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Arsène Lupine

2021-06-18 00:43:29 | 🇫🇷文学
初出:1926年12月~1927年1月「ル・ジュルナル」紙連載 同年7月単行本化
他の邦題:「青い目の女」「青い眼の女」「湖底の宮殿」(保篠訳)「青い目の少女」「緑の目の少女」(ポプラ)
◎内容◎

 ラウール=ド=リメジーことルパンは、パリの町中で不審な男に後をつけられるイギリス美女と、同じ男に言い寄られる緑の瞳をもつ美少 女とを見かける。イギリス美女のあとを追ってラウールは列車に乗り込むが、押し入ってきた謎の男たちに襲われ、イギリス美女は死んでしまう。現場近くで捕 まった一味の一人はあの緑の目の美少女。ルパンはついつい彼女を逃がしてしまうが、続く別荘での強盗事件の現場にも彼女の姿があった。
 緑の目の令嬢、オーレリーをめぐって暗闘する男たち。オーレリーのその緑の瞳に隠された記憶の中に、彼らが狙うなにか重大な秘密が眠っているらしいのだ。ルパンはオーレリーを救い、その謎を解き明かすために冒険を開始する。


【師匠シリーズ】引き出し

2019年8月11日
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【霊感持ちの】シリーズ物総合スレ8【友人・知人】

137 :引き出し やりなおしorz ◆oJUBn2VTGE:2009/02/22(日) 22:55:25 ID:vbLvaS0Q0
大学三回生の夏だった。
早々にその年の大学における全講義不受講を決めてしまった俺は、バイトのない日には暇を持て余していた。
特に意味もなく広辞苑を一ページ目から半分くらいまで読破してしまったほどだ。
全部をやりとげないあたりがまた俺らしい。

ともかく、そんな屈折した毎日に悶々としていたある日、知り合いから呼び出しを受けた。
かつて都市伝説などを語らう地元の噂系フォーラムに出入りしていた時に出会った、音響というハンドルネームの少女だ。
このあいだまで別の名前でネット上にいたらしいが、
『音響』時代を知る俺と二年振りに再会してから、なにか思う所があったらしく、
またそのハンドルネームを名乗っているようだった。
いったい何の用だと訝しく思う気持ちもあったが、
黙って座っていると、周囲の男どもがチラチラ視線を向けてくる程度には可愛らしい容姿をしている彼女なので、
悪い気はしない。
ただ、その視線の半分は、ゴシック調で固めたそのファッションに向けられる、好奇の目であったかもしれないのだが。

指定されたカレー屋で待ち合わせ、少し遅れてやってきた彼女ととりとめもない話をする。
カレー屋陰謀論という、頭の痛くなりそうな理論を淡々と語る彼女に、
「カレーを食べた後に犯罪を犯す人が多いというのは、単なる蓋然性の問題。
 それだけ食される機会の多い料理だということ」
と反論すると、
「蓋然性ってなに」と聞いてくる。
「蓋然性ってのは、つまり、ネジにたとえるなら、
 その絶対量からしてバギーちゃんのかけらというよりは、ポセイドンの部品なんじゃないかなってことだ」
と言うと、
「バギーちゃんってだれ」と返される。
「ドラえもんの大長編って見たことない?」と聞くと、「ない」。
そこで会話が終わった。
歳は確か俺の四つ下のはずだ。これもジェネレーションギャップなのか。

140 :引き出し ◆oJUBn2VTGE:2009/02/22(日) 23:01:49 ID:vbLvaS0Q0
俺もリアルタイムではないが、普通、ドラえもんの映画版は、ビデオや漫画で観ているのものだと思い込んでいた。
なかなか本題に入らない。イライラしてくる。
そう言えば、いまさらのようだが、この女は信用ならない。
過去に騙されて恐ろしい目にあったことが、一度ならずあったからだ。
デートしよう、などというメールの文面は、こんにちは程度の意味に取るべきだろう。

心理的な壁を作ろうと、少し身を引いた時だった。
急に音響が立ち上がり、「こっちこっち」と入り口に向かって手を振った。
黒い。俺には理解できない黒いファッションに身を包んだ、十六,七歳と思しき少女がやってきた。
音響と同質の格好だが、もっと黒い。
そしてあろうことか、髪は銀色。薄っすらパープルの口紅。そして、エメラルドグリーンのカラーコンタクト。
少女は重そうなスカートを翻して、俺の前の席についた。
「るりちゃん。なんかこむづかしい字を書く」
少女は紹介に軽く頭を下げてから、その音響に顔を寄せてひそひそと耳打ちをする。
「王は留まり、王は離れる、って」
音響は頷きながらそう言った。
頭の中で字を思い浮かべる。『瑠璃』か。
それが本名なのかナントカネームなのかわからないが、とりあえずこちらも会釈せざるを得ない。
「で、なにこれ」
俺の言葉に音響があっけらかんと言う。
「紹介するって言ったでしょ」
頭を抱えそうになる。
あれか、ともだちを紹介するってやつ。
確かにそんな話をした覚えがあるが、俺は別の世界の人間とつきあう自信はない。
なにより俺には今、特定の相手がいる。

142 :引き出し ◆oJUBn2VTGE:2009/02/22(日) 23:06:05 ID:vbLvaS0Q0
困惑した顔を隠さない俺に、瑠璃ちゃんとやらは目をぱちぱちと瞬いて、哀しそうな表情を見せた。
もっとも、それが怒っている顔だと言われたらそうとも見えてしまうだけの、微妙な変化に過ぎなかったのであるが。
「紹介するって言ったの忘れた?メチャ可愛くて困ってるともだち」
ちょっと待った。修飾語が一つ増えてる。
紹介されるのは確か、『メチャ可愛いともだち』だったはずだ。
「困りごとの相談がある?」
黒いのが二人して頷く。
きた。こんなことだろうと思った。
音響は俺のオカルト道の師匠並みに、あやしいものへ首を突っ込みたがるフシがある。
そして、その尻拭いをこれまでに二度してしまったのが運の尽きで、どうやら懐かれてしまったのかも知れない。
「ちゃんと言ったでしょ。可愛くてメチャ困ってるともだち紹介するって」
修飾語の順番が変わった。
猛烈に嫌な予感がする。
注文したカレーが来たので、とりあえず食べることにした。
これが本格的というやつなのか、やたら具が少なく、複雑なスパイスの風味が鼻に来る。
俺は目の前で黙々とカレーを食べている二人の少女を窺う。
あんな服どこで売っているのだろうか。
それに、服に合わせた化粧をしているようだが、外に出るたびにこれではさぞや時間が掛かることだろう。
瑠璃と名乗る少女がふいにスプーンを持つ右手を止めて、「迷惑ですか」という目で問いかけて来た。
はっきり「そうだ」と言えないあたり、自分で自分が嫌いになる。
それにしても、その黒ずくめの服装に白い肌、銀色の髪に緑の目と揃うと、まるで人形のようだ。
音響の方がまだファッションの枠の中で留まっている気がする。

