名塩御坊 教行寺

西宮市北部にある蓮如上人創建の寺 名塩御坊教行寺のブログ
〒669-1147 兵庫県西宮市名塩1丁目20番16号

かごめかごめ その2

2018年08月29日 00時23分36秒 | 昔の記事
 

目次

第二部 「かごめかごめ」でそこまでやるか
  序章
  第一章 仮説 多様な表記の理由 
  第二章 失われた言葉
    第一節 失われた言葉の条件
    第二節 失われた言葉
       つくばふ
    第三節 「つくばうた」から「つッペェつた」へ
       つくばふとおつくべ
       つくばふとつくばる
       つくべった・つくべした
       つくべったからつッぺェつたへ
  第三章 「かごめかごめ」の原形
    第一節 意味の確認
    第二節 「なべ」以下
    第三節 「かごめかごめ」の原形
  終章
  参考文献

 

第二部 「かごめかごめ」でそこまでやるか

序章

 第一部で、現存する「かごめかごめ」の資料を検討し、「鶴と亀」がすべらなかったことを確認した。しかし、「鶴と亀がすべった」部分の原形は明らかにできなかった。

 第二部では、この結果を基に、更に、「かごめかごめ」の原形を追う。荒唐無稽にならぬよう、細心の注意は払うが、所詮は、シロウト坊主の当て推量である。その点は、お含み置きいただきたい。

 

第一章 仮説 多様な表記の理由

 第一部第二章で記した如く、「つるつる」以下の表記は、実に多様であった。特に、戻橋背御摂と月花茲友鳥は、初演の時期が10年しか違わず、初演された小屋は、共に市村座である。それにもかかわらず、両者の表記は、「つっぱいる」と「つっぱる」という、明らかに別の言葉であった。
 しかも、第三章で記した如く、「つっぱいる」「つっぱる」のいずれを当て嵌めても、「かごめかごめ」全体の意味を明らかにできなかった。

 ここでは、このような結果に終わった理由を説明できる仮説を立てる。それは、
 「かごめかごめ」が記録された当時、既に、つるつる以下の意味は、誰にも解らなくなっていた。言い換えれば、記録された「つるつる」以下は、幼少の記憶や周囲の子供の遊びを頼りに、意味の解らぬ言葉(正確には音)を、解る言葉に置き換えて表記した結果である。
というものである。

 もちろん、他の可能性もあり得る。広い江戸のこと、採集した年代と場所が違えば、伝承も違う可能性がある。確かに、竹堂随筆と戻橋背御摂、月花茲友鳥と幼稚遊昔雛形については、それもあり得る。しかし、戻橋背御摂と月花茲友鳥の初演は、同じ市村座で、わずか10年の違いである。加えて、月花茲友鳥は戻橋背御摂を下敷きにして作られた浄瑠璃である。両者の違いは、採集した年代と場所の違いでは説明できない。
 実際、竹堂随筆、戻橋背御摂、月花茲友鳥に残る「子をとろ子とろ(子とり)」という遊戯歌では、かなりの時間経過にもかかわらず、「どの子が目好(づ)き 後の子が目好き」で一致している。意味が明瞭ならば、それほどの混乱は起こらないものなのである。

 以下、上記仮説に基づき、話を進める。

 

第二章 失われた言葉

 竹堂随筆には、宝暦・明和期の「かごめかごめ」が採集されたと考えられている。もし、前章の仮説が正しいとすれば、宝暦・明和期以前には、「つるつる」以下に、同書に採集された「つッペェつた」とは異なる言葉が続いたはずである。これを、便宜上、失われた言葉と呼ぼう。当然ながら、失われた時期は不明である。宝暦・明和の直前であったか、遙か以前であったかは特定できぬ。
 竹堂随筆の編者である行智は、一流の悉曇(しったん)学者であった。悉曇学は、サンスクリット語の文字・音声を研究する学問である。明治以降、西欧の音声学、言語学の導入に伴って、急速に衰退したが、平安時代に日本に導入され、仏教のみならず、日本語の音声学的研究にも大きく寄与した。今日、仮名を「あいうえお」「あかさたな」の順に並べる「五十音図」は、悉曇学の影響を受けて、「いろは歌」以前に成立したと言われている。
 つまり、一流の悉曇学者であった行智は、母音、子音、音便変化、促音、撥音など、言葉の発音に関する基本的知識を持っていた。彼の「つッぺェつた」という表記は、かなり信用できるのである。加えて、彼の表記は、最も古い時代のものである。

 このことに留意しながら、失われた言葉を推理してみたい。

第一節 失われた言葉の条件

 膨大な言葉の海から、一語を探し出すのは至難の業である。よって、まず、失われた言葉の条件を考える。

 「かごめかごめ」は口伝ゆえ、失われた言葉は、宝暦・明和期以前のある時期に、誤って伝えられて消失したはずである。それゆえ、第一部第二章の一覧表で「すべった」の列にある言葉と、ある程度、似ていたと考えられる。

