4月・・・年度が替わってしまいました。
前回のブログの最後に書きました、私に起きた「まさか」の展開・・。
それは・・
私が新型コロナウイルスに感染してしまったのです(-_-;)
2月28日の仕事を終えた夜に、体に悪寒を覚え「おかしいな~」と思いつつ、その日は風邪薬を飲んで早めに寝ました。
翌朝、体のダルさはかなり感じるものの「ず~っと働き詰め・動き詰めで疲れが溜まりに溜まっているのだろう・・気持ちで乗り切れっ!」とその日の仕事に向かいました。・・・しかし、現場ではどんどん調子が悪くなるばかり・・。体に力が入らず、立ってられなくなってきました・・・(-_-;)
なんとか・・本当になんとか仕事をやり切り、気を抜くと倒れるような感覚の中で作業場(道場)に戻りました。
道場に置いてあった抗原体検査キット(横須賀大会の時にスタッフに支給されました)に気づき、「一応やってみるか・・」と霞む目でトリセツを読んでやってみたところ、検査キットに二本の線が現れると「陽性(つまりコロナ感染)」と説明書に書いてあったのですが、私の場合は一本線とうっす~~いもう1本の線・・。
「これはどっちなんだろう・・?」と思いながら、後片付けをして作業場を閉めて自宅に帰宅しましたが、いよいよもう本当に体力の限界。
仕事が休みで自宅に居た奥さんが「絶対にこれは病院に行った方が良い」ということで、コロナの対応をしてくれる病院を探してもらい、車に乗せられて病院に行き、抗原体検査をしたところ看護師さんから・・
「バッチリと出ました。陽性です」とのこと(-_-;)(-_-;)
約2年前から新型コロナウイルス感染症が世間で蔓延し、第1~6波とあった中、「絶対に俺はかからない!」と根拠は無いですがなぜか強い自信(?)を持っていましたが、その自信は崩れ去り、その瞬間から隔離・療養ということになりました。
自分がコロナだということが分かると・・病気に逆らっていた気持ちが切れたせいなのか、喉は尖ったもので傷つけれたみたいに痛くなり、熱は出て40℃を超える時もあり、体全体のダルさ節々の痛み、味覚嗅覚障害などがオンパレードで出てきます。薬で熱を下げ、痛み止めでしのぎましたが、最初の2~3日はかなりキツい状態でした。4日目くらいから喉の痛みは引いてきて、熱も安定してきました。自宅の一室での隔離ですから、家族にうつしてしまわないように、トイレやシャワーに行くときはアルコール除菌スプレーを常に持っていき、自分の触った場所や歩いた場所には多めに消毒をしました。
自宅で隔離・療養中の様子
今回は完全に隔離・・・ということで、無条件で道場は休まなければいけない事態になってしまいました。
21年前に泉中田道場を開設してから今まで、様々な用事やケガや病気などで幾度か休館のピンチを迎えましたが「何があっても稽古日に道場を休みにしたことが無い」ということが、私の人生の中で数少ない大きく誇れることの中の一つだった(脚の半月板が損傷して手術入院した時も、病院に外出届を出して道場を開けたくらいです)のですが、その連勝記録(?)はとうとうストップしてしまいました。仕方ないことですが・・。
そんな状態の3月前半の道場を救ってくれ、運営してくれたのは当道場で師範代格の西岡義高指導員(初段)でした。私が休んでいた間、2回(2日間)道場を開けて通常稽古の3クラスを全て指導してくれ、生徒達が長い時間稽古から遠ざかることを防いでくれました。(建石純子マネさんと保福正明指導補佐も西岡指導員を補佐してくれました・・ありがたい)
その時の稽古の様子を写真にてお届けします。
通常の稽古に加え、ラダートレーニングやサーキットトレーニングなど、楽しくてタメになるトレーニングを行ってくれたようです。
せっかくで良い機会ですから、当道場の師範代格であり唯一の黒帯取得者であり、最も大会実績があり、私が指導の代行を安心して頼める西岡義高指導員について、簡単ではありますがこの記事で紹介させていただきます。生徒の皆さんも深くは知らないと思われる、彼の人となりやどんな空手道人生を送ってきたのか、少し分かると思います。