143 :引き出し ◆oJUBn2VTGE:2009/02/22(日) 23:08:52 ID:vbLvaS0Q0
その不思議な色の瞳を見ていて、ふいに思い出す単語があった。
『緑の目の令嬢』
なんだっけこれは。頭の中で数回繰り返す。みどりのめのれいじょう。
そうだ思い出した。モーリス・ルブランの小説、ルパンシリーズの一編だ。
怪盗アルセーヌ・ルパンが緑の目の少女に出会い、彼女の受け継ぐ莫大な遺産をめぐる事件に関わっていく話で、
確か湖の底に隠された古代ローマの遺跡なんかが出てきた記憶がある。
そう言えば昔読んだ時には、頭の中で勝手に、緑の目の少女のビジュアルに、
孫の方の『カリオストロの城』に出てくるヒロイン、クラリス姫を嵌め込んでいた。
その少女は名前を何といっただろう。忘れてしまった。結構好きだったのに。
カレーをスプーンで掬い、スープのように啜ることしばし。思い出した。
「オーレリーか」
ボソリと口をついて出てしまった。
音響がそれを聞いて驚いた顔をする。
「どうして知ってるの」
その驚き様にこっちの方が驚く。
「俺がルパン読んでちゃ悪いのか」
「別に悪くはないけど」
なんなんだ、こいつ。ドラえもんの大長編は見てないくせに、ルパンシリーズは読んでるのか。
確かに別に悪くはないが。なんだか釈然としない感じだけが残った。

「で、なにがあった」
食べ終わって、水に手を伸ばす。
音響が瑠璃を肘で小突く。瑠璃が音響の耳元に唇をよせて、ボソボソと話す。やがて音響がこちらを向く。
「瑠璃ちゃんは低血圧なのよ。で、朝起きた時にしばらく動けないんだって。
 その目が覚めてボーっとしてる時に、部屋で変なことが起きるんだって」
また続きを音響に耳打ちする。

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145 :引き出し ◆oJUBn2VTGE:2009/02/22(日) 23:11:58 ID:vbLvaS0Q0
「瑠璃ちゃんのベッドのそばに小さいタンスがあって、中に下着とか小物とかが入ってるんだけど、
 その引き出しのひとつが開いてるのね。
 夜寝る前には、全部閉まってたはずなのに」
この『初対面の人には声を聞かせません』とでも言いたげなキャラ作りに、だんだんと苛立ってきた。
格好といい、自分が普通じゃないことをそんなにアピールしたいのか。
俺の苛立ちを気にもせず、音響の通訳は続く。
俺はどっちの顔を見ながら聞いていればいいのか迷いながら、交互に視線を向けた。
「あれっ?変だなって思ってると、その開いた引き出しから何かがチラッと動くのが見えて、
 そこに意識を集中していると、ゆっくりじわじわ、なにか白いものが中から出てくるのよ。
 すぐに人間の手だってことはわかるんだけど、もちろん、誰かが中に隠れちゃえるような引き出しじゃないし、
 指が見えて、手のひらが見えて、手首が見えて、腕が見えて、肘が無くて、ズルズルありえないくらい伸びて。
 でも動けなくて。目が逸らせなくて。怖くて。
 それから、その手が何かを掴んで、またズルズル引き出しに戻っていって、
 ズルって全部隠れて見えなくなったら、やっと起きられるの」
デジャヴを感じた。
何故だろう。ゾクゾクした。この話はまるで、金縛中に起きるバッドトリップのようだ。もしくはただの夢か。
「それ、起きられるようになるまでは、ほんとに動けないのか? 
 それから、起きられるようになるのって、急に? 
 そこで、開けてたはずの目が、もう一度開いたような感覚がない?」
音響が通訳する。
動けないというよりは、動きたくないって感じの十倍濃縮版。起きるのは急に。そんな感覚ない。
『動きたくない』という感覚は、金縛りのパターンからは外れるようだ。
金縛りはたいていの場合、『動きたい』はずだ。
それに、入眠時幻覚の類にしても、朝の目覚めの時におこるというのはよくわからない。
そんなこともあるのだろうか。覚醒時幻覚とでもいうのか?

149 :引き出し ◆oJUBn2VTGE:2009/02/22(日) 23:16:34 ID:vbLvaS0Q0
低血圧というのがそもそもあまりイメージがわかない。
それに、その『手』はなんだ。
「動けるようになってから、引き出しを見たらどうなってる?」
「開いたまま。中を覗いてみても何もない。下着とか靴下とかだけ」
「その手が掴んで、タンスの中に引きずり込んだものって、なに?」
「わからない。覚えてない。多分、それを見ている時には知ってたはずなのに、消えた時には思い出せなくなってる」
なるほど。何が無くなったかも分からないわけだ。
つまり、この出来事は、何も消えたものがなくても成立する。
ふと、以前読んだ本のことを思い出した。
そこには、夢は不要な短期記憶を脳の引き出しの奥深くに沈めて、
頭の中を整理している最中に再生される、フィルムの断片なのだと書いてあった。
断片の中には脳を活性化させる強い記憶もあり、
それらを合成し、理解しうるものに再構築されたものが、レム睡眠時に上映されているもので、
そこからカットされた断片は、脳の記憶野を圧迫しないように、『忘れられていく』のだと。
それが本当のことかは知らない。
ただ俺は『引き出しの手』に、なにか寓意的なものを感じざるを得なかった。
「もしかして、その手が掴んでいったものって、自分にとって要らないものだったんじゃない?」
二人でボソボソと相談でもするように耳打ちしあってから、瑠璃は首を左右に振る。
「大切なものだったかも知れない。それさえ分からない。
 ベッドから体を起こして、自分の部屋を見回したら、
 何か大事なものを無くしてしまったような気がして、とっても悲しくなる」
今聞いているこの話が、単純に彼女たちの嘘ではないとしたら、気持ちの悪い話だ。ますますゾクゾクしてくる。
嫌いではない。この感覚は。
「それが、何度も続けて起こるのか」

