今回より新シリーズとして、不定期で高校野球の秋季関東大会における、
千葉県勢の成績をご紹介していきます。
春の大会は夏に向けての試運転、という感じですが、
秋季大会はその成績が翌春のセンバツ出場に向けて大きな意味を持ちます。
非常に重要度の高い大会です。
そこで、地区大会が行われるようになった1948年からの成績を振り返ってみましょう。
1948年、全国9地区で高校野球の秋季大会が開催されることになりました。
出場資格があるのは2年生以下。
都道府県大会を勝ち抜いた学校が各地区大会に進出し、優勝を争います。
そこでの成績は、翌春のセンバツ大会の選考に向けた、重要な資料と位置付けられました。
関東は、1都7県から秋季都県大会の優勝校8校が関東大会に進出。
しかし、千葉県勢は最初の3年間、初戦で敗れてしまいます。
1951年、成田が初勝利を挙げてベスト4に進出。
現在なら「センバツ出場確定」となるところですが、
当時の関東勢のセンバツ出場枠は関東1、東京1(1951年のセンバツは関東から宇都宮工、湘南の2校を選出)。
東京代表との兼ね合いになりますが、関東大会で優勝、最低でも準優勝しなければ
センバツには選ばれませんでした。
千葉県勢で初めてセンバツ出場を果たしたのは、1953年の銚子商(当時は「銚子高」)。
前年の秋の関東では2勝を挙げ、決勝では早実に敗れたものの、
早実が東京代表だったこともあり選考されたようです。
銚子商は前年に、のちに大洋で監督を務める迫畑正巳をコーチに招くなど、
野球部の強化に熱心に取り組んでいたようで、その成果が現れた形ですね。
センバツでは2回戦から登場し、初戦で土佐を下してベスト8に進出しています。
ちなみに関東ではその時点で、すでに千葉と茨城を除く1都5県がセンバツに代表校を送り込んでおり、
千葉は6番目とかなり遅れを取ってしまいました。
残る茨城県勢がセンバツに歩を進めたのは、それからさらに19年後の1972年(取手一)です。
その後、1953年、55年と成田が1勝したものの、ベスト4で姿を消しました。
1958年から関東のセンバツ代表枠は「2」に増枠されますが、
春の甲子園とはしばらく縁がない状態が続くことになります。
千葉県勢の成績をご紹介していきます。
春の大会は夏に向けての試運転、という感じですが、
秋季大会はその成績が翌春のセンバツ出場に向けて大きな意味を持ちます。
非常に重要度の高い大会です。
そこで、地区大会が行われるようになった1948年からの成績を振り返ってみましょう。
1948年、全国9地区で高校野球の秋季大会が開催されることになりました。
出場資格があるのは2年生以下。
都道府県大会を勝ち抜いた学校が各地区大会に進出し、優勝を争います。
そこでの成績は、翌春のセンバツ大会の選考に向けた、重要な資料と位置付けられました。
関東は、1都7県から秋季都県大会の優勝校8校が関東大会に進出。
しかし、千葉県勢は最初の3年間、初戦で敗れてしまいます。
1951年、成田が初勝利を挙げてベスト4に進出。
現在なら「センバツ出場確定」となるところですが、
当時の関東勢のセンバツ出場枠は関東1、東京1(1951年のセンバツは関東から宇都宮工、湘南の2校を選出)。
東京代表との兼ね合いになりますが、関東大会で優勝、最低でも準優勝しなければ
センバツには選ばれませんでした。
千葉県勢で初めてセンバツ出場を果たしたのは、1953年の銚子商(当時は「銚子高」)。
前年の秋の関東では2勝を挙げ、決勝では早実に敗れたものの、
早実が東京代表だったこともあり選考されたようです。
銚子商は前年に、のちに大洋で監督を務める迫畑正巳をコーチに招くなど、
野球部の強化に熱心に取り組んでいたようで、その成果が現れた形ですね。
センバツでは2回戦から登場し、初戦で土佐を下してベスト8に進出しています。
ちなみに関東ではその時点で、すでに千葉と茨城を除く1都5県がセンバツに代表校を送り込んでおり、
千葉は6番目とかなり遅れを取ってしまいました。
残る茨城県勢がセンバツに歩を進めたのは、それからさらに19年後の1972年(取手一)です。
その後、1953年、55年と成田が1勝したものの、ベスト4で姿を消しました。
1958年から関東のセンバツ代表枠は「2」に増枠されますが、
春の甲子園とはしばらく縁がない状態が続くことになります。
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