記憶では3000人ぐらい」だったという。(秦郁彦『慰安婦と戦場の性』(新潮社,1999, p.97)。
このように千田夏光はあやふやな情報に基づき、「従軍慰安婦」の話を次第に誇張して行った。ちょうど「慰安婦狩り」の吉田清治が話を大きくしていったのとそっくりである。
他方で、「原善四郎参謀」の表記は、
1973年:「関東軍司令部参謀第三課原善四郎少佐」
1974年:「関東軍後方(補給)担当参謀H中佐」
1975年:「関東軍司令部参謀部第三課F中佐」 と変化している。
この中佐が「作戦部隊に属する兵隊の欲求度、彼らの戦時加算を加えた俸給、これに女性の肉体的生理的能力を加算してはじき出した」と述べたことになっている(千田夏光『続・従軍慰安婦』, 1974, p.2)。原少佐の最終階級は中佐だから、73年本では昭和16年当時の階級「少佐」を書き、恐らく本人から抗議をおそれて「H中佐」と階級を変え、イニシアルにしたのであろう。
1975年の毎日『一億人の昭和史』(p.177)では、「H中佐」が「関東軍司令部参謀部第三課F中佐参謀」に変えられている。これは「歴史の捏造」と言ってよいだろう。
秦郁彦の調査によると原善四郎は「第三課」ではなく「第一課」の参謀だった。(上掲書)
千田はデータを改ざん・捏造するごとに、原善四郎少佐参謀→参謀H中佐→F中佐参謀というふうに、「原善四郎」による情報ではないかのごとく書き、「十数万人の従軍慰安婦がいて、その八割以上が未婚の若い朝鮮人婦人だった」と断定している。
そして<(関特演では)兵員70万人、飛行機600機、軍馬14万頭を集中するとなっていたが、この動員計画のなかに兵員70万人の性欲処理用女性(慰安婦)2万人の動員がうたわれていた」とし、この推計から「比率を拡大し、(太平洋戦争)第一線軍人軍属全動員数350万人なる数字にあてはめると、8万余人の(慰安婦という)数字が出てくるのである。>(『続・従軍慰安婦』, p.1)と言い切っている。
この元「毎日」の千田夏光が吉田清治と並んでウソを垂れ流した犯人である。不勉強な「朝日」は二人に騙されたことを恥じるべきであろう。
<1943年から45年まで、挺身隊の名のもと若い朝鮮婦人約20万人が動員され、うち「五万人ないし七万人」が慰安婦にされた>とあったという「ソウル新聞」(1969/8/14号?)の記事の出所は、朴慶植『朝鮮人強制連行の記録』(1965、未来社)のp.64-67の記載だと思われる。なお、千田本にはこの本が参考文献にあげられている。朴慶植によると、
朝鮮人で日本軍の志願兵になったもの、20,364人(1938〜1943)
朝鮮人で徴兵されたもの、陸軍186,980人、海軍22,200人、合計209,270人(復員局資料)
となっている。軍属等については「表7 軍要員送出労務員数調」という出所不明の表が掲げられている。これによると1939〜1945に朝鮮から「送出労務員」となったものの総数は33,861人で日本国内の朝鮮人69,997人よりも少ない。(『朝鮮人強制連行の記録』p.66、添付1)
(添付1)
ところがこの表は縦横集計による「検算」をしておらず、数値に誤りがある。
まず「南方」の列の総合計は36,535人なのに、万の桁に「2」が付け加えられて「32万6,535人」と一桁上がっている。
ついで1944年の行は、横の合計が45,442人、「朝鮮」の縦合計が33,861人だから、41年の「朝鮮」は12万1,575人ではなく1万3,575でないとおかしい。13575という数列が「3=2+1」と二桁に分割され、121575という数列に置換されている。ここでも数値が一桁上がっている。(なお「朝鮮」列の合計は上記修正をすると33,891人となり、30人ほど増えるが、桁数は変わらない。)
1945年の「南方」欄は空白なのに「合計」欄には326,535人という数字が揚げられている。しかし1941〜1944の数値の合計は「36,535人」であり、これは36535という数列が、故意か誤ってか、326535と転写された可能性が高い。しかし都合よく数値を読む側からすれば、「朝鮮からの動員数は1944年、12.1万人、「南方への動員数は32.6万人から1941〜44に明記してある<36,535人>を差し引いた29万人である」というようにも解釈できる。
朴慶植は「戦時中、朝鮮婦人が慰安婦として多数戦線に動員されているが、この数値は合計欄の32.6万人に入っており、各年度の「南方」の数値に入っていない」と主張している。つまり、32.6万人から14.5万人を差し引いた18.1万人が「朝鮮人強制連行の慰安婦数」だと示唆している。
さすがに日本では縦横の集計に誤りがあるこの本を資料として引用する著者はいない。しかし「ソウル新聞の<1943年から45年まで、挺身隊の名のもと若い朝鮮婦人約20万人が動員され、うち「五万人ないし七万人」が慰安婦にされた>という記事の出所はここである、と断定するほかない。
ここで慰安婦数は一桁水増しされて10万のオーダーに跳ね上がったのである。
「伝言ゲーム」の恐ろしさというか、出典を明示しない、あるいは「裏付け」が十分になされていない新聞記事や著作の怖さがここにある。私が「買いたい新書」の書評で、参考文献の有無、索引の有無をやかましく評価するのも、書評に責任を持ちたいからだ。「幽霊の正体」がこれで明らかになったので、慰安婦問題はもう終わりにしたい。
「慰安婦問題」で新聞記事や書物を沢山読んでみて、引用の不備(出所が明記してない)、引用文献リストの不備、索引の欠除にあきれた。文系のひとの多くは小説と事実報告(レポート)の区別がついていないようだ。
それと「縦書き」というフォーマットは、注釈や引用文献を明示するのに、きわめて不便だということだ。
新聞では1行12字の「産経」、「中国」がいちばん読みやすい。他紙はダメだ。映画もテレビも、パソコンもiPhoneも、学校のノートもみな横書きなのに、何で新聞だけが縦書きにこだわるのかがわからない。私は無責任な報道・出版と「縦書き」の間に、関連があると思う。
もうそろそろ、新聞の名前や出版社の名前で信用することをやめ、書いてある文章の注釈や引用文献の正確さや索引の充実度で、記事や書物の内容を判断するようにすべきだろう。それは自然科学の分野では当たり前のこととされている。
取り次ぎ騒ぎの事件があります(詳細はネットで調べて下さい)。従軍慰安婦問題は「歴史問題」ではなく、全体を俯瞰して見るとそれと同じような事象が生じているのではないでしょうか?
デマがデマを呼び、何十万人を虐殺したとなってしまう。
それは敗戦国のデメリットに過ぎない。
戦争には勝たねばならない。
何があったか、何が真実かは関係ない。