151 :引き出し ◆oJUBn2VTGE:2009/02/22(日) 23:20:34 ID:vbLvaS0Q0
「一ヶ月くらい前から。二,三日にいっぺん。あ、でも、最近は毎日かも、だって」
俺は少し考えた。カンカンと、使わなかったスプーンの柄で机を叩く。
「本当に何かが部屋から消えているのか、知る方法がある」
二人の少女がこちらをじっと見ている。
スプーンで目の前を払う真似をして続けた。
「その部屋から、ベッドと引き出し以外、全部外に出す」
少しして息を吸う音がかすかに聞こえた。
「そうすれば、もし手が出てきて、『何か』を掴んで引き出しに消えていったと感じたなら、
 その喪失感は錯覚だ、ということになる」
何も部屋になかったことは確認済みなのだから。
俺は上手いことを言ったつもりだった。我ながら良いアイデアだと思った。
けれど、瑠璃が体験したというその不可解な出来事を、夢、もしくはなんらかの幻覚だと半ば決め付けていた俺と、
そうではない彼女自身との間には、大きな発想の隔たりがあったのだ。
瑠璃はふるふると震えながら、音響の耳元に口を寄せる。
「そんなことをして、手がどこまでも伸びてきて、ベッドの上の私を掴んだら……」
ゾクリとした。空気が張り詰める。
しまった。油断した。
経験上、過剰な怯えは、本人と周囲の人間に良くない影響を及ぼす。中でも一番困るのは、泣かれること。
「ひどい」と言って、音響が隣の少女をかばうような仕草をした。
そして「どういうつもり」と冷たく言い放ち、俺を軽く睨む。
どういうつもりも何も、俺は協力的に解決策を提出したつもりだった。
だがそれは、他人の悩みを真剣に考えないオトコという、不本意なレッテルを相手方に貼らせただけだった。
また、負い目だ。

153 :引き出し ◆oJUBn2VTGE:2009/02/22(日) 23:25:24 ID:vbLvaS0Q0
この音響という少女には、いいように振り回されているような気がする。
「わかった。それはナシ」
肩を竦める。
結局、俺は気がつくと、その手の出てくるという引き出しのある寝室で、現地調査することを約束させられていた。

その二日後だ。曜日は土曜。
俺は欠伸をしながら自転車をこいでいた。まだ夜も明けやらぬ早い時間。
暗い空の深みのある微妙な色彩に目を奪われながら、微かな肌寒さにシャツの裾を気にする。
今日は暑くなるとニュースでやっていたはずなのに。
ガサガサと妙にかさ張る手書きの地図を苦労して広げ、目的地を確かめる。
なんだ。もうすぐそこじゃないか。
そう思いながら角の塀を曲がると、薄闇の中に浮かび上がる、小綺麗な白い三階建てのマンションが目に入った。
おいおい。高そうな所に住んでるじゃないか。
高校生の身分で一人暮らしと聞いて何様だと思ったが、もしかすると親がかなりの金持ちなのかも知れない。
駐輪場に自転車を停め、階段を上る。向かうは三階の角部屋だ。実にけしからん。

指定されたドアの前に立つが、まだ音響の姿が見えない。ちょうど待ち合わせの時間なのに。
まだ周囲は暗く、朝のこんな早い時間に、女性の部屋の前でうろうろしているのは実に気まずい。
辺りを気にしながら、念のためにドアノブを捻ってみたが、やはり鍵が掛かっている。
音響を待つしかないようだ。その場でしゃがみこむ。
何故俺はこんなところでこんなことをしているのだろう。そう思いながら、憂鬱な思いで額に指をあてる。
要は、寝起きにタンスの引き出しから手が出てくる幻覚を見るという、
緑の目の令嬢瑠璃の悩み解決のための現地調査だ。

156 :引き出し ◆oJUBn2VTGE:2009/02/22(日) 23:30:36 ID:vbLvaS0Q0
完璧を期するなら、ずっと部屋の中で寝ずの番をしていた方がよいのだろうが、
初めて会ったうら若き少女の部屋で夜を明かすなど、俺にしても避けたいものがあった。
聞くところによると、目覚ましを掛けなくとも、彼女はいつもだいたい決まった時間に目が覚めるのだという。
ただ低血圧なもので、そこから起き上がるまでが長いのだとか。
そして俺と音響は、その目が覚める時間の少し前に部屋に行き、
実際にその場でなにが起こっているのか確かめる、という作戦だった。
なのに、その音響が来ない。今日のために合鍵を渡されているのはヤツなのに。寝坊しやがったのか。
ドアの前でイライラしながら待つこと二十分。小さな足音とともに、ようやく音響が姿を現した。
「アホか」
思わず毒づいていた。
近づいてくるその姿は、先日のカレー屋の時とほとんど変わらない、ゴシックな風体だったのだ。
待ち合わせの時間に遅れてまで譲れないのか、その格好は。
問い詰めて言い訳を聞くのも空しくなるだけなので、
「いつも可愛いなあ」と嫌味だけ言っておいて、ドアを指差し開けろとジェスチャーをする。
音響はロクに謝りもせずに鍵を取り出すと、ドアノブにあてる。
金属が擦れる小さな音とともにドアが開かれ、二人してその中に滑り込む。
玄関からして広い。まずそこに驚く。俺の部屋とどうしても比較してしまう。
暗い中を半ば手探りで進む。もちろん足音を殺して。
余計な物音を立てて、中で眠る少女の普通の目覚めを妨げてはいけない、という配慮からだ。
音響が摺りガラスの嵌め込まれたドアの前に立ち、唇に人差し指を立ててみせる。

