名塩御坊 教行寺

西宮市北部にある蓮如上人創建の寺 名塩御坊教行寺のブログ
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健康診断

2018年08月30日 11時42分25秒 | 昔の記事

 健康診断を受けた。正確には、受けさせられた。まず、準備と称して、自分の糞を2日にわたって、麻雀の点棒のようなスティックでなでたりつついたりして採らされた。当日は朝から飲まず食わずで検診。紙コップに尿を採らされ、血を抜かれ、あげくはバリウムとかいう白いどろりとした液体を飲まされ、胃をガスで膨らまされた。こうしておいてから、エロ写真のモデルよろしく、変な姿勢でX線写真を撮られる。仕上げは下剤で、久しぶりに下痢までさせて貰った。

 健康診断とは言うが、これで判るのは、せいぜい五病か十病。死に至る病は星の数ほどあるから、五病十病を免れたとて、健康とは言えまい。それに、病気と判ったからといって必ず治るわけでもないし、事故、災害で死なぬという保証もない。阪神大震災で亡くなった人の中にも、健康診断を受けていた人は大勢いたはずである。あの人達にとって、健康診断とは何だったのか。

 帰り際に、健康管理のパンフレットをたくさん渡された。健康管理と言えば聞こえは良いが、要するに肉体管理である。河川管理に通貨管理、そして肉体管理。現代は、本来、管理不能なものを管理しようとムキになる時代なのかも知れない。


高島易断

2018年08月30日 10時51分40秒 | 昔の記事

 易者に「当たるか」と聞けば、「当たる」と答える。「なぜ当たるか」と聞けば、「そもそも、易は、中国の四書五経の内、易経を元にする云々」と説明される。しかし、ほとんどの易者は易経など読んでいないし、漢文を読むだけの語学力もない。それにも関わらず、彼らにも易のまねごとができるのは、高島嘉右衛門が明治時代に出版した「高島易断」という本のおかげである。

 高島嘉右衛門は天保3年、江戸の富裕な材木商遠州屋に生まれた。若くして家業を継ぎ、鉄道事業、横浜港の築港等に手腕を発揮し、実業家として財をなした。更に、政界にも多くの知己を持ち、特に、伊藤博文とは縁戚関係にあった。

 その彼が、晩年、実業の世界から身を引き、筮竹(ぜいちく)の引き方を簡略化し、易経の意味するところを一覧表にした占いのハウツー本を出版した。これが「高島易断」である。

今日、高島易断を名乗る占い師は多いが、彼らの中に、高島嘉右衛門の弟子はいない。彼らは、中国4千年の伝統と言いながら、実は、「高島易断」を占いの種本にしているに過ぎない。

 それほどよく当たるものなら、自分の運勢でも占ってみればいいだろうに。寒空に、机をおいて、薄明かりの下で商いをしている彼らを見ていてそう思う。


お布施

2018年08月30日 10時47分00秒 | 昔の記事

 坊主がブログを開設した以上、避けて通れない話題だろうから、思うところを書き並べてみたい。

 お布施が話題になるのは、本来、金額に定めがないから「お布施」なのに、坊主の側から金額を指定されるからである。少なくとも、そう、理解されている。しかし、これは問題の捉え方が違う。もし、坊主の指定する金額が、想像していた金額よりも低ければ、それも、望外に低ければ、いくら金額を指定されても不満は出ないだろう。金額が想像以上に高額であるから、問題になるのだ。つまり、低額でも良いような気持ちにさせておいて、高額を要求されるから、腹が立つのだ。ありていに言えば、受け取る方が強欲で、出す方もケチだから、問題になるのである。お布施について、形而上学的な議論を繰り返してみても無意味である。

 お布施の金額を指定しない坊主は、良い坊主か。というと、必ずしもそうではない。もちろん、清廉故にお布施の額にこだわらない立派な坊主もいるだろうが、私のような極悪坊主も、お布施の額は言わない。なぜか。