 そこで、第一部第二章の一覧表から、「すべった」の列につき、次の表を作成する。

ぺェ
はい  
はい

 この表から読みとれる各語の共通点は、

  1) 文字数が五文字ないし六文字の動詞の過去形
  2) 第一文字は「つ」
  3) 第二文字の母音は「う」
  4) 第三文字の子音はローマ字表記で「h」「b」「p」
     母音は「あ」か「え」
  5) 最後から二文字目は「つ」「ッ」
  6) 最後の文字は「た」

である。

 よって、上記の条件に近い動詞で、「かごめかごめ」全体と調和する単語が、失われた言葉として相応しい。但し、前述したように、最も意識するべきは、竹堂随筆の「つッペェつた」である。

第二節 失われた言葉

つくばふ

 前節の条件を意識しつつ、古語辞典と江戸語辞典から、該当する語を探した結果、「つくばふ(つくばる)」という語に行き当たった。「つくばふ」というのは、「平伏する しゃがみこむ」という意味を持つ、ハ行四段活用の動詞である。古い広辞苑には、「突く+這う」とある。過去形(連用形)は、「つくばひた」だが、音便変化して「つくぼうた」となる。

 この語ならば、「かごめかごめ」の最後の動作に符合する。私は、この「つくばひた」こそ、「つるつる」に続く失われた言葉ではないかと考える。

第三節 「つくばふた」から「つッぺェつた」へ

 もしそうだとすれば、「つくばうた」から「つッぺェつた」へ変化したのか。その可能性はあるのか。ここでは、変化の可能性を検討する。

つくばふとおつくべ

 「おつくべ」は、インターネット上の報告に限っても、群馬、山梨、伊豆、長野、三重県尾鷲に存在した方言である。意味は、各地とも共通して「正座」である。語源は、「つくばふ」だとされている。実際、佐渡には「つくぼうてくれ(座ってくれ)」、富山には「おつくばい(正座)」という言葉が残っている。
 「おつくべ」が「つくばふ」から転じたとすれば、「つくばふ」という動詞の語幹が変化したことになる。先述した如く、「つくばふ」は、ハ行四段活用で、「つくば」が語幹である。本来ならば、語幹が変化するのは、連用形の音便変化に限られるはずである。
 それにもかかわらず、かなりの広範囲で、「つくべ」に変化している。これだけの地域で、自然に同じく変化するとは考えにくいゆえ、この変化は、中心地たる江戸で起こったと考えるべきであろう。
 つまり、過去のある時期に、江戸で、「つくばふ」という語の用法なり活用なりに乱れが生じて、「つくば」が「つくべ」に変化した可能性はあるのである。

つくばふとつくばる

 古語辞典には、「つくばふ」と共に「つくばる」という動詞が存在する。「つくばる」は、「つくばふ」と同じ語幹を持ち、ラ行ながら、「つくばふ」と同じ四段活用の動詞で、「つくばふ」と、ほぼ同じ意味を持つ。
 「つくばふ」と「つくばる」の内、今日、我々が動詞として継承したのは、「這いつくばる」など「つくばる」方である。「つくばふ」については、「つくばい(低い手水鉢)」等の名詞を残すだけである。
 これから想像するに、「つくばふ」という動詞は、過去のある時点で、活用や用法の乱れを生じた可能性がある。「つくべ」を語幹とする言葉に転じた後に、「つくばる」が台頭してきたとすれば、「つくばふ」「つくばる」いずれの四段活用からも外れた「つくべ」を語幹とする言葉が、方言やわらべうたという歴史の隘路に置き去りにされた可能性がある。

つくべった・つくべした

「つくべ」を語幹とする言葉が、どのようなものであったか。今となっては、想像力を働かせるしかない。「つくべえた」、「つくべった」、「つくべした」、「つくべひた」くらいであろうか。ここでは、暫定的に、「つくべった」としておく。もし、斯界の専門家から、別の意見が出れば、それに従えばよい。

つくべったからつッぺェつたへ

 「つッぺェつた」の原型が、「つくべった」であったとしたら、なぜ、「つッぺェつた」に変化し、意味が失われてしまったのか。その理由は、「つくべった」を長く延ばして歌ったからである。

 かごめかごめは、うしろの正面(真後ろ)の人間が誰かを当てる遊びである。ところが、かごめかごめを、最初から最後まで、同じテンポで歌うと、かなりの確率で、真後ろに人が来ない。最悪の場合は、二人の人間が繋いだ手が、真後ろに来る。これでは遊びにならぬ。そこで、最後の言葉を長く延ばして歌いながら、真後ろに人が来るように微調整を行う。これは、この遊びに必要不可欠な作業である。実際、竹堂随筆に記された「なべ」以下でも、最後は、「たーァも」と延ばしているし、今日、一般的な「うしろの正面」でも「だあれ」と延ばす。