157 :引き出し ◆oJUBn2VTGE:2009/02/22(日) 23:33:58 ID:vbLvaS0Q0
分かっている、と俺が頷くと向き直り、そっとノブを引いていく。
視界にわずかな光が差す。部屋のカーテンの隙間から、薄っすらとした朝日が漏れている。
もうすぐ夜が明けてしまう。余計な時間を掛けたからだ。
そう思ったのも束の間、目の前に広がる室内の様子に唖然とする。
ダイニングとリビングを兼ねたような間取りのかなり広い部屋に、所狭しと家具や物が並べられている。
明らかに普段の生活上のものではない。
部屋の真ん中や居住空間を侵すような場所に、それらが置かれていたからだ。
散らかってるのとは違う。強いて言えば、引越しの最中のような印象だ。
ただ、普段この部屋にあるらしい家具類は、きちんとあるべき場所に収まっているように見える。
要するに『多い』のだ。どこか別の場所から余分な家具が運び込まれているのか。
ハッとした。
二日前のカレー屋で話したこと。
『その部屋から、ベッドと引き出し以外、全部外に出す』
却下されたはずの俺の提案を、彼女は俺たちが来るのに合わせて実践してしまったのか。
見ていてくれている人がいるからと安心して。
嫌な予感がした。
その無造作に置かれた家具たちを、幾筋かの淡い光線が照らす。
音響が硬い表情で俺のシャツを引っ張る。その指さす先には、別の部屋に通じるドアがあった。
寝室か。
ゴクリと唾を飲み込む。
家具はこの向こうの部屋から持ち込まれたものに違いない。ということは、この向こうには……

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159 :引き出し ◆oJUBn2VTGE:2009/02/22(日) 23:39:50 ID:vbLvaS0Q0
音響が静かにドアを開けていく。
後に続く俺の目の前に、薄暗い室内が広がる。手前の部屋よりもカーテンが厚いのか。
それでもそこには、夜明けの空気が満ち始めていた。
ガランとした部屋。異様な光景だった。
ベッドと小さなタンスだけ。あとはなにもない。けっして狭くない室内がさらに広く感じる。
そして、そのタンスの一番上の引き出しが開いている。
寒気がした。どこか遠くから耳鳴りが聞こえ、そしてフェードアウトしていくように消えていった。
ひっ、という息を飲む声がする。
音響が震える指で俺のシャツの裾を掴んでいる。
その視線の先にベッドの膨らみがある。その掛け布団の中から、小さな顔が覗いている。
その顔はタンスの方を見ている。首を捻った格好で。
目が、開いている。
まるで自分の意思ではないように、周囲の筋肉が強張ったまま、目が見開かれているようだった。
その目はタンスの一番上、一つだけ飛び出た引き出しを凝視している。
異常な気配が部屋を包んでいる。
俺と音響の息遣いだけが聞こえる。
二日前の話を聞いた段階では、夢の可能性が高いと思っていた。だが、現実には彼女の目は開いている。
ということは金縛りか。
だが……
今、この瞬間。
ベッドと引き出しの間の空間に、俺の目には何も見えないその空間に、彼女は何かを見ているのだろうか。

161 :引き出し ◆oJUBn2VTGE:2009/02/22(日) 23:42:20 ID:vbLvaS0Q0
部屋の入り口で動けないでいる俺たちの前に、ベッドの中で動けないでいる少女の、
声にならない悲鳴が響いて来るような、そんな幻聴さえするようだ。
だが、何も、何も見えない。
見えないのに。彼女の大きく開かれた目は今、何を見ている?
悲鳴が上った。
脳天を直撃するショックがある。音響が頭を抱えて叫んでいる。恐怖心に耐え切れなくなったのか。
だが次の瞬間、俺の身体は無意識に反応した。
自分でもよく分からないことを喚きながらタンスに駆け寄り、引き出しを殴りつけるようにして閉める。
それに引きずられるように動いた音響が、少し遅れてベッドの上の少女に覆いかぶさる。
「起きて、起きて」
叫ぶように繰り返す。
俺は背後のタンスを気にしながら、その様子を見守る。
やがて、硬直したように首を曲げて目を開いていた瑠璃が、ビクンと全身を震わせると、小さく息を吐いた。
「起きた?起きた?」
音響が掛け布団を剥ぎ取って、その肩を揺さぶる。
軽い痙攣のような震えがその顔に走った後、瑠璃は小さく頷いた。とりあえずは大丈夫のようだ。
俺は少し落ち着いて、タンスの方を振り返る。
あの異様な気配はどこかへ行ってしまっていた。柔らかな木目調の、ただのありふれたタンスだ。
それでも身構えながら、そっと一番上の引き出しに手を掛ける。
恐る恐る引いていくと中には、白い布が見えるばかりだった。暗くてよく見えないが、靴下の類のようだ。

167 :引き出し ◆oJUBn2VTGE:2009/02/22(日) 23:45:11 ID:vbLvaS0Q0
恐れるようなものはなにもない。あの気配は錯覚だったのか。
その時、背後からまた悲鳴が上った。全く予期してなかったので、飛び上がるほど驚いた。
それでも振り返り、ベッドの方を見る。
音響が口を押さえながら、震える指先で瑠璃の右手首を指している。
パジャマの裾から細い手首が覗いているのだが、その異様なほど白い肌に、濃い痣がくっきりと浮かび上がっていた。
それは人間の手の平の形に見えた。手首を掴み、ありったけの力で握り締めたような痕跡……
泣き出しそうなほど怯えている音響に対し、当の本人はきょとんとして、
事態を把握しているのかどうかも分からないような顔をしている。
低血圧の人間の寝起きだからなのか。
俺はとっさに暴漢の可能性を考えた。一人暮らしの女性の部屋に忍び込む不埒な輩。
だが入り口には鍵が掛かっていた。それはこの俺自身確かめている。
すぐにカーテンの隙間に手を突っ込み、この寝室の窓に鍵が掛かっているのを確かめる。
そして、二人を残したまま隣の部屋に移動し、
すべての窓とベランダへの出入り口に、鍵が掛かっているのを確認した。
念のために、風呂やトイレの中も勝手に開けて、中に誰も潜んでいないか調べる。
広いとは言っても、所詮マンションの部屋だ。すぐに、俺たち三人以外誰もいないことは分かる。
ということは、俺と音響がやってくるまで、このマンションの部屋は密室状態だった。
そしてあの痣を見るに、ついてからさほど時間が経過していないだろう、ということを合わせて考えると、
合理的に出せる結論は一つしかない。
俺はすぐに寝室に取って返し、まだベッドから起き上がらない瑠璃の右手首を掴む。
そしてじっくりとその痣の跡を見る。
特徴的な部分がある。四本の棒とその向かい側の一本の棒。その位置関係をしっかりと確認する。
左手だ。

