各球団のドラフト外選手一覧と一軍全成績を紹介するシリーズの第4弾は「日本ハム」です。
東映、日拓ホーム、日本ハムを通じて総勢61名でした。
年度別に、背番号(1年目)が若い選手から順番に表記しています。
比較的、一軍でも活躍している選手が多いように思いますね。
最初の成功者は江本孟紀です。とはいえ、東映には1年間在籍しただけ。ただし南海ではエース格となり、阪神でも主力として活躍しました。
「ベンチがアホやから…」発言、引退後はタレントとしても引っ張りだこ。今も解説者として第一線で頑張っておられますね。
73年、東映からチームを引き継いだのが日拓ホーム。同時に廃部となった社会人野球・日拓観光の選手を引き取ります。
その中で結果を残したのが大室勝美。1年目には102試合に出場しています。
引退後はフロントとしてチームに残り、裏側から球団運営を支えました。
74年からは球団経営権が日本ハムに移ります。当初は知名度のなさもあって苦労していたようです。
78年はドラフト指名6選手中4名に入団拒否される有様。そのため、ドラフト外で7名を入団させます。
島田誠は2年目にレギュラーに定着。その後は俊足巧打の外野手として世界の盗塁王・福本豊とタイトル争いを演じたことも。
ベストナインも2度受賞するなど、球界屈指の外野手として活躍しました。
岡部憲章は東海大相模高出身初のプロ野球選手。81年には13勝をマークし、リーグ優勝の原動力の一人となりました。
坂巻明は84年に7勝を挙げ、引退後はロッテで打撃投手などの裏方としてチームに貢献しています。
五十嵐信一はしぶとい打撃を活かした代打や守備固めなど、いわゆる便利屋として長年にわたり一軍に定着。
88年と92年には100試合以上に出場するなど、レギュラーまであと一歩に迫っています。
嶋田信敏は長い下積みを経て、80年代中盤頃から代走屋として一軍に定着。
打撃の勝負強さも光り、90年、91年と2年連続で100試合以上に出場しました。
津末英明は高校、大学で原辰徳とクリーンナップを務めた強打者。
プロでは伸び悩みましたが、86年に規定打席に達し、19本塁打をマークする活躍を見せています。
渡辺浩は長年“一軍半”という感じでしたが、95年にプロ14年目にして二塁のレギュラーに定着。
規定打席に到達し、オールスターの候補にも挙がるなど超遅咲きの選手として話題になりました。
松浦宏明は3年目に中継ぎに定着。東京ドームに本拠地が移転した4年目の88年には背番号「0」を背負うと、
15勝を挙げて最多勝を獲得するなどブレーク。90年にも11勝を記録しています。
島田直也は甲子園のアイドル的存在。同期の芝草宇宙と“SSコンビ”として売り出されました。
日本ハムでは芽が出ませんでしたが、横浜では中継ぎのエース格として94年に50試合に登板、95年には10勝をマークしています。
白井康勝は練習生を経ての入団。92年には9勝10セーブ、93年は先発の一角として10勝、防御率2.66と好成績を残しました。
内山正博は横手の中継ぎ右腕。西武黄金期のこの時代、西武戦で好投を披露して“レオキラー”と言われ脚光を浴びた時期も。
荒井昭吾は高校時代は好打者として知られ、ドラフト会議直後に多くの球団が獲得に向かった逸材でしたが一軍には定着できず。
木村拓也はチャンスに強い打撃、俊足に加えて捕手、内野、外野とすべて守れるユーティリティプレーヤーとして
日本ハム、広島、巨人と3球団で19年間の現役生活をまっとう。コーチとしても期待されましたが、急逝したことが惜しまれます。
次回はソフトバンク(南海、ダイエー)を予定しています。
東映、日拓ホーム、日本ハムを通じて総勢61名でした。
年度別に、背番号(1年目)が若い選手から順番に表記しています。
比較的、一軍でも活躍している選手が多いように思いますね。
最初の成功者は江本孟紀です。とはいえ、東映には1年間在籍しただけ。ただし南海ではエース格となり、阪神でも主力として活躍しました。
「ベンチがアホやから…」発言、引退後はタレントとしても引っ張りだこ。今も解説者として第一線で頑張っておられますね。
73年、東映からチームを引き継いだのが日拓ホーム。同時に廃部となった社会人野球・日拓観光の選手を引き取ります。
その中で結果を残したのが大室勝美。1年目には102試合に出場しています。
引退後はフロントとしてチームに残り、裏側から球団運営を支えました。
74年からは球団経営権が日本ハムに移ります。当初は知名度のなさもあって苦労していたようです。
78年はドラフト指名6選手中4名に入団拒否される有様。そのため、ドラフト外で7名を入団させます。
島田誠は2年目にレギュラーに定着。その後は俊足巧打の外野手として世界の盗塁王・福本豊とタイトル争いを演じたことも。
ベストナインも2度受賞するなど、球界屈指の外野手として活躍しました。
岡部憲章は東海大相模高出身初のプロ野球選手。81年には13勝をマークし、リーグ優勝の原動力の一人となりました。
坂巻明は84年に7勝を挙げ、引退後はロッテで打撃投手などの裏方としてチームに貢献しています。
五十嵐信一はしぶとい打撃を活かした代打や守備固めなど、いわゆる便利屋として長年にわたり一軍に定着。
88年と92年には100試合以上に出場するなど、レギュラーまであと一歩に迫っています。
嶋田信敏は長い下積みを経て、80年代中盤頃から代走屋として一軍に定着。
打撃の勝負強さも光り、90年、91年と2年連続で100試合以上に出場しました。
津末英明は高校、大学で原辰徳とクリーンナップを務めた強打者。
プロでは伸び悩みましたが、86年に規定打席に達し、19本塁打をマークする活躍を見せています。
渡辺浩は長年“一軍半”という感じでしたが、95年にプロ14年目にして二塁のレギュラーに定着。
規定打席に到達し、オールスターの候補にも挙がるなど超遅咲きの選手として話題になりました。
松浦宏明は3年目に中継ぎに定着。東京ドームに本拠地が移転した4年目の88年には背番号「0」を背負うと、
15勝を挙げて最多勝を獲得するなどブレーク。90年にも11勝を記録しています。
島田直也は甲子園のアイドル的存在。同期の芝草宇宙と“SSコンビ”として売り出されました。
日本ハムでは芽が出ませんでしたが、横浜では中継ぎのエース格として94年に50試合に登板、95年には10勝をマークしています。
白井康勝は練習生を経ての入団。92年には9勝10セーブ、93年は先発の一角として10勝、防御率2.66と好成績を残しました。
内山正博は横手の中継ぎ右腕。西武黄金期のこの時代、西武戦で好投を披露して“レオキラー”と言われ脚光を浴びた時期も。
荒井昭吾は高校時代は好打者として知られ、ドラフト会議直後に多くの球団が獲得に向かった逸材でしたが一軍には定着できず。
木村拓也はチャンスに強い打撃、俊足に加えて捕手、内野、外野とすべて守れるユーティリティプレーヤーとして
日本ハム、広島、巨人と3球団で19年間の現役生活をまっとう。コーチとしても期待されましたが、急逝したことが惜しまれます。
次回はソフトバンク(南海、ダイエー)を予定しています。
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