 したがって、遊びの内容に変化がなければ、「つくべった」と歌われていた時代にも、この言葉を、長く延ばしていたはずである。

 そこで、試みに、「つくべった」を長く延ばしてみる。この時、「つーくーべーった」にはならない。日本語独特のリズム感覚から、「つーくべーった」となる。更に言えば、「く」は短く発音され、母音は、ほとんど聞こえない。「つくべった」を長く延ばして「つーk(もしくは小さいカタカナのク)べーった」と発音していたとしたら、行智が書き残した「つッぺェつた」との距離は、格段に縮まる。
 同様に、「つくばひた」を長く延ばしてみると、「つーk(小さなカタカナのク)ばーィた」となって、これは、「つっぱいた」に近づく。これは、戻橋背御摂の「つッはいた」に近い。ひょっとしたら、行智が慣れ親しんだ歌とは違う系統の「かごめかごめ」もあったのかもしれない。

 いずれにせよ、「つるつる」の後の言葉を長く延ばして歌えば、その言葉の表記は、元来の言葉の表記と違うものになる。そして、このように、本来の発音を越えて長く延ばして発音すれば、その言葉の意味は失われやすくなる。かごめのように、文字ではなく、子供の間で口承されるものは、なおさらである。

 以上から、「つくばうた」・「つくばひた」が、活用や語法の乱れによって「つくべった」に転じ、これを長く延ばす内に、「つッぺェつた」に転じて、その意味が失われたと考えられないだろうか。

第三章 「かごめかごめ」の原形

第一節 意味の確認

 「つるつる」以下に「つくばふ(つくばる)」という語を加えて、改めて、「かごめ」を訳すと、次のようになる。

かごめ かごめ 屈(かが)みなさい、屈みなさい (囲みなさい、囲みなさい)
かごの中の鳥は 輪の中にいる子は
いついつ 出やる いつになったら、出られるのだろう
夜明けの晩に いつかは判らないけれど

つるつる つくばうた

(輪を作る者は)、さっとしゃがんだよ

 これを見る限り、少なくとも、「つくばふ」の方が、「つっぱいる」「つっぱる」よりは、適当な語であろう。

第二節 「なべ」以下

 第一節の訳が正しいとすると、「つるつる つくばうた」で完結するゆえ、「なべのなべの底ぬけ」以下は無用である。つまり、「かごめかごめ」の原形には、「なべ」以下はなかった。
 ところが、「つるつる つくばうた」の意味が失われて、この句で、真後ろに、丁度、人が来るように微調整をしてしゃがむことができなくなってしまった。。そこで、竹堂随筆に見られる如く、「つる」から「なべ」を連想し、「底抜いてたも」の「たも」を長く延ばすことで、終了の合図にしたと考えるのである。
 同様のことは、明治以降にも行われた。『俚謡集拾遺』所収の「かごめかごめ」では、「なべ」以下が省略されているが、その後、全国に普及する以前に、「後ろの正面だあれ」が、付加されている。

 よって、「なべ」以下が付加されたと考えるのも、あながち、極論とは言えまい。

第三節 「かごめかごめ」の原形

 かくして、「かごめかごめ」の原形は、あっけないほど単純なものになった。

  かごめ かごめ
  かごの中の鳥は
  いついつ 出やる
  夜明けの晩に
  つるつるつくぼうた

 これだけである。所詮は子供の遊び歌。単純で当たり前。深読みすることに、何の意義があろう。

 

終章

 これをもって、長編駄文「かごめかごめ」は終了である。所詮、素人の遊びではあるが、今後、「かごめかごめ」にまつわる伝説や謎解きを読む上で、いささかなりとも役に立てば幸いである。
 

参考文献

 引用の公正と今後の便宜のため、今回、利用した文献をここに書き置く。江戸時代の文献については、原本を入手できないので、岩波書店刊の「國書總目録」から、活字に起こされたものを探して利用した。

竹堂随筆

書名 続日本歌謡集成||ゾクニホン カヨウ シュウセイ
著者 新間,進一(1917-)||シンマ, シンイチ
著者 志田,延義(1906-)||シダ, ノブヨシ
著者 浅野,建二(1915-)||アサノ, ケンジ
出版 東京 : 東京堂出版 , 1961-1964
注記 巻1:新間進一編 , 巻2,巻5:志田延義編 , 巻3,巻4:浅野建二編

 

四方のあか

書名 大田南畝全集||オオタナンポゼンシュウ
著者 大田南畝||オオタ, ナンポ
出版 岩波書店(1988)||イワナミショテン

 

俚謡集拾遺

書名 続日本歌謡集成||ゾクニホン カヨウ シュウセイ
著者 新間,進一(1917-)||シンマ, シンイチ
著者 志田,延義(1906-)||シダ, ノブヨシ
著者 浅野,建二(1915-)||アサノ, ケンジ
出版 東京 : 東京堂出版 , 1961-1964
注記 巻3:新間進一編 , 巻2,巻5:志田延義編 , 巻3,巻4:浅野建二編

 

戻橋背御摂

書名 大南北全集||ダイナンボク ゼンシュウ
著者 鶴屋,南北(1755-1829)||ツルヤ, ナンボク
著者 坪内,逍遥(1859-1935)||ツボウチ, ショウヨウ
著者 渥美,清太郎(1892-1959)||アツミ, セイタロウ
出版 東京 : 春陽堂 , 1925-1928
内容注記 第3巻:房橋背御攝. 心謎解色糸. 勝相撲浮名花触
注記 各巻木版錦絵折込み図, 挿図あり
巻号 第3巻