 親鸞聖人は、ほとんどの人間は、煩悩具足の凡夫と喝破された。解りやすく言えば、フツーの人間は欲深い(=ケチ)ということである。もし、そうだとすれば、指定された額のお布施を支払ったケチは、自分が払ったお布施の元が取れたかどうか気になって仕方ないだろう。すると、坊主のお経や法話(説教)が、自分の払ったお布施に見合うものかどうか査定するに決まっている。「これは、5万円に見合うだけのお経か。」「これは、5万円に見合う内容のある話か。」云々。これでは、坊主の側が精神的に風下に立つことになる。私は、自由を求めて坊主になったのだ。査定されるなど、ご免こうむりたい。それに、第一、相手を精神的に有利な状態にしてしまうと、こちらの話に耳を傾けてくれなくなる。これでは、法話をする意味がない。こういう普通の人間にこそ、浄土真宗の話を聞いてもらいたいのに、である。

 逆に、お布施の額を指定しなければ、相手は、坊主を査定しない。なぜなら、大抵の人間は、ケチではあるが、ケチだと思われたくはない。だから、お布施の額を指定されなければ、金を出したくない気持ちと、ケチだと思われたくないという気持ちが葛藤する。自分で決めたお布施の額は、いずれこのような2つの煩悩の妥協の金額である。後ろめたさがつきまとう。だから、坊主を査定するほど強気にはなれないのである。これは、いい加減と適当を売りにする私のような極悪坊主にとっては、都合の良い状態である。

 そんなこんなで、私はお布施の金額は指定しない。自分のケチを棚に上げて、お布施について議論していると、私のようなお人悪の坊主に見透かされるのが関の山である。


坊主丸儲け

2018年08月30日 10時39分52秒 | 昔の記事

 そうならいいんだけどねえ。シクシク。

 浄土真宗本願寺派では、約6割の住職が、他に職を持っている。理由は簡単、坊主だけでは食えないからである。そういう親を見て育つから、子供がなかなか後を継ぎたがらない。出来の良い子供は、良い大学を出て、さっさと実入りの良い職業に就いてしまう。寺を継ぐのは、カスばかり(ここだけの話だが、実は私もその一人)。檀家総代が集まると、「今度の若はデキが悪いから寺に残ってくれそうだ」等と噂している。

 天台宗では、去年から、入門者の一般公募を始めた。これまた、後継者難からである。しかし、途中で山を下りる者がいるだけでなく、過去には自殺者まで出たと聞く。

 「坊主丸儲け」が真実ならば、この不況下、もう少し、なり手が増えても良さそうなものだ。

 今日も、「なあ、本山へ修行に行ってくれ。帰ってきたら、車を買ってやるから」と言われて、すごすごと本山へ上る若者がいる。彼も、帰ってくれば立派なバカ坊主だ。


どじょう

2018年08月30日 10時36分00秒 | 昔の記事

 鍋に水を張って、中にドジョウを泳がせる。この鍋を火にかけると、水温が上がって、ドジョウが熱に苦しみ始める。この中へ、よく冷やした豆腐を切らずに入れる。すると、ドジョウは熱さを避けて、豆腐の中にもぐり込む。このまま鍋を火にかけておけば、やがて豆腐の中まで火が通って、ドジョウ入りの豆腐ができあがる。あとは、味をつけ、野菜などを入れていただく。このいささか残酷な料理を地獄鍋という。
 豆腐にもぐり込むドジョウを愚かと言うなかれ。我々も、少し苦しいことがあれば、逃れようとして、すぐにじたばたする。薬を飲み、針を打ち、祈祷を受け、占ってもらう。豆腐にもぐり込もうがもぐり込むまいが、結局、いつかは、老いて病んで死んでいくのにである。
 「人生は苦である。(釈迦)」と聞かされていながら、未だに冷たい豆腐を思う私も、悲しいかな、煎じ詰めれば、もの言うドジョウでしかない。