169 :引き出し ◆oJUBn2VTGE:2009/02/22(日) 23:48:30 ID:vbLvaS0Q0
彼女の右手の手首にこの痣をつけたのは誰かの左手。
そして、その誰かとは……彼女自身。
「なにするの」
音響が抗議の声を上げる。
これは自傷行為の一種なのか。
引き出しから出てくるという白い手も、彼女の妄想の産物なのだろうか。
あるいは、毎晩引き出しを開けていたのも彼女自身なのかも知れない。
自分のしていることを、まるで他人にされているように感じる精神障害があるらしいが、
この少女もそういう心の病を抱えているのだろうか。
そう考えていると、逆にゾッとするものがあった。
だが次の瞬間、俺の目は信じられないものを見た。
瑠璃が、俺に掴まれた右手を取り戻そうとするように、もう片方の左手をのろのろと伸ばして来た時だ。
そのパジャマの裾がずれて手首が露になる。
そこには右手の手首と全く同じ形の痣が浮かんでいた。
思わず息を飲んだ。
痣。
左手首にも痣。
向かい合う四本の棒と一本の棒。思い切り握り締められたような跡。
左手首に左手の跡?
俺は自分の手の平を凝視して、人間の指の構造を確認する。
あの痣は間違いなく左手で付けられたものだ。
どうすれば自分の左手首に、左手で握った痣を付けられるんだ?
それとも、密室状態のこの部屋の中に彼女以外の誰かがいて、そして忽然と消えたというのだろうか。
俺は自分の背後にあるタンスに、再び異様な気配を感じた。
だがそれは、俺の錯覚に過ぎないのだろう。ただの恐怖心が生み出した幻に……

171 :引き出し ◆oJUBn2VTGE:2009/02/22(日) 23:51:45 ID:vbLvaS0Q0
瑠璃はその自分の左手首の痣に気づき、そこにじっと視線を落としていたかと思うと、一言ぽつりと呟いた。
「He seemed to have come to this room……」
俺は彼女の顔を改めて見る。
その時、カーテンから射し込んだ光が、その瞳に反射してキラリと輝いた。
今さらのように気づく。二日前と目の色が違うことに。
あの時は確かにエメラルドグリーンだった。いかにもカラーコンタクトらしい安っぽい色をしていた。
けれど今、目の前にいる少女の目は、鮮やかなブルーだ。
カラーコンタクトをしたまま眠りはしないだろう。
いや、そういう常識を抜きにしても、それが彼女のナチュラルな目の色であることは直感で分かった。
「日本人じゃ、ないのか」
そう呟いた俺に、音響が横から口を尖らせる。
「だから通訳してたじゃない」
斜めに射し込む明け方の光の中に、人形のような顔をした少女が微かに微笑んだ気がした。

その後の顛末は、また別の機会に話そう。
この少女が持ち込んだ事件は、簡単に語れないほどやっかいな事態を引き起こして行くのだから。
そのためにはもう少し、それに関わる過去を掘り起こす必要があるだろう。
ただ、一つだけ付け加えることがある。
その土曜日から数日後、俺は古本屋に立ち寄った。
そこでふと思い出して、ルブランのルパンシリーズの小説を探してみた。また読みたくなったのだ。
だが、なかなか見つからない。
うろうろと店内を歩き回ることしばし。盲点だった入り口近くでそのコーナーを発見した。

174 :引き出し ラスト ◆oJUBn2VTGE:2009/02/22(日) 23:54:49 ID:vbLvaS0Q0
しかしそこにあったのは、南洋一郎の翻訳による子ども向けのルパンシリーズだったのだ。
がっかりしながらも、小学生のころに何冊か読んだことを思い出して懐かしくなり、一冊抜き出して手に取ってみた。
やっぱり、今読むと平仮名が多く、表現も容易でなんだか違和感がある。
くすぐったくなり、棚に戻す。
そして、その近くのあったタイトルが目に留まった。
それを見た瞬間、笑い出してしまう。だって、おかしいから。
あの時カレー屋で音響が驚いたわけが分かったのだ。俺が『オーレリー』と呟いた時だ。
緑の目の令嬢とでも称えるべき瑠璃の容姿をあげつらった俺に対し、音響は『どうして知ってるの』と言った。
同じルパンシリーズを読んでいる人間だと、お互いここで分かったわけだが、その時の彼女の言葉のニュアンスは、
俺がそう受け取ったように、『どうしてあなたもその小説を読んでるの』という単純なものではなかったらしい。
そこには、ある隠された真実を、一目で見破られたことへの驚きが込められていたのだ。
俺は笑いながら、そのタイトルの背表紙を棚から抜き出す。通り過ぎる客が変な目でこっちを見ている。
本の中身を確認して、やっぱりと思った。
ドラえもんも見てないくせに、ルパンシリーズは読んでるなんて生意気だと思ったのだが、どうやら早とちりだったらしい。
音響は、この子供向けの南洋一郎訳のシリーズを読んだだけだったのだ。
俺が別の翻訳家による邦題、『緑の目の令嬢』として記憶していた本を、
彼女は南洋一郎の翻訳によるタイトルで覚えていたらしい。
頁を閉じ、薄く埃を被っているその本の表紙を軽く息で吹く。
『青い目の少女』
なるほどね。
また、笑った。

