【翻訳】愛煙家で全車禁煙になった新幹線東日本を訴えたほどの小谷野敦(これ「トン」とペンネームとしては読ませるそうだ。本名は「アツシ」)が、編著「翻訳家列伝101」(新書館, 2009/12)を出しているのを知り、取り寄せた。
かれは若干ストーカー的なところがあるが、酒は飲めず、タバコはよく吸う。仕事が早く、着眼点が次々に変わるのはちょっとハイポマニックだが、ニコチンが脳のシナプスを刺激するせいもあるだろう。東大英文科を出て、阪大の助教授になったが、イジメに逢い(ちょっと信じられないが)、やめて東大の非常勤講師になった。
しかし、東大の「構内禁煙」に抗議して辞め、いまは「文筆業」と奥付ページの肩書にある。
この本は明治・大正期から現代までの主な翻訳家の列伝と「参考文献一覧」、「古典作品翻訳一覧」、「原語別翻訳家目次」、「五十音別翻訳家目次」が付いている。が、人名・事項索引がない。このため翻訳家ではないが、その翻訳家と関係がある人物はすぐには探せない。
「古典作品翻訳一覧」を見て、兼ねて私が指摘してきたように、同じ作品の翻訳が実に沢山あるのに驚いた。
英語ではデフォーの「ロビンソン・クルーソー」は岩波文庫に2種、新潮文庫、旺文社文庫、角川文庫、集英社文庫、角川文庫(いずれも違う訳者)に平野啓一訳、坂井晴彦訳、海保眞夫訳、増田義郎訳がある。
ドイツ語ではゲーテの「若きウェルテルの悩み」は16種の訳がある。
フランス語ではユーゴー「レ・ミゼラブル」には、黒岩涙香「ああ無情」を入れると10種類の訳がある。
ロシア語で、ドストエフスキー「罪と罰」も同様だし、ギリシア語のホメロス「イリアス」、イタリア語のダンテ「神曲」、中国語の「水滸伝」、「三国史演義」、「西遊記」、「金瓶梅」も同様だ。
科学の世界ではこういう現象はない。D.ボア=レーモン「自然認識の限界・宇宙の七つの謎」(岩波文庫)やアインシュタイン「相対性理論」(岩波文庫)は読んでも分かる人が限られており、他に翻訳書があるとは思えない。
例外的にファラディー「ロウソクの科学」には岩波文庫版と角川文庫版がある。これはクリスマスの子供向け講演だからだ。
私もロング「病理学の歴史」、ローズ「トーマス・ホジキン伝(タイトルは死者の護民官)」を翻訳出版したが、これらを新たに翻訳する人が出てくるとは思わない。
翻訳は原本を読んで、まだ翻訳されておらず、日本の学問の進歩に役立つと思えばこそやるので、既刊の翻訳書に若干の誤訳があるからといって、自分の貴重な研究時間を新訳のために使うことを科学者ならしない。英語の原本を入手して、それを読めばすむことだ。他の言語ならLoeb対訳文庫がある。
谷沢永一の追悼集「朝のように、花のように」を読むと、冒頭に丸谷才一が「それにしてもあの溢れるほどの才能、おびただしい情熱を何と無駄なことに浪費したものだろうと惜しむ」と書いている。
これはその次ぎに追悼文を寄せている渡部昇一に誘われて、「民族派の論客」として活躍したことを指しているのである。渡部昇一はドイツ留学の後、W.ゲルリッツ「ドイツ参謀本部攻防史」(学研M文庫)を種本に「ドイツ参謀本部」(中公文庫)を書いた男だ。
私の翻訳は地名、人名、事実の確認までやって邦訳するから、大変手間がかかる。「ホジキン伝」では1832年以後のホジキン病に関する主な論文を全部取り寄せて読み上げた。大英図書館にしかないものもあった。
ノルウェーの「クリスチャニア」という都市名は「病理学の歴史」原文にはあるが、今は無い。1924年に「オスロ」と名称変更したからである。しかし著者のロングは1927年初版本の間違いをそのままに、1965年版を出している。こうしてすべての行をチェックするから、索引は新しく作ることになる。それがまた大変である。
だから私の著訳書は5年に1冊出せれば良い方だ。
同じ心血を注ぐなら、何で先行翻訳のある本を訳すのだろうか?本邦未訳のもっと良い本があるだろうに…
どうせ著作権が切れたものを訳すのなら、邦訳では地図を入れるとか、人脈・家系関係図をいれるとか、章ごとに「あらすじ」を入れるとか、もっと工夫があるだろうにと思うが、これが理系と文系の発想の違いか?