 

書名 鶴屋南北全集||ツルヤ ナンボク ゼンシュウ
著者 鶴屋,南北(1755-1829)||ツルヤ, ナンボク
著者 郡司,正勝(1913-)||グンジ, マサカツ
出版 東京 : 三一書房 , 1971-1974
注記 第五巻: お染久松色読販, 戻橋背御摂, 隅田川花御所染, 杜若艶色紫, 梅柳若葉加賀染, 怪談岩倉万之丞, 怪談鳴見絞, 解説(藤尾真一)

 

書名 鶴屋南北怪談狂言集||ツルヤ ナンボク カイダン キョウゲンシュウ
著者 鶴屋,南北(1755-1829)||ツルヤ, ナンボク
著者 渥美,清太郎(1892-1959)||アツミ, セイタロウ
出版 東京 : 春陽堂 , 1928.8
シリーズ名 日本戯曲全集:第11巻:歌舞伎篇

 

月花茲友鳥

書名 清元全集||キヨモト ゼンシュウ
著者 中内,蝶二||ナカウチ, チョウジ
著者 田村,西男||タムラ, ニシオ
出版 東京 : 日本音曲全集刊行會 , 1928.1
シリーズ名 日本音曲全集:3
件名 音曲||オンギョク

 

書名 日本歌謡集成||ニホン カヨウ シュウセイ
著者 高野, 辰之(1876-)||タカノ, タツユキ
出版 東京 : 春秋社 , 1928.6-1929.2
注記 子書誌に続編あり
注記 子書誌もセット配架
巻号 正編巻11:近世編

(2001/10/10) 初稿
(2002/11/18) 2稿

 


かごめかごめ その1

2018年08月29日 00時00分56秒 | 昔の記事

目次

第一部 鶴と亀はすべったか
  序章
  第一章 「かごめかごめ」の記録
    第一節 現在の「かごめかごめ」
    第二節 以前の「かごめかごめ」
       竹堂随筆
       四方のあか
       戻橋背御摂
       月花茲友鳥
       幼稚遊昔雛形
       俚謡集拾遺
       その他
  第二章 記録の絞り込み
    第一節 絞り込み 1
       新潟、長野の「かごめかごめ」
       「亀」について
       「後ろの正面 だあれ」
    第二節 絞り込み 2
       記録一覧
       「すべった」について
       「なべ」について
    第三節 絞り込みの結果
  第三章 「かごめかごめ」の試訳
    第一節 固定部分の訳
       かごめ かごめ
       かごの中の鳥は
       いついつ 出やる
       夜明けの晩に
       つるつる
       なべのなべの底抜け
    第二節 「つるつる」以下試訳 1
       「つっぱいった」
       仮説 1
       仮説 2
    第三節 「つるつる」以下試訳 2
       「つっぱる」
  第四章 結論

第一部 鶴と亀はすべったか

序章

 「かごめかごめ」という唄の謎解きをやろうと思う。子供の頃、「鶴と亀がすべる」というのは、不思議であった。長ずるに及んで、ものの本で、昔の「かごめかごめ」は、現在と違うことを知った。しかし、どう違うかまでは知らぬまま、今日に至っている。
 それが、インターネット上の某掲示板で、「かごめかごめ」が話題になったのを期に、謎解きを思い立った。但し、私は、高校時代、古文が苦手で、「次の動詞の主語を答えよ」という問題で、「うぐいす」だけを正解し、見事、百点満点で十点を獲得、以後、ウグイス法伝と呼ばれた男。あくまで遊びと心得られたい。

 インターネット上には、既に、いくつか、「かごめかごめ」を論じたページがある。「かごめ 鶴と亀」で検索すれば、簡単に見つかる。しかし、ほとんどは、意味不明であるのを良いことに、さしたる根拠もないままに、荒唐無稽の想像を膨らませているに過ぎぬ。その中、「かごめかごめ」の意味を知る上で、一読に値するのは、胡蝶さんの「A Square of Vanity」所収「かごめかごめ」歌詞考である。私がこの謎解きで、最も参考にさせていただいたページでもある。

 

第一章 「かごめかごめ」の記録

第一節 現在の「かごめかごめ」

 現在、巷間に流布する歌詞は、およそ、以下の通り。

かごめ かごめ 
かごの中の鳥は いついつ 出や
夜明けの晩に 鶴と亀がすべった
うしろの正面 だ
   (青いカタカナは、法伝)

 しかし、口承されてきたものゆえ、成立当初から、現在の形であったとは限らぬ。地方によっても異同がある。まずは、「かごめかごめ」が、今日まで、どの様に記録されてきたか。以下、煩雑を顧みず、紹介する。

第二節 以前の「かごめかごめ」

竹堂随筆

 「竹堂随筆」は、浅草覚吽院に住した修験僧行智の編んだ童謡集である。編纂時期は文政3(1820)年頃と推定されるが、収録されている内容は、宝暦・明和年間(1751~72)のものと言われている。同書によれば、「かごめかごめ」は、以下の通り。