◎登場人物◎(アイウエオ順)

☆アルチュール=ルボー
シャンパンのブローカー。列車内で死体となって弟と共に発見される。

☆アンシベル夫人
ギョームの母親で未亡人。

☆エティエンヌ=ダストゥー
オーレリーの祖父。秘密の莫大な遺産の鍵を孫娘の記憶に残す。

☆オーレリー=ダストゥー
美しい緑の目をもつ令嬢。彼女が受け継ぐ何か莫大な遺産があるらしい。

☆ガストン=ルボー
シャンパンのブローカー。列車内で死体となって兄と共に発見される。

☆ギョーム=アンシベル
オーレリーの財産を狙う若い男。

☆コンスタンス=ベークフィールド
イギリス貴族の娘で記者。実はヨーロッパをまたにかけた大泥棒。

☆ジャック=アンシベル
ギョームの父親。

☆ジョド
オーレリーの財産を狙う男。

☆ジョドの甥
叔父の悪事の片棒をかつがされる少年。

☆ソビヌー
マレスカルの部下の刑事。大臣推薦で配属される。

☆大臣夫人
マレスカルを公然と保護する某大臣の妻。

☆タランセ侯爵
オーレリーの祖父ダストゥーの友人。「カラバ侯爵」でもある。

☆トニー
マレスカルの忠実な部下の刑事。

☆バランタン
オーレリーに仕える老召使。

☆ビクトワール
ルパンの乳母。

☆フィリップ
マレスカルの部下の刑事。

☆ブレジャック
内務省司法局長。オーレリーの義父でマレスカルの上司。

☆ベークフィールド卿
イギリス貴族。休暇中モンテ・カルロに滞在。

☆ラウール=ド=リメジー
冒険家の若き男爵。もちろん正体は怪盗紳士。

☆ラボンス
マレスカルの部下の刑事で、その腹心。

☆リュシー=ゴーティエ
ロワイヤル劇場の新人歌手

☆レオニード=パリ
オペレッタ女優。

☆ロドルフ=マレスカル
内務省の国際捜査部警視。かなりの洞察力をもつ名刑事だが、ポマード頭のプレイボーイでうぬぼれ屋。

◎盗品一覧◎

◇ジュバンスの泉
薬効のあるミネラルウォーターがわき出る鉱泉。そのありかは湖の下のローマ遺跡。

<ネタばれ雑談>

☆「ルパン空白時代」を語る一編

 『緑の目の令嬢』が発表されたのは1926年。ルパンシリーズ第1作が発表されてから実に20年が過ぎ、ルパンシリーズの仕切り直しともいえた前作『カリオストロ伯爵夫人』からほぼ3年のブランクを置いての発表となった。その3年間、ルブランは何も書いてなかったわけではなく、1924年に非ルパンものの短編『プチグリの歯』を発表しているし(のち英語版でルパンものに改変)、1924年末から25年年明けにかけて非ルパンものの長編『バルタザールのとっぴな生活』(これまた日本でルパンものに改変された)を発表している。それでも「ルパン」からはしばらく遠ざかっているし、以前に比べればややペースが落ちた気がするのも確かだ。

 本作の時代設定は『八点鐘』同様に、またも『虎の牙』よ りもずっと前の前日談、『奇岩城』と『813』の間に挟まれた「ルパン史空白期」となった。第一次世界大戦が始まる前の平和な時代、「ベル・エポック」を またも舞台にしたわけだ。ルブランとしては『虎の牙』の後の時代は描きにくかったろうし、大戦の傷跡が深いこの時期ではかつての「良き時代」を懐かしむ読 者のニーズに合わせたというところもあっただろう。
 では『緑の目の令嬢』の時代設定は具体的にいつなのか。手がかりは本文中に四ヶ所ある。物語の序盤にラウールことルパンが「34歳の男」と表現され、「第一次大戦の数年前の四月末」との明記がある。物語の前半での別荘強盗事件の日付が「4月28日水曜日」となっている。そして物語の終盤、ラウールとオーレリーがローマ遺跡に向かう日付は「8月15日土曜日」だ。ところが困ったことに、万年暦で調べてみるとこの二つを同時に満たせる年は存在しない。ルブランがチェックを誤ったのではないかと思われる。
 「4月28日水曜日説」を採用すると、これは1909年の事件ということになる。だが「8月15日土曜日説」を採用すると一年さかのぼる「1908年」だ。『奇岩城』が1908年4月23日木曜日から始まる物語と確定していて、これと『緑の目の令嬢』の冒険が同時期に重なり合うことはたとえ超人ルパンであろうと物理的に不可能だ。ということで、ここでは一応「1909年4月~8月の事件」ということにしておきたい。ルパンの生まれた年が1874年と確定しているが彼が5月以降の生まれであれば「34歳の男」と書かれていることにも矛盾は生じない。

 『緑の目の令嬢』はルパンシリーズの後期作品の中では割と名前を知られている方だ。その理由はたぶんに「あのアニメ」(これについては後述)の 存在が大きいと思われるが、それを抜きにするとシリーズ中ではそれほど目立たない、小粋ではあるが小粒な作品だ。ルパンの冒険としてはそれほど大がかりな ものではなく、大した強敵も登場せず、推理物としてもそれほど工夫がある方とは思えない。系譜的には『八点鐘』につらなる恋愛冒険小説といったところで、 正直なところ主人公がルパンでなくても…と思うところがなくもない(もちろん「ルパンらしさ」もちゃんとあるんだけど)。


☆魅力的なヒロインたち

 そんな中で最大の魅力はタイトルにもなっている「緑の目の令嬢」、ヒロインのオーレリー=ダストゥーのキャラクターだろう。21歳とシリーズ中最年少のヒロインであり(「うろつく死神」の女の子が一応同い年か)、 町でも目を引く金髪・緑眼の可憐な美少女で、優しく清純な修道院寄宿生、はたまた劇場で見事な美声を披露する歌手でもある。莫大な遺産を受け継いでおり、 それを解く鍵を記憶の奥底に持っているため男たちがその争奪戦をしているという謎めいた設定もあって、総じて「守ってあげたくなるタイプ」、「あのアニ メ」で絶大な人気を誇るヒロインの原型と見れないこともない。