かれは若干ストーカー的なところがあるが、酒は飲めず、タバコはよく吸う。仕事が早く、着眼点が次々に変わるのはちょっとハイポマニックだが、ニコチンが脳のシナプスを刺激するせいもあるだろう。東大英文科を出て、阪大の助教授になったが、イジメに逢い(ちょっと信じられないが)、やめて東大の非常勤講師になった。
しかし、東大の「構内禁煙」に抗議して辞め、いまは「文筆業」と奥付ページの肩書にある。
この本は明治・大正期から現代までの主な翻訳家の列伝と「参考文献一覧」、「古典作品翻訳一覧」、「原語別翻訳家目次」、「五十音別翻訳家目次」が付いている。が、人名・事項索引がない。このため翻訳家ではないが、その翻訳家と関係がある人物はすぐには探せない。
「古典作品翻訳一覧」を見て、兼ねて私が指摘してきたように、同じ作品の翻訳が実に沢山あるのに驚いた。
英語ではデフォーの「ロビンソン・クルーソー」は岩波文庫に2種、新潮文庫、旺文社文庫、角川文庫、集英社文庫、角川文庫(いずれも違う訳者)に平野啓一訳、坂井晴彦訳、海保眞夫訳、増田義郎訳がある。
ドイツ語ではゲーテの「若きウェルテルの悩み」は16種の訳がある。
フランス語ではユーゴー「レ・ミゼラブル」には、黒岩涙香「ああ無情」を入れると10種類の訳がある。
ロシア語で、ドストエフスキー「罪と罰」も同様だし、ギリシア語のホメロス「イリアス」、イタリア語のダンテ「神曲」、中国語の「水滸伝」、「三国史演義」、「西遊記」、「金瓶梅」も同様だ。
科学の世界ではこういう現象はない。D.ボア=レーモン「自然認識の限界・宇宙の七つの謎」(岩波文庫)やアインシュタイン「相対性理論」(岩波文庫)は読んでも分かる人が限られており、他に翻訳書があるとは思えない。
例外的にファラディー「ロウソクの科学」には岩波文庫版と角川文庫版がある。これはクリスマスの子供向け講演だからだ。
私もロング「病理学の歴史」、ローズ「トーマス・ホジキン伝(タイトルは死者の護民官)」を翻訳出版したが、これらを新たに翻訳する人が出てくるとは思わない。
翻訳は原本を読んで、まだ翻訳されておらず、日本の学問の進歩に役立つと思えばこそやるので、既刊の翻訳書に若干の誤訳があるからといって、自分の貴重な研究時間を新訳のために使うことを科学者ならしない。英語の原本を入手して、それを読めばすむことだ。他の言語ならLoeb対訳文庫がある。
谷沢永一の追悼集「朝のように、花のように」を読むと、冒頭に丸谷才一が「それにしてもあの溢れるほどの才能、おびただしい情熱を何と無駄なことに浪費したものだろうと惜しむ」と書いている。
これはその次ぎに追悼文を寄せている渡部昇一に誘われて、「民族派の論客」として活躍したことを指しているのである。渡部昇一はドイツ留学の後、W.ゲルリッツ「ドイツ参謀本部攻防史」(学研M文庫)を種本に「ドイツ参謀本部」(中公文庫)を書いた男だ。
私の翻訳は地名、人名、事実の確認までやって邦訳するから、大変手間がかかる。「ホジキン伝」では1832年以後のホジキン病に関する主な論文を全部取り寄せて読み上げた。大英図書館にしかないものもあった。
ノルウェーの「クリスチャニア」という都市名は「病理学の歴史」原文にはあるが、今は無い。1924年に「オスロ」と名称変更したからである。しかし著者のロングは1927年初版本の間違いをそのままに、1965年版を出している。こうしてすべての行をチェックするから、索引は新しく作ることになる。それがまた大変である。
だから私の著訳書は5年に1冊出せれば良い方だ。
同じ心血を注ぐなら、何で先行翻訳のある本を訳すのだろうか?本邦未訳のもっと良い本があるだろうに…
どうせ著作権が切れたものを訳すのなら、邦訳では地図を入れるとか、人脈・家系関係図をいれるとか、章ごとに「あらすじ」を入れるとか、もっと工夫があるだろうにと思うが、これが理系と文系の発想の違いか?
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