YOSHIの果てしない旅(人々との出会い、そして別れ)

ソ連、西欧列車の旅、英国滞在、欧州横断ヒッチ、イスラエルのキブツ生活、シルクロード、インド、豪州大陸横断ヒッチの旅の話。

学生時代

2021-07-05 16:39:13 | 「YOSHIの果てしない旅」 第1章 プロローグ
学生時代                              

 『私が外国に憧れ、そして、旅に出たい』と漠然と想うようになったのは、いつ頃であったのであろうか。見知らぬ異国の旅、ふらっと小さな駅を1人列車から降りる。言葉も、方向も分らない静かな町。幸せそうな家々が建ち並び、そして、私など見向きもしないで人々が通り過ぎて行く。1人公園で物思いに深け、明日は何処へ行くのか宛てのない旅。感傷的に、そして、哀愁を感じるそんな旅を。
 確かそれは、昭和35年(1960年)の高等学校1年の秋頃であったであろうか、私のクラスの右後ろの席に居た“中村君”(G市から通学していて眼鏡を掛けていた人)が、フイリッピン人と文通しているのを知った。それに刺激された私は、『自分も異国の人と文通をして見たい、外国を肌で感じて見たい』と言う事から始まったのだと思う。
 所が、私は英語で手紙を書く能力は全くありませんでしたので、それから約1年間、自分なりに一生懸命、英作文の勉強をしました。翌年の高校2年の春頃、国際ペンフレンドクラブに入会し、会からアメリカのニシシッピー州ニューオリンズに住む、『ブレンダ』と言う女の子を紹介されました。早速私は手紙を出したら、彼女のエアー・メールの返事が来ました。その時の気分は天にも昇る様で非常に嬉しかった事を、今でも忘れる事が出来ません。それは紛れもない異国の香り、アメリカの香りのする手紙でした。しかし、4回か5回程の手紙のやり取りをしてから後、アメリカ娘からピタリと手紙が来なくなりました。その後再び、フランスの女性とも数回、文通しましたが、又も相手方からの音信が途絶えました。これは自分の下手な英語の所為で、仕方ないと思いました。
  私はまだ諦めず、再度ペンフレンドクラブに紹介方をお願いし、イギリスのウェールズに住む女性に手紙を出しました。その方(Mairwen Vemeys)は、既にある日本人と文通していたので、彼女の友達のSheila Morgan(シーラモーガン)を紹介され、その彼女の手紙が同封されていた。シーラは高校1年生で私より一つ下でそれ以後、1961年から1980年まで19年間、文通が続いた。
 シーラとの文通を始めたが、『外国、特に欧米の国へ行って見たい。肌で感じて見たい』と言う想い憧れは、文通では満たされず、何かもやもやしている頃、ある本を読んだ。それは、ドイツ青年4人が自転車で世界一周旅行をした体験談の本でした。心は弾み、そして『旅に出たい』と言う強い願望の現われと成って来た。その後、更に市の図書館で小田実氏の「ヨーロッパ何でも見てやろう」と言う本を読んで、益々『一度でよいから外国へ行って見たい』と言う、走る心を止める事が出来なかった。

まえがき

2021-07-05 11:14:44 | 「YOSHIの果てしない旅」 第1章 プロローグ
                                       まえがき
 
 昭和43年7月13日、私は横浜から船で出国し、昭和44年7月6日の実家へ帰るまでの1年間、多くの国を旅して来ました。私はそれぞれの国で見聞した事、体験した事、感じた事、思った事等を日記に書いていました。この本は、その日記帳に基づいて書いたものです。
 当時、私は23歳の若造で世間知らず、且つ、色々な事についての知識、能力、或いは常識等がありませんでした。従ってその行動は、突飛で考え方の面でも、幼稚な所が多くありました。その様な私でありますので、読者の皆様は、その辺りを十分ご理解して頂ければ、幸いです。
 私が就職した昭和38年の初任給は、1万2千円でした。夏季ボーナスは支給されず、暮れのボーナスは2万5千円支給されました。しかしそのボーナスも、キャノンカメラを購入したら、無くなりました。私が旅の為に退職する23歳の時の給与(基本給)は、月2万3千円でした。  
 外国旅行をする為、就職してから退職するまでの5年3ヶ月間、何も贅沢せず、何処にも遊びに行かず、ひたすら貯蓄して50万円貯めました。当時は固定相場の1ドル360円でした。海外持ち出しドルは500ドル以下、円持ち出しは2万円以下、と決められていました。現金、ドル、又はトラベラーズチェック(旅行用小切手)にしろ、貿易外取引の管理に関する省令により『海外渡航の為の外国へ向けた支払承認・許可申請書』を大蔵省に申請し、大蔵大臣(大蔵省)の許可が下りなければ、銀行に行ってもドル交換や、トラベラーズチェックを作ってくれませんでした。渡航に関し制限がある時代で、円持ち出しや持ち込みは、出入国の際にチェックがありました。又、当時の外国で円使用は、常識外(円に対する信用度、或いは円の価値が低い等の理由)でありました。
 私は、最大限の500ドルの認可が下りましたが、ソ連経由のその諸費用は、『ドル建て』の70ドルでした。ソ連は、円よりドルを欲しがっていたのです。従って、私の持ち出しドルは、現金30ドルとトラベラーズチェック400ドル分でした。
 所得は低く、しかも円安・ドル高の状況下で、一般市民にとってまだ海外旅行は、遠い世界であった。この様な当時の経済・国際状況をもご理解して、この日記を読んで頂きたいと思います。従って、430ドルと2万円の所持金で1年間、多くの国を旅した事は当然色々な苦労がありましたが、その反面、色々な経験をして来ました。私は、各国で見た事、感じた事、体験や経験した事をここに纏め、自分の宝物として大事にしたいと思います。
  この本(私の旅日記)は、嘘、偽り誇張のない事をあえて申し上げたいと思います。尚、私の旅日記の中に――『省略』――が幾つかありまが、これは私が観光巡りをした話です。読者さんにとってはガイドブック(観光案内についての本)を読めば良い事で、その点については極力省略しました。
 最後に、国語力(作文力)のない為、誤文・誤字・脱字等が沢山あると思われますが、楽しんで読んで頂ければ幸いです。