 最初はラウール(ルパン)に対して警戒をみせるが、やがて一途な純愛を捧げるようになるあたりは『八点鐘』のヒロイン・オルタンス=ダニエルのパターンでもある。そして相思相愛の関係になりながら、「あなたは永久に愛するようなかたじゃないわ。残念なことだけど、ながいあいだ愛することさえもしないはずよ」(大友徳明訳)とラウールに対してかなり割り切った発言(シリーズの「お約束」にツッコミを入れてる気もしなくもない)をすることも強く印象に残る。
 オーレリーの登場は当然これ一作なのだが、一作だけではもったいないと思う人はいるようで、ジャン=クロード=ラミによるパスティシュの形をとったルパン評論『アルセーヌ・リュパン-怪盗紳士の肖像-』では、ちょっと設定を変えられたオーレリーが登場してルパンの片棒をかついでいたりする。

 一応この物語のヒロインはオーレリーだけなのであるが、物語の序盤でもう一人、出番をこれだけにするには実にもったいない女性キャラが登場している。そう、イギリス貴族の令嬢であり婦人記者、そしてその正体はなんとルパンも舌を巻いてしまった大泥棒、コンスタンス=ベークフィールドだ。こちらも金髪に青い目の町中でも目立つ美女で、実際ルパンも最初は彼女に目をつけてその後を追いかけるのだ。
  レストランでトースト4枚を頼んで周囲を唖然とさせながら、平然とそれを平らげてさらに4枚注文、列車の中でもルパンの目の前で19個もチョコをパクつい ているというすがすがしいまでの大食ぶり。ベル・エポックの時代の女性は「ウェストの存在が認められていなかった」という表現までされてしまうほどコル セットできつくお腹を締めるのが定番で、したがって「淑女の大食い」などとても考えられないことだった。この点でも異様に目立つ女性キャラといっていい。 読者としてはこの辺から「この女、ただ者ではない」と思うべきなのかもしれない。
 そして彼女の名探偵並みの洞察力。ルパンの名刺や帽子のイニシャルからその正体をあっさりと見抜き、ルパンの度肝を抜いている。そしてその正体は国際的盗賊団の一味の女泥棒。ルパンはなるほどそうだったかと思い当たりつつも「一夜の旅の美しい道連れが泥棒だったとは!」などとかなりガッカリしている。自分の職業を棚にあげて、ホントに勝手なやつである(笑)。

 ミス・ベークフィールドは物語の序盤であっさり死んでしまい、もちろん出番はそれきり。「もったいないなぁ」と思った読者は決して少なくなかったようで、フランスで製作されたジョルジュ=デクリエール主演のTVドラマ版ではキャスリン=アッカーマンが演じたベークフィールドはルパンも驚くスリの妙技を披露し、列車で襲われても重傷を負うだけで命を拾う。さらにシリーズのオリジナル作品「トンビュル城の絵画」で再登場してルパンと一緒に「仕事」をするという、なかなか嬉しい改変がなされていた。


☆目の色の話

 ところで、本作のヒロイン・オーレリーは表題のとおり「緑の目」をもつ。本文中のラウールの目線からの表現によると「金色の縞(しま)のはいった、ひすいのような緑色の大きな目」(大友徳明訳)だそうである。

 さて、フランスにおいて「緑の目」をもつ人はどのくらいいるのだろう?
 「目の色」といっても、正確には眼球の光の入り口である「瞳(瞳孔)」の周囲にある「虹彩」の色の話だ。日本人はじめ東アジア人はほぼ真黒な虹彩をしているが、ヨーロッパ系の人たちには褐色や青、緑などさまざまな色の虹彩があり、人物を特定する重要な手掛かりとして昔から指名手配犯の人相書にも必ず明記されていた。
  フランスにおける「緑の目」の持ち主のパーセンテージを確認することができないでいるのだが、ネットであれこれ調べた限りでは緑の目は北欧系に多いらし く、スウェーデン・デンマーク・ノルウェーの「北欧三国」、およびその地からの移住先であるアイスランドでかなり多いという。オランダでも多いというか ら、おおむね北ヨーロッパのゲルマン系民族に多いということになるらしい。フランスもいろんな民族がゴチャゴチャした歴史があるから単純にラテン系民族と も言い切れないのだが、ともかくフランスではそんなに多くないことは確からしい。
 「緑の目」がそう多数派でもない国では、「緑の目」は神秘的、ともすれば魔術的なイメージをもたれるようだ。フランスでの用例は確認していないのだが、たとえばお隣イギリスの魔法使いハリー・ポッターは緑色の目をしている。また同じくイギリスのシェークスピアは「オセロ」や「ヴェニスの商人」の中で「緑の目の怪物(the green eyed monster)」という表現を使っている。もっともここでは「嫉妬(しっと)」の例えとして「緑の目の怪物」という表現を使っており、これを出典として今でも英語の慣用句では「緑の目の怪物」といえば嫉妬、やきもちのことを指している。さらに話を広げると、「緑の一つ目の怪物(green one eyed monster)」といえば宇宙人(エイリアン)の通俗イメージだ。
 イギリスの例ばかりを引き合いにして、フランスでのイメージを確認できないのが悔しいのだが、本作のオーレリーの「緑の目」にも謎めいた神秘性、清純なのか悪女なのか分からない怪物性、激しい感情を内に秘めた恋する女性というイメージを読み取ることは可能だと思う。

 一方のミス・ベークフィールドは「みごとな青い目」だ。 日本人は昔から欧米人を「青目」扱いしてきたのだが、ヨーロッパでも「青い目」の分布は偏りがあるようで、ネットで見かけた分布図によるとバルト海沿岸地 域に多く、そこから離れるに従って少なくなる傾向にあるようだ。緑の目と同じように北欧を中心に多いが、イギリスでもかなりの割合らしい。そういえば作中 でもラウールが特に根拠も示さずに最初から「イギリス女」とめぼしをつけていた。