入門から2~3年、黄色帯の頃。木元道場内部試合に出場を始めた頃です。現在は白髪で貫録がついてきていますが、当時は茶髪で甘いルックス・・若いです(笑)
緑帯の頃。オープントーナメント全関東大会、栃木支部主催の関東交流試合(現関東錬成大会)など、他の支部の選手達の出場する競技レベルの高い大会にも挑戦を始めました。2007年、栃木で行われた関東交流試合での一般男子軽量級優勝は、今も誇れる大きな実績だと思います。
茶帯から黒帯への昇段審査。立派な内容での昇段でした。そしてその同時期、また大きな実績を重ねました。空手ドリームフェスティバル全日本大会への挑戦と入賞です。シニア(壮年)の部とはいえ、全日本大会での入賞は本当に至難のこと。しかも彼は2012~14と3年連続で入賞しているのです!(2012準優勝・2013第3位・2014準優勝)
大会にコンスタントに出続けた期間は2004~17年くらいに終えましたが、その後も大会挑戦は辞めてはおらず、スポットで出場する地方大会では入賞や優勝を重ねました。本当に大したもんです\(^o^)/
西岡初段は2001年に私が泉区中田北の公民館で道場を開設した年に23歳で入門をしてきた泉中田道場の1期生と言える生徒です(つまり空手修行歴20年以上です!)。まだ名称は極真会館だったころで、当時の格闘技ブームもあり、道場には少年・少女・一般男子・女性・壮年を問わずに毎月・・いや、毎回の稽古に見学者・入門者が来るような感じで1回の稽古参加人数も多く(少年30~40名、一般10~20名くらい)本当に賑やかで活気に溢れ、それでいて昔の「極真」の厳しい稽古の雰囲気の名残を残している時代でした。
現役選手に一区切りをつけ、道場主・指導責任者として新進気鋭だった私も「まずは極真空手の強さを道場に来る人みんなに知らしてから、教えてやる!」とまさにいちばん気合の乗っていた(いい意味でも悪い意味でも・・悪い意味が多いか・・(-_-;))頃で、大学ではテニスやスノボのサークルで鳴らしたという(?)細身で茶髪で二枚目で少しチャラめ軽め(?)の彼について「ま、この世界でいつまで続くかなぁ・・?」というような目で見ていたのが、入門当初の正直な実感でした(西岡君、失礼しました!)。
入門して色帯の頃は、私やその頃の師範代格のY君(4級)をはじめとした先輩や、イキのいい同輩からの厳しい打撃をまだ鍛えられていない細身の体にたくさん受ける時もあり、キツく苦しい稽古日・稽古時間を過ごしている彼を見るのも珍しいことではありませんでした。
しかしそんな中でも、常にコンスタントに道場に来て、苦しい稽古にも真正直に挑むことを継続した成果か、内部試合を数回入賞して卒業する頃になると、体力や技術が少しずつ高まりを見せ、戦果が出るようになってきました。
彼にはまた少し失礼な言い方で申し訳ないですが、体格や体力(パワー)はもとより瞬発力や機敏性・柔軟性など、格闘に有利な先天的才能はそんなには恵まれている方ではなかったと思います。しかし彼は「空手で己を鍛錬すること・チャレンジすることが楽しい!」という純粋な気持ちをず~っと持ち続けられる人でした。その気持ちを持ったうえでの稽古・努力を長い日々やり続けられたことが、後に他人が聞いたら「スゴイ!」と驚くであろう数々の素晴らしい実績を手にすることに繋がったのだと思います。私が彼を見ていてスゴイしエライな~と思うのは、彼の挑戦に悲壮感はありません。その時に「やってみたいから、やってみよう!」という軽やかで爽やかなチャレンジ精神(挑戦心)とも言えるもので、まさにチャレンジを楽しんでいます。そのチャレンジ精神は東京マラソン出場やママチャリレース出場その他など、空手以外にも多岐に及んでいます。その精神は泉中田道場の生徒・・・特に若い生徒にはぜひ見習ってほしい姿だと思います。どんなに練習を重ねても、発表する場への挑戦無くしては、皆が認め自分を満足させる大きな成果・戦果は無く、例え敗北したとしても、それは失敗でなく経験として後の自分の成功への糧になるのです。その挑戦はだれも咎めません。