かァごめかごめ。かごのなかの鳥は。いついつでやる。夜あけのばんに。つるつるつッペェつた。なべのなべのそこぬけ。そこぬいてァもれ。
   (青い引は、のばす印。茶色の部分は、原典で繰り返し記号)

四方のあか

 「四方(よも)のあか」は、大田南畝(蜀山人)の作で、天明年間に出版されている。直接に、かごめかごめを記録していないが、子供の遊びに言及した部分で、以下のように記している。

つるつるといる名にめでて、籠目々々とうたふ。
   (茶色の部分は、原典で繰り返し記号 以下同様)

 なお、一部に、「つるつるといふ名にめでて」と引用する者があるが、確認できなかったことを追記しておく。

戻橋背御摂

 戻橋背御摂(もどりばしせなのごひいき)は、鶴屋南北の手になる歌舞伎芝居で、文化10(1813)年、江戸市村座で初演された。南北は、この大切(おおぎり=芝居の最後)で、子供の遊び歌を取り入れている。出典によって、若干、内容が異なるので、ふたつ挙げる。

かごめかごめ籠の中の鳥は、いついつ出やる、夜明けの晩に、つるつるつッはいた
   (大南北全集)

 かご目かご目篭の中の鳥はいついつ出やる、夜明けの晩につるつるつるはいつた
   (鶴屋南北全集)

月花茲友鳥

 月花茲友鳥(つきとはなここにともどり)は、文政6(1823)年、市村座で初演された。 この浄瑠璃には、

かごめかごめ籠の中の鳥は、いついつ出やる、夜明けの晩に、つるつるつるつゝぱつた

とある。

幼稚遊昔雛形

 幼稚遊昔雛形(おさなあそびむかしのひながた)は、天保15(1844)年に刊行された、万亭応賀編の童謡童遊集である。これには、

かごめ かごめ かごのなかへ(の)とりは いついつねやる
よあけのまえに つるつるつッペッた
なべの なべの そこぬけ そこぬけたらどんかちこ そこいれてたもれ
   (孫引き)

と収録されている。

俚謡集拾遺

  明治38(1905)年、文部省は、各府県に、管内の俚謡、俚諺、童話、古伝説等の報告を求めた。後に、この報告をまとめて、大正3(1914)年、俚謡集として刊行した。この時に掲載を見送られた童謡などを収録したのが、大正4(1906)年刊行の俚謡集拾遺である。ここには、東京、長野県南安曇郡、新潟県高田市の「かごめかごめ」が収録されている。それぞれ、

籠目かごめ、籠の中の鳥は、いついつでやる、夜明けの晩に、ツルツル辷(ツ)ウベッた。
   (東京 ツは振り仮名)

籠目かごめ、籠の中のますは、何時何時出やる、十日の晩に、鶴亀ひきこめひきこめ
   (長野県)

かごめかごめ、籠の中の鳥は、いついつ出やる、よあけの晩げつゝらつゥ
   (新潟県)

とある。

その他

 底本の成立時期が不明なので、引用は避けたが、これ以外にも、常磐津の「新山姥(薪荷雪間(たきぎおうゆきま)の市川)」が、月花茲友鳥と同様に伝承している。

 

第二章 記録の絞り込み

第一節 絞り込み 1

 以上の記録に限っても、現在、流布されている「かごめかごめ」とは、かなり違っていたことが知れる。ここでは、これらを元に、「かごめかごめ」の原形を求めて、絞り込みをしてみる。

新潟、長野の「かごめかごめ」

 新潟県高田市、長野県南安曇郡の「かごめかごめ」は、江戸・東京から伝播した可能性が高い。
 俚謡集拾遺は、新潟県、長野県については、俚謡が伝承された地域を記しているが、高田市、南安曇郡を結ぶ地域に、「かごめかごめ」の報告はない。また、東京と高田市、東京と南安曇郡を結ぶ地域にも、新潟県内、長野県内を含めて、「かごめかごめ」の報告はない。長野、新潟以外の県については、報告されなかった可能性も考えられるが、両県については、県内他地域の報告もない。
 高田、南安曇野の両地に、「かごめかごめ」が伝播した理由は不明である。両地が共に、徳川の親藩もしくは譜代の治める地域であったことと関係があるやもしれぬ。しかし、「かごめかごめ」の原形を求めるという目的から外れるので、この点は保留する。

「亀」について

 明治時代の長野県以外に、「亀」の記述がないので、亀については、明治末から大正以降に加えられた可能性が高い。
 亀を入れて謡うようになったのは、文献上は、長野県南安曇野郡が最初である。既に、東京の一部で、亀を入れて謡っていたものが、南安曇野に伝わったか、南安曇野の「亀入り」が東京に伝わったか、両者は無関係に、自然同時発生したか、疑問は残る。