 ところでこの「緑の目の令嬢」、日本語の訳では長いこと「青い目」と訳されてきた歴史がある。
 まずムッシュ・ルパン訳者である保篠龍緒が『青い眼(目)の女』というタイトルで最初に訳している。本文でもオーレリーの目は「青」と表現されていた。じゃあベークフィールド嬢と同じになっちゃうじゃないか?と思ってしまうところだが、保篠はベークフィールドについては「空色の目」と表現して区別していたのだった。
 そして南洋一郎も『青い目の少女』というタイトルで本作をリライトしている(オーレリーの年齢も明らかに下げてある)。 しかし奇怪なことに本文中ではオーレリーをちゃんと「エメラルドのような緑の目」と表現しており、ベークフィールドは「青い青い空色の目」と表現されている。現在刊行されているバージョン ではタイトルも「緑の目の少女」と改められているので矛盾は消えたが、以前なぜ「青い目」というタイトルにしていたのか疑問は残る。保篠訳で「青い目」と いう訳題が定着していたからかもしれないが…ベークフィールドの「空色の目」という表現も保篠版を参考にしたのかもしれない。
 日本で「緑の目の令嬢」という訳題をつけたのは1960年刊行の東京創元社版「アルセーヌ・リュパン全集」が最初になる。このタイトルは偕成社「アルセーヌ=ルパン全集」版にも引き継がれたが、南版があまりにも広く読まれたために「青い目の少女」のタイトルでこの作品を記憶してる人は結構多い。
 
 そもそも日本語では「緑」を「あお」と表現することが多い。これは古代日本語では色の分類が「くろ」「しろ」「あか」「あお」の四色しかなかったことが原因と言われ(この四つだけ「○○い」と活用できる)、 現在でも信号機の「青信号」、緑の草木を「あおあお」と表す表現に残っている。本文中に「ヒスイのような」という例えがあるので緑色であることは保篠も百 も承知だったと思うのだが、日本語的ニュアンスとしては「青い目」のほうがいい、という判断があったのかもしれない。また日本人は欧米人に「青い目」とい う印象を強く持っている一方で「緑の目」にはなじみが薄かったことも一因だろうか(確かに見たことのない人には「緑の目」というとすごく不気味に感じたかもしれない…)。

 なお、ルパンシリーズの歴代ヒロインの目の色について、当サイトの掲示板でご教示いただいたところによると、
 『ルパン逮捕される』のネリー=アンダーダウンが黒。
 『奇岩城』のレーモンド=ド=サン=ベランが褐色。
 『八点鐘』のオルタンス=ダニエルが青。
 『エメラルドの指輪』のオルガが青。
 という例が確認できるそうである。


☆ルパンはどんな時代だった?

 ミス・ベークフィールドにあっさり正体を見抜かれるが、ルパンはこのときラウール=ド=リメジー男爵なる冒険家貴族に化けている。ベークフィールドに指摘されるように、以前名乗っていた偽名ラウール=ダンドレジーとよく似ている。ただその偽名を名乗っていた『カリオストロ伯爵夫人』はシリーズでは前作とはいえ、「ルパン史」では最初期の話(およそ14年前)で、しかもルパンが巧妙にもみ消した過去と思われるので、ちょっと不自然な気がしなくはない。まぁベークフィールド女史の情報網がカリオストロ伯爵夫人並みに凄かったのかも知れないが。
 ルパンが過去に使った偽名ということでは、ルパンがうっかり帽子にそのまま縫い付けていた「H.V」のイニシャル、オラース=ベルモン(Horace Velmont)も再登場。『おそかりしシャーロック=ホームズ』『結婚指輪』に続く登場で、ルブランも気に入った偽名だったのかもしれない。

 ところでラウール=ド=リメジー男爵は世界をまたにかけた探検家だ。ミス・ベークフィールドのセリフによると、チベットと中央アジアを探検してきて、その探検談のインタビューが新聞記事に載っているというのだ。
 戯曲『アルセーヌ・ルパンの帰還』の雑談で触れているが、この時代「チベット」といえば「世界最後の秘境」の代名詞みたいなもので、ホームズも失踪時にチベットを旅していたことになっていた。その『帰還』ではルパン自身もチベットに旅行しているらしい(もっともこの戯曲は「正史」とはいえないが)。同時代にチベットや中央アジアを探検したといえばスウェーデンの地理学者スウェン=ヘディン(Sven Hedin,1865-1952)が有名で、ルブランもそれを意識していたかもしれない。
 しかしルパンは実際にチベットや中央アジアを探検しただろうか?『ルパンの冒険』でやはり探検家貴族のシャルムラース公爵に会うために南米まで出かけた例はあるし、『影の合図』ではアルメニアに出かけていたとの記述がある。だから中央アジアも…とも言えるのだが、なんとなくリメジー男爵の存在ともども偽装なのではないかという感じがある。後に書かれた『謎の家』でもルパンは世界一周を果たした航海士貴族として登場するが、これも実際にはやってなかったととれる記述になっている。

  ルパンは言うまでもなく「泥棒」である。だが、ちゃんと泥棒生活をしている模様は前期作品に集中していて、後期になると泥棒をやってる様子がほとんど出て こない。本作『緑の目の令嬢』も基本的には美女を助けるためにルパンがほぼ善意で奔走する話で、悪事に手を染める場面はあまりない(一か所だけ、お医者さんにひどいことをしてる場面があるが(笑))。
 でもやっぱり泥棒家業で生活してるんだろうな、と思わせる描写もある。ミス・ベークフィールドと同じ車室で眠りにつこうとする場面で、「簡単に手に入れた札束が、財布にどっさり入っている。確実に実行できて、たっぷりと収穫の望めるいろいろな計画が、彼の才知にたけた頭のなかにうずまいている」(大友訳)と書かれているのだ。その直後に皮肉にも自分が強盗に襲われるはめになるのだが、これは『ふしぎな旅行者』でも似たような場面があった。

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日本語では「緑」を「あお」と表現することが多い。これは古代日本語では色の分類が「くろ」「しろ」「あか」「あお」の四色しかなかったことが原因と言われ(この四つだけ「○○い」と活用できる)