私もその軽やかで爽やかなチャレンジ精神に触発・誘発され、とても良い経験ができたことがあるのでそれを書かせていただきます。
彼についての感謝やエピソードは多すぎて、全部話したらそれこそ数回の連載にしなければならないので今回は一つだけ・・
私が最後の試合挑戦にて、型競技では最初の挑戦だった2015年空手ドリームフェスティバル全日本大会出場を決定づけてくれた彼の言葉です。私は現役選手時代(1988~1998)に組手の試合はたくさん経験があるのですが、型の試合というのは現役を終えてから組織の中で開始・開催されたので経験がありません。だから型試合の出る選手を指導していても「俺は型については自信が無いわけではないけど、実際の試合での経験や実績は無いもんな~」と思って、少し弱い気持ちになってしまうことがあり「やはり1回は経験しなければダメかなぁ・・・いやいや、指導者になった今さらに型の試合にノコノコ出て、1回戦で負けたりしたら面目丸つぶれどころの騒ぎではないな~。やっぱりやめよう・・べつに現役時代に闘ったライバル選手達(多くは現在は支部長)が型の試合に出て、やってるわけでもないのだし・・」との思いが揺れ動く日々が数年間続いていました。2015ドリームフェスティバル全日本大会の申込〆切が近いある日に、そんな気持ちを西岡君に話したところ「先生、それは先生がやってみたいと思う気持ちの方が強いからですよ。どうせ後悔するなら、出ないで後悔するより出て後悔した方が私は良いと思います」という、どちらが先生でどちらが生徒か分からない素晴らしいアドバイスをもらい「よ~し、ではやってみるか!もし負けたら優勝・入賞するまで出続ければいいんだ!」という気持ちになることができました。先述しましたが、数々の大会で思うような結果を出せなくても、恐れずに再度のチャレンジを行い、良い結果を手に入れたことのある西岡君の言葉だったから、その言葉が私に響いたというのは、もちろんあったでしょう。おかげで大会に出場することができ、目標であった優勝はできませんでしたが準優勝をすることができ、いろいろな方々からありがたいお褒めの言葉や労いの言葉を頂けました。なによりこの大会に出て試合をしたことで、大会に向けての努力をしたことで、私の中に「実証できた」という自信の厚みが出て、それは生徒に指導するうえで大いに役立っています(このブログ・・2015年ドリームカップの記事を参照)。
なんか、とても長くなり止まらなくなってきたので今回の西岡君記事はここまでに・・。まだまだ、たっくさんあるのですが・・(笑)
彼が現在でも師範代格になって道場を支えてくれる存在になってくれているのは、これも私の人生で自慢でき誇れることの一つなのです。だから西岡指導員の稽古にも振るって参加してください!
最後にもう一つ。
今年の4月から彼の娘さんが通っている小学校のPTA会長に就任したそうです!しかも立候補で!(苦笑)
私も娘や息子の中学校でPTAの端役ですが役員をやったことはありますが、会長はたいへんだ・・ということで断りました(-_-;)
どこの学校でも、やってくれる人を探すのが大変だと聞き及ぶ大役を自ら立候補して引き受けるあたり・・
彼の軽やかで爽やかなチャレンジ精神は全く衰えがありません!おそらく素晴らしい会長になるでしょう。
頑張れ西岡PTA会長!(笑)
隔離生活が終わった後には隔離に使った部屋や車の中の除菌・除染活動。これもどこまでやればいいのか・・本当にキリがないのでかなり大変でした。やはりコロナは普通の風邪では無いと身に沁みました(苦笑)
3月後半より道場に戻ることができました。めっきり体力は落ちましたが(体重も3㎏落ちました)稽古指導の再開。
実は3月9日は泉中田の道場の誕生日(活動開始日)なのです。今年のその日は自宅での隔離生活真っ最中でしたが・・(苦笑)
ここ数カ月で新規入門者が数名おりました(ありがたいです)。
道場の稽古風景もまた新しい顔ぶれが加わり、新しい歴史が重なっていきます。
22年目の泉中田道場も皆さんよろしくお願いします。