「後ろの正面 だあれ」

 これは、俚謡集拾遺で明らかなごとく、明治末から大正以降に追加されたものであって、「かごめかごめ」の原形とは無縁である。

第二節 絞り込み 2

記録一覧

 ここまで絞り込んで、これまでに引用した記録を一覧にすると、以下のようになる。

年代

文献

「すべった」

「なべ」
宝暦明和(1751-72) 竹堂随筆 つッペェつた 記述あり
天明年間(1780頃) 四方のあか いる 記述なし
文化10(1813) 戻橋背御摂 つッはいた
つるはいつた
記述なし
文政6(1823) 月花茲友鳥 つるつゝぱつた 記述なし
天保15(1844) 幼稚遊昔雛形 つッペッた 記述あり
大正4(1906) 俚謡集拾遺 辷(ツ)ウベッた 記述なし

 

「すべった」について

 今日、「すべった」と言われる部分は、実に様々である。俚謡集拾遺の表記は、これらの語が「すべった」に転訛する過程を示している。「辷」は、本来、「すべる」と読む。俚謡集拾遺は、この文字を当てて、「ツ」とルビを振っている。すなわち、明治の終わり頃には、「すべった」の訛りと理解されているのである。「すべった」は、「かごめかごめ」の原形とは関係ない。

「なべ」について

 現在の「かごめかごめ」には、竹堂随筆や幼稚遊昔雛形に記録されている「なべ」以下の部分がない。幼稚遊昔雛形にあって、俚謡集にないので、この間のいずれかの時期に、「なべ」以下の部分が省略されたと思われる。言い換えれば、「なべ」以下が消滅して、「つるつる」が、「すべる」の擬態語と誤解されるようになったのだろう。
 竹堂随筆と幼稚遊昔雛形の間に作られた戻橋背御摂と月花茲友鳥に、「なべ」以下の記述がないが、これには理由がある。両狂言共に、「かごめかごめ」を、子供の遊戯歌メドレーの一部として使用している。例えば、戻橋背御摂では、「子とり」と呼ばれる遊戯歌の次に「かごめかごめ」が謡われる。したがって、「かごめかごめ」のすべてが記述されなくても不思議はないのである。

第三節 絞り込みの結果

 以上から、江戸後期に限定されるが、「かごめかごめ」の原形は、次のようなものであったと考えられる。

かごめかごめ 籠の中の鳥は いついつ出やる
夜明けの晩に つるつる (つッペェつた つっぱいた つっぱった等多数)
なべのなべの底抜け (以下2通り)

 

第三章 「かごめかごめ」の試訳

 前二章でみた如く、「かごめかごめ」の原形は、

かごめかごめ
かごのなかのとりは
いついつでやる
夜明けの晩に
つるつる
なべのなべのそこぬけ

の固定部分と、「つるつる」、「なべ」に続く変動部分に分かれる。
 よって、まず、問題のない固定部分を訳す。次に、変動部分、特に、意味不明の「つるつる」以下に、どの語がふさわしいかを考える。

第一節 固定部分の訳

かごめ かごめ

 「かごめ」は「囲め」が語源だという説がある。柳田国男によれば、これは、「かがめ」の訛ったものだという。「囲め」ならば、輪を作る者に、「かがめ」ならば、輪の中の者に、指示していることになる。

かごの中の鳥は

 「かごめ」からの連想で「かご」、かごからの連想で「鳥」につながる。同時に、「かごの中の鳥」は、目隠しをしてしゃがんで輪の中にいる者を表す。

いついつ 出やる

 かごの鳥は、いつになったら、出られるのだろう。すなわち、輪の中にいる者は、いつになったら、輪の外に出られるのだろう。

夜明けの晩に

 いつになったら出られるかという問いを受けて、実際にはあり得ない表現で、いつ出られるか判らないことを表す。当時の「かごめかごめ」が、後ろに座る者を当てたか横にいる者を当てたかは不明だが、とにかく、当てなければ出られないので、出られる時期は特定できない。それを、夜明けの晩と表したのだろう。
 ただし、夜明けの晩を、夜明けでも、まだ暗い方を示すとする説がある。このような用法が一般的であったか否か、確認できないので、一応、採用は見送った。

つるつる

 すでに書いたように、このつるつるは、元来、鶴とは無縁である。これは、速やかに、円滑にという様子を表す擬態語である。
 同様の用例としては、千葉県流山市に残る「つるつる」という遊びがある。

   つるつる
   かぎになれ
   さおになれ
   たいころばちのふたになあれ

 これも、今日、鶴、鶴と解する者があるが、鶴が、鈎や竿や太鼓の撥になるというのは解せない。この遊びが、「鬼決めの後、手を繋いだ子供達が、鬼の回りで複雑な形を作っていく」ことを考えれば、「早く」という意味が妥当である。

なべのなべの底抜け

 「なべ」は「つる」からの連想である。ここで言う「つる」は、「鉉」、すなわち、鍋や鉄瓶などについている弓形、もしくは半円形の取っ手のこと。もし、前の「つるつる」が鶴の意なら、亀などが連想されたに違いない。

第2節 「つるつる」以下試訳 1

 いよいよ問題の「つるつる」以下である。「つるつる」以下の動詞から連想できる語は、「つっぱいる」もしくは「つっぱる」である。

つっぱいる

 日本国語大辞典によれば、「つっぱいる」は、「突き入る」の転化した語で、突入する、むりやり入り込む、さっと入るなどの意味がある。そして、同書は、この語の使用例として、戻橋背御摂の「かごめかごめ」を引用する。
 竹堂随筆の「つッペェつた」や大田南畝の「つるつるといる名にめでて」も、こちらを指していると思われる。
 しかし、この記述にしたがって「速やかに入り込む」と理解しても、問題が残る。誰が(何が)どこへ入り込むか不明なのである。無理を承知で推理すれば、次のふたつくらいが考えられようか。

仮説 1

 鶴は無関係ゆえ、可能性としては、周りを囲む者か中で屈む者しかない。中で屈む者は、既に籠の中の鳥であるから、残るのは、周りを囲む者しかない。では、周りを囲む者の誰かが、どこへ入り込むのか。考えられるのは籠しかない。すなわち、周りを囲む者が、輪の中(籠)へ入り込むのである。
 もし、そうだとすると、「かごめかごめ」は、今日とは違った遊び方だったということになる。今日の「かごめかごめ」は、

目隠しをして屈んだ子供の周りを、謡いながら回る
「後ろの正面だあれ」で、周りの者が、一斉に屈む
輪の中の者が、真後ろに屈んだ者を当てる

という遊びである。
 それが、周りを囲む者が輪の中に入るならば、

「つるつるつっぱいった」で、周りを囲んでいた者の一人が、輪の中へ入る
入った者を、目隠しした者が当てる

ということになる。

 この遊び方を承認できるならば、「つっぱいる」が正しいと言える。しかし、次のような理由で、この遊び方には否定的である。
1) この遊び方では、輪の中に入る者を、毎回、一人、決めておかなければならぬ。それでは、遊びが中断され、しかも、短時間で、すんなり決まるとも限らぬので煩わしい。
2) 大正以後、「後ろの正面だあれ」が付加されたが、この時、「かごめかごめ」は、後ろの正面に屈んだ者を当てる遊び方だったはずである。もし、輪の中へ、周りの誰か一人が入る遊び方ならば、別の文句を用意したに違いない。
3) 大正以後、遊び方まで改めたのならば、どこかに、形を変えて、古い遊びが残っていそうなものだが、その痕跡がない。

仮説 2

 これは、冒頭に紹介した胡蝶さんの説である。氏は、「つるつるつっぱいる」を、「周りの者が、目隠しをした者の後ろに入り込むことだ」と推理する。
 しかし、この遊び方も、誰が後ろに回り込むかを、毎回、決めなければならぬので、煩わしいこと、上に述べたのと同様である。また、後ろに回り込むなら、素直にそう言えばいいのであって、後ろに入り込むという必要はない。よって、これも、いささか無理な推理だと思われる。

 かくして、「つるつるつっぱいる」と解釈するには無理があるという結論に達する。

第3節 「つるつる」以下試訳 2

「つっぱる」

 「つっぱる」というのは、「突き張る」という語が元である。相撲の「突っ張り」、暴走族の「ツッパリ」、屁の「つっぱり」など、現在の意味と、ほとんど違わぬ。
 「つるつる」以下に「つっぱる」が続くとすると、「つっぱいる」以上に、意味不明になる。誰が、なぜ、誰(何)を相手に突っ張るのか、全く解らないのである。まさか、輪を作る者が、目隠しをして屈んだ者を突っ張ることもあるまい。

 かくして、「つるつるつっぱった」という解釈も、暗礁に乗り上げる。

 

第四章 結論

 「鶴と亀」はすべらなかった。しかし、「鶴と亀がすべった」に相当する部分の意味は、遂に明かにできなかった。「かごめかごめ」を記録した文献が、新たに発見されなければ、オーソドックスな手法で、これ以上の進展は望めぬだろう。残念ながら、これが、現在までの結論である。

 さりながら、これで諦めたわけではない。これは、あくまでも、第一部の結論である。第二部では、禁を破って、私の仮説を開陳することにする。

 

(2001/10/10) 初稿

(2002/11/18) 2稿

 


知識帰命の異安心

2017年02月13日 22時21分46秒 | 昔の記事

 浄土真宗には、「知識帰命の異安心(ちしききみょうのいあんじん)」という言葉がある。知識というのは指導者、帰命というのは帰依すること、誤った真宗教義を異安心(いあんじん)と呼ぶ。つまり、「知識帰命の異安心」とは、阿弥陀仏ではなく、指導者に帰依することを求める誤った教義という意味である。

 知識帰命の異安心は、すでに、親鸞の弟子である唯円が著した歎異抄(たんにしょう)なる書物にも記述されている。歎異抄とは、その名の通り、真宗教義の異(誤り)を嘆くという意味である。我々、後代の者は、親鸞を開祖と仰ぐが、親鸞自身は、「親鸞は弟子一人ももたず候ふ。(歎異抄 六)。」と、自らに帰依することを嫌った。

 特定の指導者への帰依を過度に強調することは、浄土真宗に限らず、あらゆる宗教が陥りやすい誤りである。生身の人間は、生身の人間ゆえに、過ちを犯す。なればこそ、真の宗教指導者たるもの、自らへの過度の帰依が危険であることを、承知せぬはずがない。言い換えれば、自らへの過度の帰依が危険であると語らぬ指導者は、怪しいと考えて良い。

 仏教は、釈尊(お釈迦様)への帰依を基本とするが、釈尊自身は、「私の悟った法は、過去にも、悟る者があったし、未来にも、悟る者があるだろう」と、語っている。仏伝は、釈尊が産まれたとき、天地を指差して、「天上天下唯我独尊」と語ったと言う。しかし、同時に、釈尊は、最後の旅で、弟子を相手に、「私は、四十年間、善なるものを求め続けてきた」とも語っている。そして、末期の説法では、「自らを灯火(ともしび)として生きよ。法を灯火として活きよ」と、弟子達に言い残している。

 ここで、今日、マスコミを賑わしている新興宗教を思い出すが良い。
  統一協会     文鮮明
  オウム真理教  麻原彰晃
  法の華三法行  福永法源
などは、皆、異常なまでに、代表者への帰依を求める。文鮮明は、汚れなき神の子であると自称し、麻原彰晃は、自らを唯一人の最終解脱者と称した。福永法源は、自分だけが、天の声を伝え得る者だという。
 坊主の我田引水を覚悟で言えば、彼等は、皆、自分の能力を吹聴し、自分への帰依を強要する点で、釈尊や親鸞より、卑しく浅ましい。知識帰命を強調する宗教は、やはり、怪しいのである。

 この点、微妙なのが創価学会である。創価学会は、元来、日蓮正宗信者の任意団体であった。一般的に、仏教各派では、このような団体を、講と呼び慣わしてきた。浄土真宗にも、摂津十三日講など、講組織は存在する。
 よって、創価学会の会長は、日蓮正宗の一講の代表であり、講組織の運営については、一定の権限を有するが、それ以上の権限はなかった。しかるに、今日、創価学会は、日蓮正宗と袂を分ち、独自の道を歩み始めた。

 もとより、日蓮正宗と創価学会の泥仕合に興味はない。そのようなもの、表に出ぬだけで、本願寺教団で、いくらでも見られる(特にお東)。問題は、創価学会が、今後、池田大作教へ移行するか否かである。
 池田大作が、会長職を退いた今も、創価学会に対して多大の影響力を持つことは、学会外部から見ても明白である。しかも、池田大作の子供が、副会長の要職を務めている。もし、このまま、創価学会が、池田大作を宗教指導者とする団体に移行するなら、それは、創価学会が、知識帰命を強調する危険な宗教に変貌することを意味する。

 このように見てくれば、知識帰命の程度は、その宗教の健全性を推し量る尺度であると言えまいか。文鮮明は、ただのスケベオヤジであり、髭面の豚が空中に浮遊するはずがない。福永法源に至っては、私でも、明日から化けられる程度の教祖である。尤も、私なら、足の裏占いよりはオッパイ占いを提唱するだろうが。


「正義の味方、庶民の味方」は営業政策

2017年01月19日 23時09分08秒 | 昔の記事

2004年に書いたものです。

 テレビや新聞は、庶民の味方である。この点は間違いない。しかし、テレビや新聞は、庶民の味方をすることが正義だと考えているわけではない。テレビや新聞にとって、庶民の味方をすることは、単なる営業政策でしかない。

 これは、少し考えれば解ることである。例えば、テレビ。放送局の収入は、企業からの広告料である。広告主は、インスタントラーメン屋や、歯磨き粉屋である。ジェット機のコマーシャルなど見たことがない。金持ちでも庶民でも、一度に食べるラーメンは1食分である。一度に使う歯磨き粉の量も、金持ちと貧乏人で大きな差はない。それならば、より数の多い庶民の味方をした方が、視聴率が稼げる。視聴率が稼げれば、広告料を高く設定できる。広告料が高くなれば、テレビ局の収入が増える。つまり、訳の分からない広告に踊らされて、シャンプーやラーメンを買う馬鹿な庶民の味方をした方が儲かるのである。

 新聞の場合も事情は同じ。お金持ちも庶民も、一人1部しか、新聞を買ってくれないから、お金持ちの味方をするより、庶民の味方をする方が、売り上げを期待できる。これまた、庶民の味方をする方が儲かるのである。

 更に言わせてもらえば、当然のことながら、テレビ局の人間は、庶民であることが立派なことだとは考えていない。その証拠に、テレビ局に勤める職員の給料は、庶民より上等である。例えば、大卒の職員の場合、四十歳までに、年収1千万円を越えている。テレビ局に勤めるというのは、オイシイことなのである。
もうひとつ、嫌味を言わせてもらえば、馬鹿を騙す広告を作っている奴らの給料は、テレビ局の連中よりも更に良い。例えば、私は、博報堂の社員で、四十歳にして年収1千5百万円の男を知っている。